解剖室にて
その日の夕方。フルバはカラキムジア市警吏本部の地下にいた。
「ごめんなさいね。無理言って」
白衣、帽子に手袋。厳重な格好だった。
「いえ、構いませんよ。フルバ先生のお申し出ならもちろん」
前を行く男性も、同じように全身白づくめの格好だ。
「それにしても、どうしたんですか。先生が、収容された遺体をご覧になりたいなんて」
警吏本部の地下には検視院が入っていて、死因不明な遺体の検視を行う場所だ。シャルル・アドルフ大学の医術院の管轄で、目の前を行くこの中年の男性も、フルバの知り合いだった。
午前中に感じたゾワゾワを、どうしても確かめなくてはいけないとそう思って、フルバはここに居る。
「今朝、秘書達がディウルナを持ってきていてね。その中の記事に、ちょっと気になる言葉があったのよ」
フルバは、そう言いながら、手に持っていたマスクを付けた。
「昨日発見されたって言う不定放浪人の死体に遺されていた傷。それと、一緒に発見された肉片と歯らしき物」
自分の言葉が跳ね返る圧力に、息苦しさを感じる。
「あぁ。あれですね。ありますよ。全部ここに。さぁ、どうぞ」
殺風景な解剖室は、ひんやりと静まり返っていた。
不定放浪人の遺体が、目の前に横たわっている。
「ほら、ここに、その歯が刺さっていました」
不定放浪人の体に開いた穴を指差しながら、ニコラスが検案書を読み上げる。
「歯の形状は極めてヒトの歯、しかも乳歯に似るが、顎の形状からヒトとは判断されない。また、多くが失われているものの、尾てい骨からは尾骨の痕跡が確認されることから、奇形のモンクスではないかと思われる」
「それがあなた達の判断ね」
フルバは目の前の傷と歯、そして肉片をじっくりと確認している。
「はい。遺伝子検査の結果も出ています」
ニコラスはそう言いながら、検案書を繰る。
「あったあったこれだ。えっと、遺伝子検査の結果は、99.7%ヒトと酷似。ただし、モンクスにもヒトにも見られない配列を有する。で、モンクスの突然変異による奇形ではないか、と」
「で、この、致命傷となったと思われる切り傷についてはどうなの?」
不定放浪人の体には、無数の深い切り傷が刻まれているが、何より痛ましいのは、皮一枚で繋がった彼の頭部だ。
「切断面が不正断面なので、刃物による傷ではありません」
「何かに喰いちぎられたような、そうね何か、鋭い歯の動物に」
「はい、そうです」
ニコラスが大きく頷いた。
「遺体が発見された現場近くの森には、獰猛なタイガーウルフが生息していますが、この傷は違います」
「でもこれが致命傷となった可能性が高い。死後の傷ではないものね」
「そうです。でも、この爪の跡、歯の跡から考えると、ムーンベアくらいの大きさの動物でないと。ムーンベアは肉食ではありませんし、ご存知のように、大人しい動物です」
「先ほどの歯を持つ動物との関係は?」
「わかりません。でも、そこに見つかった歯では無理でしょう。もっと大きな、そして鋭い犬歯を持っていないと、人間の喉を喰いちぎるようなことはできません。しかも、首の骨まで噛み切っているんですから」
死後硬直のために閉じることができなくなった遺体の瞼の中には、眼球もなくなっていた。
喉がカラカラに渇いていた。ゴクリと唾を飲み込む。
「もうひとつ聞くわ」
慎重に言葉を選ぶ。
「これまでに見つかった不定放浪人の遺体も、みんなこれと同じような傷だったのかしら」
「えぇ、たぶん」
「たぶん?」
「損傷がひどくて、判別がつかない物がいくつか。ずっと、死後にマウンテンドッグかタイガーウルフに食い荒らされたんだろうって思ってましたから」
何かが起きている。
それなのに社会の眼は、どうもここには向いていない。
フルバは目眩がするような感覚に襲われていた。
「ニコラス。どうもありがとう」
解剖室を出た彼女は、びっしょりと汗をかいていた。