僕がいなくても君は羽ばたく
僕は大きく息を吸い込んだ。
吸い込んだら治ったばかりの傷が少々引きつって痛んだが、幼馴染の家の前で逡巡している僕には、その引きつりは僕の罰か罪悪感の痛みでしかない。
僕は嘘つきで、約束を破った愚か者だ。
自分が一番で傷つきたくないからと、僕よりも傷ついていて、いまや友人もなく一人ぼっちの幼馴染に一言もなく僕は姿を消したのだ。
「何をしているの?」
彼女だ。
もう二ヶ月は音沙汰なしの自分に怒りも不満もなく、いつもと同じ調子の、いつもと同じ声で、彼女は声をかけてくれたとは。
「クロくんよね。怪我はもういいの?」
心配した声音に変わった。
僕は振り向いて、振り向かなくても声は出さなければいけないのに、彼女が僕を見る目まで変わるところが恐ろしくて動けなかった。
僕は大怪我を負った事によって、姿も声も以前とは変わってしまったのだ。
「どうしたって言うのよ。怪我の跡が残ってたって、私がクロくんを好きなのは変わらないんだからね!」
彼女は全然変わっていない。
幼い頃から僕がうじうじしていると、彼女が全てを決めてくれたのだ。
彼女は振り向かず声も出さない僕を、つかんで、引っ張って、振り向かせたのだ。
「ウソ。」
思わず口にしたのは僕だった。
彼女は変わっていた。
二ヶ月ぶりの彼女は生来の美しさを取り戻して、光を放つほど幸せそうに輝いていた。
二年間引き篭もって太っていた体はしゅっと細身に変わり、小柄な体に見合う小作りな造作の顔は美しい小鳥のように可愛らしい。僕は花開いた彼女の美しさに感嘆しながら、彼女は自分の存在無しに立ち直り自分の助け無しに前に進んでいたのだと、情けなくもその事実に打ちのめされてもいた。
それでも僕は彼女にとって重要な人間だと思っていたいと、僕が彼女を傷つけていたと思いたい自分がおり、彼女に自然と謝っていたのである。
「ごめんね。怪我で僕が変わっちゃったから、君に会いに来れなくて。」
彼女は僕の声を知り、姿を知って、少し泣いた。
泣いてくれる彼女に、僕の存在は彼女には大事だったはずだと、失った自分を嘆いて貰っているようで、僕も彼女と一緒に涙を流した。
僕は今までそのことで泣けなかったのだ。
生き残るために体が変化したのである。
僕が生き延びたと喜ぶ家族の中で、体が変化した事が「辛い」とは口に出せるものではない。僕は彼女に再会して、彼女に自分の境遇を泣いて貰うことを通して、自分自身の変化が自分には辛く、そして情けないと、醜いと、自分を哀れむことがようやくできたのである。
「泣かないで。あたしは大丈夫だったから。クロくんがいなくても大丈夫だったから。だからクロくんも泣かないで。凄く可愛いよ。全然前よりもいいかも。うん、なんだか本当のクロくんの真の姿って感じもする。」
え?
「そうだ、あたしね、勉強を教えてくれる大学の先生と今度結婚するの。家族皆で横浜市に近々引っ越す事になったから、今日クロ君に逢えて本当に良かった。引越し先の住所の葉書を出すから、今度はちゃんと遊びに来るのよ。」
「え?」
僕の紹介で橋場建設の仕事を受けた父親は、彼の清廉潔白な所が気に入られ、いまや会計顧問として重用されて部下と部署までも貰い、橋場の山藤ビルと呼ばれる大社屋に通う毎日だとは聞いている。
「え、うそ!山藤ビルは相模原なのに引っ越すの!」
僕は思わず叫んじゃった。
横浜市から毎日相模原に通勤するの?って。
「横浜市のビルに会計専門の部署を引越しさせたの。なあなあになったら良い監査が出来ないからって。今度住むマンションも決まっているの!」
幸せいっぱいの彼女を眺めているうちに、僕は在原業平の気持ちがわかったかもしれない。
白玉が何ぞと人の問ひし時 つゆとこたえて 消えなましものを
(あの光る玉は何ですか?と君が聞いたときに「あれは露だよ。」と誇らしく教えてあげたその時に露と一緒に自分も消えてなくなればよかったのに。)
君に勉強を教えていたあの時に僕は戻りたいよ。僕も君もお互いに恋心は抱いていなかったけれど、君に頼られ慕われて、男としてとても自信を持てたひと時であったのだ。
それにしても、相手が、え?なまず?
東大卒で私大の講師をしている優秀な研究者の鯰江大地は、女性に手が早い探求者でもあったとは。チクショウ。
「大ちゃんは今度講師から準教授になるの。アメリカで講演もしているし、海外の学会も参加して精力的に頑張っているから、私を色々な所に連れて行ってくれるって。結婚しても大学には通いなさいって。結婚はね、あたしの名前で検索すると妹が酷い目に会っている動画が出てくるからね、大学に入る前に名前を変えた方がいいかなって。」
彼女は彼女で苦しんでいたのだ。
彼女の双子の妹は彼女と間違われて乱暴されたことで自殺して、彼女の兄はその復讐で命を失ったのである。
僕が彼女を友人だと思うように彼女も僕を友人だと思っていたら、彼女は僕という友人が消えた時点で一人で辛く悲しい思いをしていたはずだ。
それでもくだらない僕は、幸せになろうとしている彼女にとって無力でしかない自分を嘆くばかりで、僕は幸せそうな幼馴染に「おめでとう。」と言ってあげるのが精一杯だった。