プロローグ③ 精霊の加護
前回のあらすじ:失意のリースに姿無き誰かが声を掛けました
幻聴なのか、それともそこに誰かいるのか、そんなこともリースにはもう分からない。瞼は重く、辛うじて開かれた視界は暗い。声が更に近寄って来る。
『貴女の力を腐らせるのは勿体なくない?』
「あなたが誰かは知らないけど、そんなこと分からない。でも少なくとも勇者は私と必要としてない」
『神様贔屓の光の精霊の恩寵を受けたガキなんて闇に葬ればいいじゃない。貴女なら出来るでしょ?』
「……ヒトの世界はそれを許さない。勇者は人々の希望」
『だからもう自分のことさえ諦めると。傷を治して立ち上がって、アイツらを打倒することも諦めると? 貴女には想い人がいたでしょ。彼とはもういいの?』
「それは……」
闇の精霊の加護持ちだったリースに微笑みかけてくれた人を走馬燈のように全て思い出そうとしても、顔の細部も覚えていない両親と、フォン――彼しかいない。
駄目だ。思い出すとまた会いたいと思う気持ちと同時にもう会えないという絶望感に、心が塗りつぶされていくようだ――耳を過ぎる声が耳元で擽るように響いてくる。
激痛で熱を持った腹の底すら冷えるような、美しい女性の声だった。
『流暢に自己否定をしていたのに、止まったわね。別に悪いことではないわ。それはとても自然で、私好みだわ』
「……貴女は誰?」
『分かってるくせに。私は闇の精霊。夜の帳と人の心の深淵をこよなく愛するもの』
驚きかけたがリースは地面に這いつくばったまま表情1つ変えはしなかった。というかもう肉体の方は碌に力が入らない。血液はそこまで大量に出ていないが、赤熱していようかという傷の痛みに知覚鈍麻の術で対応したせいか。
情けないほどに脆い体だ……。リースは横たわりながら内心、自嘲してみた。
『諦めの入り混じった貴女の昏い思慕が私にとって甘美な捧げものとなる。貴女の人恋しさと同時に他人に対する諦観が私にとって最高の糧になる。だからまだ死んで欲しくはないの。精霊の声を聴くことの出来る者なんて貴重よ? 現6魔王たちでも聞こえないんだから』
「そっか……。私は6魔王よりも邪悪なんだ……」
『闇はただの闇よ。人に安らぎを与え知られたくない傷を覆い隠す。傷つきやすい貴女の隣人――決して邪悪などと呼べるものではないわ。勘違いしてる人間が多すぎるけど』
「そっか、闇の精霊さまには色々文句を言いたいけど……、まずは何しに私のところへ来たか教えて」
『来たんじゃなくて貴女が私に近付いたの。せっかく話せる人が出来たんだから助けてあげたいじゃない? まして敵対者が光の精霊の秘蔵っ子なら全力で殲滅することも辞さないわ』
闇の精霊さまはどうも勇者のことが嫌いらしい。リースも光属性持ちの人間は嫌いだし、多分属性由来の波長の問題なんだろうな。リースはそんなことをぼんやり考えていた。どうやら頭の中だけが高速で処理されているようで、地面に転がるリースへ勇者からのトドメはまだ来ない。
「後は手足バラシて有用なアイテムを引っぺがすだけか」
「あはは、私ら勇者一行っていうよりただの追い剥ぎ集団じゃない?」
「最初からクリーンな一行であろうという望みは捨てている。勇者殿の使命さえ果たせればそれ以外は些末なことです」
「別にいつも魔族相手にやっていることを、今日は魔族と人の中間みたいな奴にやっただけだ。俺たちのスタンスは世のため人のためというところからぶれてはいない。リース諦めろ。恨むならお前に闇の精霊の加護があることを恨め」
『本当に諦める? リースが望むのなら私は全力で貴女を助けてあげるわ』
クージスの聖剣の刃が腕に突き入れられる。もう流す涙も枯れた。だから、呟く。求める。たとえ口から零れる言葉が羽虫の羽ばたき程の情けない声であっても。
「助けて……」
「魔族擬きがまだ口を利くか。闇の眷属に助けなんてねえよ。死んでヒトの世界の礎になれ」
押し込まれた刃で前腕と上腕を繋ぐ腱がギリギリと少しずつ切断されていく。知覚を鈍麻させる闇術を使っていなかったら痛みでリースが発狂していたかもしれない。
『傷つき絶望にもがく貴女の痛みはとても甘美だわ。それだけで100年は光の精霊と殴り合いが出来るくらいよ。さあ貴女は微睡んでいていいわ。後は私がやってあげる』
精霊の言葉を最後に、リースの身体から痛みが消えた。手足が勝手に動き、切り落とされかけていた腕を厭わずに大きく飛び退く。
口が勝手に開き、思ってもいなかった言葉を紡ぎ出した。
「さて、勇者――クージスって言ったかしら、お前みたいな邪悪な奴が光の精霊の加護の眷属に連なっているとはねえ、アイツのことは嫌いだけどちょっと同情するわ」
「リース、お前まだやる気か!」
「往生際の悪い女ね」
「さて、私は自分の性別を知らないけど、その言葉はそこのウィルとかいう小娘にそっくりそのまま返してあげるわ」
「リースよ、どのみち我々のやることに変わりはない。覚悟してもらおう――闇払い! これでお前さんの一番長けた闇術は封じた。これ以上痛い目を見たくないなら――」
「うるさいわ、そこのハゲ」
闇払いの効果は頭上に輝くウィルの生み出した火球の光を触媒に、全ての闇術を無力化する――はずだがリースの翳した手から放たれた赤ん坊の握りこぶし大の黒い塊がその降り注ぐ光の中でラフタを貫いた。
「ぐぁぁぁあああ!?」
「ラフタ!? 大丈夫か!?」
「別に殺したり傷つけたりはしてないわ。ただ意識だけ闇に叩き落しただけ。それにしても、さっきの小さな人陰で使った術と同格に見ていたの? 雑魚の感性は見たままでしか物事を判断できないのね」
うなされながらビクンビクンと痙攣したように跳ねるラフタは確かに死んではいないだろうが、そもそも痙攣していること自体が異常事態だろうとリースは思ったが、言葉にはならなかった。自分の口がなくなってしまったみたいだ。元々なきに等しいけど。
「ラフタを雑魚だと?」
「ええ、光の加護持ちの癖にこんな鬱屈した人格じゃ、本気のリースには傷1つ付けられやしないさ。本当なら私はお前らを全員ここで覚めない悪夢にぶち込んでやってもいいんだが、生憎リースがお前らを殺したくない甘ちゃんだからな。半日ぐっすり眠らせるくらいで勘弁してあげる」
「リースはお前だろ、お前、何を言ってるんだ……?」
幾らクージスが目を見開いたところでそこにいるのは多分リースでしかないんだろう。リースも精霊を自称する存在の力は感じるが姿は捉えられていない。
「大ヒントに1つ、精霊様からのありがたーいアドバイスをあげる。光と闇の術だけは目に映る光と闇だけでなく心の光と闇を強い触媒と出来るのだから、強くなりたければ下種な考えをやめて輝くような魂を持つことね。それこそ伝説の初代勇者のような、ね」
「初代勇者? 魂? 一体な——!」
「さあ眠りなさい。褥の帳!」
勇者が言葉を紡ぐより早く、リースの陰から生じた闇がウィルの生み出した特大の火の玉の明かりさえ遮り辺りを完全な闇に落とした。闇の中から聞こえるのは3人分の安らかな寝息だけだった。