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親友マチルダ

 カラキムジアの春は強風とともにやってくる。

 南から吹いてくる暖かな風が冷たい空気を押し流し、一気に国を春の暖かさに変えていく。大学の構内は、ナルキソスやトゥリッパの花が咲き乱れ、色とりどりの絨毯を敷き詰めたかのようだった。

 温室から出てきたフルバに気がついて、同僚のマチルダが駆け寄ってきた。

「マチルダ!」

「久しぶりね、フルバ。元気だった? かなり長く留守にしていたみたいだけど」

「えぇ。昨日まで、カイザースベルンに採集旅行に行っていたの」

「カイザースベルンに?」

「ドレイファスもいつ戦争に巻き込まれるかわからないし、戦争になったら採集旅行には行けなくなるでしょう?」

 フルバの言葉に、マチルダの表情が曇った。

「ドレイファスも戦場になるのかしら?」

「キールが頑張っているしドレイファスが戦場になるようなことはないと思うけど、それでも、ローゼン島が落ちでもしたら、ドレイファスも、参戦するしかなくなるでしょう?」

 フルバは、作業のために着ていたガウンを脱いで、手を洗いながらマチルダとの会話を続けている。

 海の向こうのドラクマ帝国がローゼン島に侵攻してからすでに12年。世界は戦時下にあった。小国ローゼリアはすでに無く、焦土と化したローゼリアをキールが行政府に併合することで、なんとかローゼン島をドラクマに奪われないように戦っている。その火の粉が、いつキール本国のあるこのラグランシア大陸に飛んでくるか予断を許さない状況だ。

「それで、カイザースベルンではお目当てのものは見つかったの?」

「それを今、温室に」

 肩越しに振り返った温室の中では、若い研究員がせっせと植物の入った小さなポットを運んでいた。

「また新しい薬が生まれるのかしら。楽しみだわ」

 温室内を覗き込んだマチルダが、尊敬の眼差しをフルバに向けた。

「そっちこそ、どう? セラーリンテウムの臨床実験に入ったって聞いたわ」

 医師のマチルダは、医術療法の現場で、皮膚の形成などの外科手術を担当していた。やけどや壊死などで失われた皮膚を、細胞を布状に敷き詰めたセラーリンテウムで補完しようという計画は5年ほど前からあったが、それが今月に入ってようやく臨床実験段階に入ったのだ。

「そうね。順調にスタートしたわ。マルキノホフがよくやってくれているわ」

「あぁ。チームにはマルキノホフがいるのね」

 思い浮かんだ若い医師の顔は、常に柔和な笑顔を浮かべているしっかり者の顔だった。

「彼には、現場のチームリーダーを任せているの」

「彼は昔から、患者の幸福、BPを一番に考える医師だからね」

「今もその精神は健在。彼の形成医術は神業よ。傷跡も残さないくらいにきれいに。それにあの穏やかな性格でしょう? 女性の患者からの指名が途絶えなくて、診察室はいつも長蛇の列」

 マチルダが言うように、マルキノホフの形成手術の腕前は天才的で、フルバもそれは大いに認めるところだった。先月、修練中に怪我をしたメンフィス王子の形成医術処置を手伝ってもらったばかりだ。

 辿り着いた喫茶室の花壇に面した席に、向かい合って腰をかける。

「王宮医薬院の仕事も引き受けたり、女性達の行列を引き受けたり、マルキノホフも休み暇がないわね」

「昨年専門課程に進んだばかりの学生が、これまたまじめな子で、セラーリンテウムの管理をやってくれているわ」

「学生?」

「そう。ジョバンニ・クエントと言うの。知っている?」

「ジョバンニ! 知っているわよ。そう。彼、医術院に進んだの?」

 2年ほどフルバのところで研究をしていたジョバンニも、もう専門課程の学生になっていた。講義で会うことが無くなったと思ったら、医術院に移っていたのだ。

「寡黙な子ね。不気味なくらいに」

「そうね。感情を表に出さない」

「彼、昔はどんな学生だったの?」

「どんなって?」

 マチルダの声を潜めたような問いに、フルバも慎重な声で聞き返した。

「薬師院ではセミナリオで研究していたのよね? 聞いたわ」

「コルチカムの抗炎症性を発見したのよ。その後もしばらくは熱心に研究していたけど、途中からラボには出てこなくなったわね。いつも一人で黙々と実験をする子だったけど。薬師院のスペシャリオには進まないって言ってたから、特に気にしていなかったわ」

「その抗炎症薬が今では結晶針痛症の治療薬よ。なんで研究をやめたのかしら」

「医師になることに専念するためじゃない?」

 シャルル・アドルフ大学では、在学中に自由に専攻を変更できる。科学領域から文系領域に専門を変えて、カラキムジア大学内の別の大学デパートメントに移ることもできる。

「で、そちらではどうなの? あなたの研究室なんでしょう?」

「うーん。正確にはちょっと違うわ。セラーリンテウムは、全療法科と共同で行っている研究で、彼は特に熱心にやってくれているけれど、所属は出産科のラボよ」

「出産科の?」

「そう。自然流産や中絶した胎児を使って、遺伝子異常を調べる方法を研究しているって。彼は、母体内にいるうちから治療できないか、って考えているみたいだけど。壮大な夢よね」

 フルバは、白衣を着て出産科の研究室にいるジョバンニの姿を想像した。寡黙な上に、人を寄せ付けない何か、オーラのような物を常時纏っている男だった。人とうまくコミュニケーションが取れているとは、どう考えても思えなかった。

「こちらでもいつも一人なのよ。そして黙々と作業をしている。優秀なのは間違いないんだけど、診療医に向いているかと言われたらどうなのかしら」

 マチルダは、少し言葉を濁した。

「でも、彼のおかげで研究が進んでいるのは事実よ。セラーリンテウムが上手くいったら、次はいよいよアルティオルガナム。実験室ではだいぶ実験は進んでいるんだけど。彼も熱心に研究に取り組んでいるし、医術院のアカデミーに進みたいって言っているから、拒むわけにもいかなくてね。現場に出ないで実験室で研究を続ける道もあるし」

「診療医には推挙しないってこと?」

 この国では、実際に患者を診る診療医になるためには、試験に受かることはもちろんだが、それ以前にアカデミーの教授陣からの推薦が要る。

「そうね。おそらく」

 二人は、話しながら構内を歩き、カフェのテラス席へと腰を落ち着けた。


     *****


「そういえば、もうすぐメンフィス王子とエリザベート王女の婚約式ね」

 街灯に取り付けられているカラフルな飾りは、二人の婚約式を祝うためのものだ。

「もうすぐって、まだ3ヶ月も先よ」

 戦争の陰湿な空気を吹き飛ばそうと、国中が婚約式に向けて気持ちを上向かせようとしていた。

「3ヶ月なんてあっという間よ。楽しみだわ。戦況がどうなるかわからないけど、式だけでも挙行していただきたいわ。ドレイファスも、海辺の街では厳戒態勢でギスギスしているし、楽しいことでもないとやっていけないわ。メンフィス王子様はかっこいいし強いし、エリザベート王女様は百合のようなお美しさだと聞くもの。早くウエディングドレス姿を拝見したいわよ。婚約指輪はどんなものかしら。フルバ、もちろんあなたも、式には出席できるんでしょう?」

「さぁ…。パーティーには呼んでいただけると思うけれど」

「良いなぁ。羨ましい。それにしても、キールの龍の後継はルドルフ王子とエリザベート王女のどちらなのかしら? もしエリザベート王女なら、メンフィス王子はキール王国に行ってしまわれるのでしょう?」

 運ばれてきたシトラムプレッセを引き寄せながら、マチルダが遠くを見るような目つきをした。キール王国の王は、龍の血を受け継いで生まれた子供「龍の後継」に引き継がれる。「龍の後継」であるかどうかは、王位継承権の宣言を行う継承式の場で明らかになる。キールは、エリザベート王女の結婚の儀でそれを明らかにすると宣言していた。つまり、もしエリザベートが龍の後継であり次期キール王なら、メンフィス王子はキールに婿に入るということになる。

「龍の後継」とは何か。

「龍の後継」には、体のどこかにその印がある。

 これは、都市伝説のようなものだ。

 龍の後継であることの証が本当にあるのかどうか…。もちろん一般国民が知る由もないのだが、それでも、この噂はまことしやかに囁かれている。そして、どちらが龍の後継かを賭けの対象にしている輩も、少なからずいるという。

「キャスパー王子も素敵だけど、やっぱりドレイファスの次期国王には、メンフィス王子になっていただきたいわ」

 マチルダの目は遠くを見ていた。

「そうね」

 そんな彼女の姿に苦笑しながら、フルバは他人事のように小さく答えた。

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