世界は優しい人で満ちている
僕が和君の失態について祖母に知られないように誤魔化すかと、悩んだところで僕の恋人が颯爽と助け舟を出してくれた。
「その百目鬼さんからの電話で、玄人とのドライブを許して貰ったんですよ。僕は良い子にしていますからね。」
僕は感謝の気持ちで山口を見上げると、彼は本当に嬉しそうに微笑み返してくれた。僕の肩を抱く左手の人差し指には僕の贈ったホピ族の太陽が鈍く輝く。僕が彼が贈ってくれたナヴァホの意匠に似た羽根の形のイヤーカーフを右耳から外さないように、彼も僕が贈った指輪を決して外さないのだ。
そんな僕達を同性同士と嫌な顔をするどころか葉子は受け入れてくれて、僕の祖母は山口が大のお気に入りで応援までしてくれている。
外回りから松野邸に寄った山口は駐車場にパトカーを置いているが、山口や楊の所属する相模原東署は松野邸から歩いて数分の距離だ。
ドライブする距離ではないが、彼女達はわかったように微笑んだ。
「仕方ないわねぇ。また直ぐに遊びに来るのよ。」
他人の家で自分の家のような事を言う祖母に、葉子は肩を竦めた。
「邪魔になったら気兼ねなく追い出していいですからね。」
僕が葉子に囁くと祖母に肩を叩かれたが、彼女は笑っている。
彼女は僕がこんな体になった事に酷く心を痛めていたのだ。
一緒にイギリスに旅行したのは、彼女は今までと違う僕を受け入れる練習をしたかったのだと思う。
鬼婆だけれど、彼女は愛情深いのだ。
イギリスでのヒースロー空港に降り立った僕らは、まず、祖母の飛行機酔いに遭遇した。
そこで、空港まで僕らを直々に迎えに来てくれたロバート・マックレイ教授――僕をイギリスに誘った張本人は、ロンドンに一泊して祖母の体を休めるように提案してくれたのである。
四十代前半の精力的な教授である彼は、赤味の強い茶色の髪に緑色の瞳をして、髭も髪型も整っているが、なぜかティディベアを彷彿とさせる愛嬌のある大男であった。
「せっかくのイギリス滞在で、ロンドンで遊ばないなんてもったいないですからね!オクスフォードに着いたら玄人君は勉強で咲子さんは寂しい思いをするのですから、明日元気になったら皆でロンドンで遊んで、それからオクスフォードに帰りましょう!」
オクスフォードでは祖母の旧友の男爵夫妻の家に僕達は居候する事になっており、そこで男爵夫人と騒々しくパーティ三昧を共謀している祖母でありながら、彼女はロバートの申し入れに大いに喜んだ。
そして翌日ケロッと元気になった祖母は僕達に荷物を持たせてショッピングを楽しみ、僕はナショナルギャラリーに連れて行って欲しいとお願いした事をロバートに叶えて貰ったのである。
「大好きなファン・エイクの絵があるのです。」
僕はエイクの写真のような質感と騙し絵のような絵柄が大好きなのだ。
ナショナルギャラリーにあるそれは婚姻が題材の絵であるが、新郎新婦の後ろに鏡があり、そこに絵の中に居ない人物が描かれている不思議な絵だ。
僕はその絵に堪能し、喜び、別のフロアに移動した時、祖母は大きな絵の前で立ち止まり、ポツリと呟いた。
「玄人の不幸はみんな私のせいね。」
その絵は白いドレスの若い女性が、いまにも首を切られようとする一場面が描かれたものだった。召使は気を失い、首切り役人は嘆き、目隠しをした白いドレスの女性が殉教者のように自分の首を切られる台を探っている、そんな絵だった。
「彼女は何も悪いことをした事も考えた事もない、美しく才能豊かな女性だったそうよ。それなのに権力に狂った周りに持ち上げられて、結局、処刑されたの。まだ十七歳くらいの少女だったのにね。」
僕はハラハラと涙を流しながらレディ・ジェーンの説明をする祖母に驚き、そしてそんな祖母を愛していると心から思えた。
「おばあちゃん。僕はね、不幸だったけど幸せなんだよ。この間まで誰も愛せないと、愛してはいけないと思い込んでいたけれど、この体になってから普通に愛していると言えるようになった。だから、きっと前よりも幸せなんだよ。」
僕の言葉に祖母は本格的に泣き出して、僕は彼女を絵の前の椅子に座らせて、彼女を抱えて囁き続けるしか出来なかった。
「泣かないで。僕は幸せで、おばあちゃんを愛しているよ。」
ロバートは祖母の様子に驚いて、そっと僕の隣に座ると、彼自身僕に尋ねたかっただろう事を窺わせる言葉を口にした。
祖母は英語を喋れるが今の彼女は日本語で泣き崩れているので、ロバートは僕達の会話がわからなかったからであろう。
「彼女が泣くのは今の君の姿のせいかい?僕は今の君も綺麗だと思うけれど、家族は男の子でいて欲しいと思うものだものね。それでも、君の思うように生きていいと思うよ。」
彼と初めて知り合った時に僕が彼に送った画像は中学生の頃で、学籍登録用に送ったパスポート画像は顔の部分だけだ。
彼はヒースロー空港で僕を目にして、僕の体が少女にしか見えない事に本当に驚いていたのだ。
それでも、その驚きを隠して、僕に普通に接してくれた優しい人でもある。
「僕は性転換をしたのではなくて、遺伝子がXXYだったのです。死ぬほどの大怪我が治ったらこんな姿に変わってしまって。」
僕は祖母を抱きしめてあやしながら、彼に遺伝子の暴走の事を告白した。
「XX……Y?作ったんじゃなくて、自然にその姿になった?」
「はい。気持ち悪いですよね。」
「そんな事ないよ!僕は君の気持ちも考えずに。ごめんね。勝手に思い違いをしていて。望まない体の変化を受けた君こそ辛かったのにね。」
何たる事。
彼までも泣き出してしまったのだった。
僕は泣く二人の男女を両腕で抱きしめて、ナショナルギャラリーのベンチに間抜け顔で座るしかなかったのである。
レディジェーンを前にして。
けれども、世界は何て優しい人間で満ちているのだろう。