京之介、幼馴染みと出会う。
菊市が黙ってうなずくのを見ると、私は菊市を連れ添って組屋敷を後にし、裏小路に出た。
少し傾き始めた日差しを背に受けながら西に向かって歩き出すと、夕餉の刻が近いせいだろうか、威勢の良い物売りと買い出しの人々の掛け声が行き交う通りに出る。
普通、大通りに構える大店を「表店」と呼び、裏通りに構える小店を「裏店」と呼ぶのだが、その裏店がひしめき合って軒下に色々な売り物を並べていた。
活気のある景色を眺め、華やかになって行く雰囲気を楽しみながら少し歩くと、職人の町へ行く者と商人の町へ行く者との別れ道である「中の橋」が目に入った。
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「…桜が綺麗だ…」
川の流れに沿って緩やかな弧を描き続ける桜並木を眺めながら私は、心地良い気分で中の橋を渡り終えようとした時、
「そちらに啣すのは、かにも有名な『人騒がせ同心』のお若様ではございませんか?」
そう背後から掛けられた言葉に、私はピクリと体を震わせた。
…何で、急いでいる時に限って、一番会いたくない奴に会ってしまうのだろう。
苛立つように顔をしかめると、振り向き様、冷たい視線を浴びせた。
「…平九郎さん。私の名字は『人騒がせ同心』ではありません。『支倉』です」
露骨に平九郎の顔を睨みつけているのだが、睨み付けているのにもかかわらず平九郎は、口元をニヤリと歪ませる。
「いやあ、そう仰られましても、例えあっしがそう呼びたくなくってもですよ?世間という天道様が、それを許しちゃあくれません。それはお若様がよくご存じのはずでしょう... ?」
私はその言葉に、ぐっと言葉が詰まった。
心当たりがありすぎて、頭が痛くなる。
この出会い頭で失礼な態度を取るこの男は、中の橋周辺で商いをしている、読売り(瓦版を売って歩く商売人の事。
瓦版とは、今でいう新聞や雑誌などの情報誌の事)だ。
一応、同じ寺子屋に通っていた幼馴染である。
いくら武士だといっても支倉家は下級武士だったこともあり、物心ついた頃から近所の元旗本で学者崩れの先生が開いている寺子屋に通っていたのだ。
町人の平九郎とはその寺子屋で知り合い、大変仲が良かったのだが、ある時を境に…ピタリと平九郎が話しかけなくなった。
更に、このように読売りになってからは、顔を合わせれば嫌味な言葉に態度を取る。
幼い頃は、いつも私の後ろを追いかけるように一緒にいたのに…何でこうなったのだろう。
私は平九郎の急変ぶりが理解出来ず、顔を合わせるたびに苛立ってしまうのだ。
ひょろっと伸びた背丈を持て余している嫌味な平九郎は、成長期真っ只中…。
という事は、まだまだ背丈が低いという事になるが、その私の目線の高さまで頼みもしないのに軽く屈むと、
「…京之介様のお父上の政之介様は、お役人様方の中でも最低年俸である『三十俵二人扶持』とは言われていますが、実際はその年俸以上の仕事をこなしています天下御免の十手持ち、北町奉行所の定町廻り同心でございます。将軍様のお膝元であるお江戸で、あっしら町人が安心して生活出来るのは、同心様方の日々の努力の賜物と感謝しております。しかし、それは、『人騒がせ同心』の政之助様を除いてだと思うのですが…あっしは、間違った事を言っていますでしょうかね?」
これでもかと言うぐらい、平九郎は小憎たらしい笑顔を浮かべる。
私は、言い返せなかった。
間違ってない。
悲しいぐらい、正解なのだ。
顔をしかめる私の顔を覗き込む平九郎は、ぱっと見ると好青年の印象を与える。
しかし、今では好青年の雰囲気は何処かへ消え去り、まるで非難するような目で私を見つめるのだ。
スッと息を吸い込むと、ニコっと口角を引き上げて笑顔を作る。
「世間話をしたいのなら、つまらない話しか出来ない私ではなく、もっと面白い話をしてくれる方を探してください。私は約束があるので…」
形だけの挨拶をすると私は、平九郎の言葉を待たずに踵を返して歩き出した。
しかし、
「これは驚いた。京之介様のお父上様の話ほどの面白い話は、そうはございません。『人騒がせ同心』と言ったら、誰でも知っている評判の女好きではありませんか?」
平九郎の放った言葉で、私の体はその場から動けなくなる。
「…花魁や商売女との色恋沙汰なら笑い話にもなりますが、お父上様の相手は殆ど、妙齢の町娘や色気ムンムンの未亡人ばかり。それも、相手の気持ちや迷惑などお構いなしに迫っていたと思えば、すぐに違う女に心変わりをなされる始末。今まで何人の町娘や未亡人が亡き、あっしの書く瓦版の見出しを飾った事でしょう…」
頭が沸騰するという例え話は、まさに今使うべきだろう。
聞きたくない言葉を無理矢理に聞かされる程、屈辱的な事はない。
立ち止まった私を背中に近づきながら、平九郎は傷口に塩で擦るかのように話を続ける。
「…それだけならまだしも、 本来の仕事である捕物でさえ、政之助様はこれっぽっちも役に立たない…失礼。本領を発揮出来ず、他の同心の方々の捕物の邪魔はかりしてしまう始末。思い込みや都合の良い解釈をなされて大勢の人々を振り回し、挙げ句の果ては無実の者を小伝馬町の牢屋敷に送り込んでみたり、御用改めだと言って大店の屋敷の中を盜戒ごとく荒らしたのに証拠が見つからず、多くの人々に顰蹙を買った当の本人は何事も無かったようにケロッとしているのですから、大物と言うのか、何と言うのか…」
私は、頭を抱えたい衝動に駆られるがグッと堪えた。
息子として、弁解する余地無し。
全てが本当で、事実なのだ。
恐ろしい事に、父上の肩書は「定町廻り同心」である。
この世は自分中心に回っていると信じて疑わない「唯我独尊」の大馬鹿野郎が何故、「同心」などという役所仕事をしているかというと…支倉家は先祖代々お上から同心の役柄を頂戴しているのだ。
いくら父上が色恋沙汰で問題を起こしても、間違った情報で大店に踏み込んで大騒ぎを起こしても、多少・・・でもないと私は思うのだが、何とか今まで同心をやってこれたのだが…。
この頃、父上の目に余る暴君ぶりに人々の避難の視線が集まり出した。
それと同時に、息子である私まで非難の視線を向けられるようになったのだ。
ほんの些細な捕り物が、これでもかというぐらいに大捕り物に発展させた上に、大勢の人々に迷惑をかけて終焉を迎える。
いつからか父上は「人騒がせ同心」 と呼ばれるようになり、今では…瓦版の常連となってしまったのだ。
載ってない瓦版を数えたほうが早いぐらいなのである。
それと同時期に私は、不名誉な事に「人騒がせ同心の息子」と呼ばれるようになった。
道を歩けば、そう名を呼ばれて揶揄われて育ったのだ。
…理不尽である。
全ては父が行った事だ。
何で父上の行った事で、血が繋がっている私が責められなければならない。
視線を落として地面ばかり見つめていた私は、視線をパッと跳ね上げた。
スッと姿勢を正して振り返ると、平九郎を見上げるように顔を上げる。
長めの前髪のせいで隠れがちな私の目が、平九郎の顔を真正面で捕らえた。
「…今の話は、もう終わった事でしょう?ご迷惑をお掛けした方々から恨み辛みを含われるのでしたら、何時間でも話を聞きますし、謝りもする。いくら読売屋とはいえ、何故そこまで言うのですか?言いたい事があるのでしたら、息子の私ではなく、直接本人に言うべきでしょう?顔を合わせる度に、同じ事をネチネチと言われるのですから…非常に不愉快だ!」
そう厳しい口調で言い放った途端、グッと顔を平九郎へ近づけた。
途端、今まで勝ち誇ったように仁王立ちをする平九郎が、火が付いたように真っ赤になった。
「そ、それは…」
しどろもどろになって私の視線を外した平九郎は、両手を振りながら何かを否定しようとしたのだが…。
「まあまあ」
事の成り行きを少し離れた場所で見守っていた菊市の言葉で、それらは遮られる。
菊市はクククっと含み笑いを零しながら、私の顔を見た。
「京之介様には何故、平九郎がご自身に絡んでくるのかお判りになられないでしょう?…平九郎は、京之介様の気を引きたくて、顔を合わせればつい憎まれ口を叩いてしまうのですよ」
菊市の言葉に、正解だと言わんばかりに平九郎は、赤かった顔をもっと赤らませた。
「小さい頃から利発でいらっしゃった京之介様の後ろを追いかけていた小柄な平九郎も、今では背ばっかり大きく伸びて、一人前の読売りとして独り立ちしましたが…相手の気を引きたいが為に苛めるとは、まだまだ子供でございますねえ…」
訳の分からない事を口にした菊市に視線を向けると、菊市は楽しそうに笑いながら平九郎を見つめる。
いたたまれなくなったのか、平九郎は大声を張り上げた。
「ち、違う!断じて違う!」
私は、菊市の言葉の意味が理解出来なかった。
しかし、菊市の含み笑いと平九郎の豹変ぶりを見れば、一つの仮説が成り立つ。
ま、まさか、こいつ…。
私を女子のように思っているのか?
確かに母上に似た顔立ちをしているが…私は男である。
背も、成長期だから低いとしても、体付きも華奢だとしても…男である。
たまに、男装をした女子に間違えられることがあったとしても…。
男なのだ!
殺意にも似た冷ややかな眼差しを向ける私と、クククと笑止する菊市の二人を相手にして平九郎は、いたたまれなくなったのか体を丸めて逃げ腰の構えを取ると、
「…言っておきますが、菊市さんがおっしゃった事はでたらめでございますから!あ、あっしはこれにて失礼…」
そう、赤みを帯びた顔のまま言い放った。
逃げるが勝ちのごとく橋を行き交う人波に紛れると、あっという間にその独活の大木は視界から消えた。
何とも言い難いモヤモヤした気持ちを抱いた私は、ある決意を強く誓う。
「人騒がせ同心の息子」と呼ばれ続けたのにも関わらず、私は捻くれもせず真面目に育った。これを人々は奇跡と呼んだのだが…。
物心がついた頃から私は、父上をその役職から引きずり落とし、蹴落としてでも早急に同心になると心に誓っていた。
その日を夢見て、人の二倍も三倍も努力を重ね、剣術や学問に精進してきたのだ。
何故、私がそこまで同心の役柄に執着するのかというと…。
自分が同心となり、支倉家の名誉を挽回しなければならないという正義感からであった。
そうならなければ、「名同心の支倉」と謳われていた先代の方々に申し訳が立たない。
同心となった後は、母上のような美しく聡明な女の方と巡り合って結ばれるのだ。
まるで幸せを絵に描いたような家庭を持ち、出世街道を歩んでやる。
私は、人生の勝者となるのだ!
と、心の中で雄叫びを上げた時、
「京之介様?」
菊市の声で、フッと私は我に返る。
緩みがちな頬を引き締めながら周りを見渡すと、いつの間にか今まで歩いていた通りとは比べられない程の道幅の大きな通りに、人が溢れ返っていた。
江戸一番の大通りである両脇には、江戸でも指折りの大店がぎっしりと並んでおり、どれも店の顔である長暖簾や看板に趣向を凝らして見た目の美しさや華やかさを競い合っている。
いつ訪れても、まるでお祭り騒ぎだ。
この神田から始まる大通りの終着点が、私たちの目指す「日本橋」であった。