実験的詩小説フォーティーン。(三十と一夜の短篇第21回)
紳士と呼ぶには野卑ではある。野卑というのは気の毒である。
まじめに生きてきた六十余年。必死に働いてきた社会の歯車。
勤めを終えて入る隠居の日々。納めてきた額に見あわぬ年金。
「一億総活躍」と嘯く詐欺師。意訳すれば「死ぬまで働け」。
戦時中もそんなだったよなと、戦後うまれの老人は憤るのだ。
反省をしないマスメディアは、戦時中の過ちを継続している。
他人に反省を強いる厚顔無恥。まったく筋がとおっていない。
死ぬまで奴隷なんてまっぴら。ようやく労働から解放された。
この余生を満喫しなければと、老人は必死に抗っているのだ。
サイクルは勤めのころと逆転。夜が短くなり、朝が早くなる。
老人は、夜勤の倉庫員だった。夜行性の生物として摂理の外。
夏は冬で冬も冬の過酷な環境。昼間と季節を完全に喪失した。
三百六十五日二十四時間稼働。黒いローテーションを三十年。
年間休日八十日、有給不消化。人の食のため、家族のために。
老人は必死に働いてきたのだ。もう、働かなくともよいのだ。
心待ちにしていた時だったが、解放は彼を幸福にしなかった。
膨大な時間がもたらされたが、彼には趣味らしい趣味がない。
回復と妻子への奉仕に消えた、働いていたころの貴重な休日。
趣味を探している時間がない。睡眠が唯一、趣味らしい趣味。
不当に収奪された文化的生活。蟻や蜂と、なにも変わらない。
このままでは、死にきれない。労役以外のなにかに没頭する。
文化的生活を取りもどしたい。執着すべきものを彼は求める。
膨大な時間をまえに右往左往。なにをすべきか、わからない。
これまでの人生の空白を埋め、これからを充足させるために。
昼夜の摂理を回帰させた彼は、早朝の街並を散策しはじめる。
空白を埋めるなにかを探して、朝のファミレスに行きついた。
歩きつづけて腹が減っていた。ピロリロピロリロと歓迎の音。
「いらっしゃいませ」の声と、店内にみちるたのしげな活気。
なにやら書きものをする若者。和気あいあいとした家族づれ。
彼と同年輩の男たちと女たち。案内されてソファの席につく。
格安多彩のモーニングセット。ドリンクバーつきで長居する。
この雰囲気に、彼は憑かれた。家にいてもおもしろくもない。
ふたりの息子は家を出て独立。広い一軒家に妻とふたりきり。
「うん」か「ああ」の言葉数。隙間風がぬくもりを喪わせる。
であったころはそうじゃない。愛し愛されて幸福だったはず。
いつからそうなったのだろう。彼はひとり、ふっと嘆息する。
それもこれも忙しさのせいだ。心を亡くすと書いて、忙しい。
労働に縛られていたころには、忙しい忙しいと頻用していた。
だから心を亡くしてしまった。亡くした心を取りもどしたい。
トーストとゆで卵を噛みしめ、あたたかい珈琲で喉を潤した。
煙草に火を点け、ほっと一息。くゆる煙に思案がめくるめく。
亡くした心を回帰させるため、その方策をゆっくり考えだす。
朝の散策とファミレスの活気。かよいつめるうちに殖える友。
彼と同年代、同じような境遇。目的も彼と同じであったのか。
なにげない雑談のなかに彼は、しだいに心をみたしていった。
みたされてゆくように思えた。錯覚などではないと信じたい。
ほくほく顔で家に帰ると自然、妻との言葉数が殖えていった。
朝のファミレスが豊かにする。毎朝がたのしくてしかたない。
かつては家に帰って寝る時間。夕方に起きだして仕事へ行く。
現在から俯瞰すればただただ、心をすりへらす日々であった。
過去の労役の一切合財すべて、ドリンクバーの流しに落とす。
かけがえのない、語らいの場。彼の文化的生活は確立された。