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失われたもの

「何の音かしら?」

 マチルダが何かの物音に気がついた時、時刻はもうすぐ零時を回ろうとしていた。明日までに仕上げなくてはいけない報告書のせいで、ここ一週間はほぼ毎日こんな時間だ。

「あら、いけない。そろそろ帰らないと」

 一週間当直を免除してもらっていたが、明日からは通常シフトだ。朝一のミーティングにも出なくてはいけない。手早く、書き上げたばかりの書類を封筒に仕舞う。

「あ、いけない」

 一枚の紙が床に落ちた。

 ジョバンニの評価調書だ。アカデミーへの進級と診療医試験の資格審査に対する評価調書。この書類を、自分の担当学生分作成するのに、この一週間を使い果たしていた。

「優秀なのは優秀なんだけど」

 彼女は、昨日のジョバンニとのやり取りを思い出していた。

 普段はあまり感情を表に出さないジョバンニが、診療医へは推挙しないと言うマチルダに対して感情を剥き出しにした。

「僕にはこの国の医術の歴史を変えることができるんですよ!!」

 確かにそうだろう。とマチルダは思っている。

 アカデミーの他の教授陣もみなそう思っているはずだ。でも、心の中の何かが、「違う」と言っている。

 一年前、花の咲き乱れるキャンパスを歩きながらフルバと話をした時にも、その「何か」は形として表せなかった。その感情が、フルバにも共通してあることを確認することしかできなかった。

 マチルダは、拾い上げたジョバンニの調書を、同じように封筒に戻した。

「?」

 一瞬、部屋の明かりが遮られるような感覚があった。慌てて視線を挙げると、視界の隅で何かの陰が動いたように感じた。

 ゴトッ

 と、何かが動くような音が聞こえる。磨りガラスになっている廊下側のドアの向こうで、何かが動くような気配があった。

「誰? 誰か居るの?」

 慌てて廊下に出る。

 廊下は静まり返っていた。向かいの部屋は、研究員達が実験に使っている実験室だ。つい30分ほど前まで4名の学生が賑やかに実験をしていたが、彼らが明かりを落としてから、部屋は無人のはずだった。

 部屋の中から、低い唸り声のような音が聞こえる。

 学生が何か電源を切り忘れたのだろう。

「まったく。誰かしら」

 小さく愚痴りながら、マチルダは、実験室の扉をためらい無く開けた。

「え? なに?」

 部屋の中は、濃い獣の匂いがした。

 ふと視線を上げると、真っ暗な部屋の天井の中央付近で、大きな黒いものが動いた。

 2つの光るものが、マチルダを見下ろしていた。彼女の頭上、すぐ近くで。

「いや、いや……、きゃぁぁぁぁぁ……」

 次の瞬間。

 それが何だったのかを伝える機会を、彼女は一生失った。

 

  *****



 ローゼン島での戦闘はますます激化していた。そのため、今年行われるはずだったメンフィス王子とエリザベート王女の結婚式も、無期限延期になっていた。ローゼン島は完全にドラクマに制圧され、かろうじて残っていたローゼリア行政府最後の砦も風前の灯だ。ドレイファスも戦時警戒下に入っていた。

 マチルダが死んだと伝えられたのは、そんな殺伐とした6月半ばの早朝だった。

「マチルダが……どうして……」

「未明の火事だそうです。実験室の何かが、爆発したんじゃないか、と。守衛が、大きな爆発音を3回聞いているそうです」

 大学に駆けつけたフルバは、同僚の、そして親友でもあったマチルダが亡くなったことを聞かされて驚愕した。

 大学には、自治を守るための自衛騎士隊というのがあって、彼らが学内の警備や、何か事件や事故が起こった際の初動捜査を担当する。大学自衛騎士隊の隊長であるクーパーが、フルバを事故現場に案内していた。

 規制線の張られた構内は、焼け焦げた煤と、化学薬品の臭いに満ちていた。


「……ひどい」

「えぇ。ひどいものです。レンガ作りの壁がここまで吹っ飛ばされるなんて、そうありません。しかも、中はこんなに焼けているのに、その周囲はほとんど焼けていない。この部屋は密室となり、中だけがじっくり焼けて、そして吹っ飛んだ……そう考えても妙な感じです。ガス管が老朽化していたんじゃないかという話もあります。ただ、実験室内の損傷が激しくてなかなか検証できないんじゃないかとも、科学班の連中はそう言っています」

「マチルダはどこで?」

「室内です。実験室ではなく、ご自分の部屋の方に倒れていました」

 実験室の向かいのマチルダの居室は、壁こそ派手に吹っ飛んでしまってはいたが、火災の被害はそれほど受けてはいなかった。

「マチルダには、いえ、マチルダの遺体には会えるのかしら」

唇を噛み締めるようにして、フルバがようやく切り出した。

「礼拝堂の中に安置してあります。しかし、」

「しかし?」

「ご覧にならない方がよろしいかと」

 クーパーが、言いにくそうに声を潜めた。

「それは、どういうこと?」

 クーパーも、フルバが医薬師であることを知っている。医薬師が死体を見て動揺するようなことはないともわかっているはずだ。むしろ、死因の確定のためには検視が必要になる。

「はい、それが……。なぜか、体のほとんどが壊死している、と」

「壊死!? 昨日死んだばかりの彼女の体が?  壊死?」

 フルバの声は上擦っていた。自分が発した思いもよらない大きな声に、自分自身がびくりとした。

「検視医が、ちゃんと検死したんでしょう?」

「検視院の5名の検死官と、マルキノホフ先生もご覧になりました。何が起こったのかは、わからない、と」

 フルバは、自分の心臓の鼓動に飲み込まれそうになっていた。

 初夏の日差しの中にあって、体はわなわなと震えていた。

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