実験室
「注意深く扱いなさい。この状態のADNはとても壊れやすいから」
凛とした声が実験室に響く。
フルバの靴が石造りの床を小気味よく叩く音が、高い天井に吸い込まれていく。天窓のガラス窓から差し込む光の中で、白衣姿の若者たちが、黙々とガラス器具とにらめっこをしている。
「先生、これでいいですか?」
「そうね」
フルバは腰を屈めて、自身を呼び止めた女子学生の手元を覗き込む。
ガラス容器の中のほのかに黄色の色味がついた液体を、ゆっくりと傾けて確認する。トロトロと粘性のある液体が、怪しく蠢く。
「もう少し時間をおいた方がいいわね。そして溶液を注ぎながら慎重に撹拌して」
「はい」
多忙なフルバが実験室に居られる時間は長くはない。そのため、在室時間には、学生たちが次から次へと質問をして来て休む暇もない。
「そういえば、ジョバンニはどうしたの?」
学生のうちからラボで実験ができるセミナリオ制度を利用して、半年前からジョバンニがフルバの元に出入りしていた。
「彼なら、たぶん、動物実験室ですよ。一日中、あそこから出てこない日もあります」
動物実験等は、建物の地下にある。薬毒性試験用の小動物や、移植実験やヒト疾患モデル実験に使われるモンクスなど13種類の動物が飼育されている。
先ほどの女子学生の話では、ジョバンニは動物室の飼育や清掃、死んだ動物の処理などの手伝いも率先してやっているということだった。
フルバは久しぶりに地下への階段を下りた。
清浄室で着替えて動物実験室へと入る。
ジョバンニは、一番奥の部屋で、黙々と実験台に向かっていた。
「ジョバンニ」
「なんですか」
顕微鏡から眼を離すことなく、ジョバンニが冷たい声音で答える。
「どう? 順調に進んでいる?」
「コルチカムから抽出した物質を培養細胞にインジェクションしています。蛍光虫の蛍光物質を一緒に組み込んでいるので、3時間もすれば光って見えるはずです」
「だいぶ進んだのね」
「3時間前にインジェクションしたものがあるのでご覧になりますか。そちらは、フッサ草のフルキリルアルカイドを使っています」
そこまで言って、ようやくジョバンニは顕微鏡から顔を上げた。
「えぇ。見せてもらうわ」
しばらく会わないうちに、彼の眼光がますます鋭くなったように思われて、フルバは少し動揺した。
ジョバンニが、保温庫からシャーレを出して顕微鏡にセットする姿を呆然と見守った。
初めて会った時から、彼には普通ではない気配を感じていた。飛び級で大学に入学した学問的才はもちろんある。でもそれだけではない。何かを超越しているかのような才能。顕微鏡の中で光っている細胞は、彼の実験者としての技術的な才能についても雄弁に語っていた。
でもまだ足りない。まだ何か……。
「僕は、コルチカムには別の作用があるのではないかと思っているんです」
保温庫の扉を閉めながら、ジョバンニは次の話題に移った。
「レポートは見たわ。炎症を抑える働きね」
ジョバンニが提出した研究報告書は、先週末から彼女の机の上にあった。
「それで、動物実験の許可が必要なのね」
大型動物、特にモンクスを実験動物にする場合は、ラボの責任者の許可がいるだけではなく、大学の研究審査委員会の審査を受けなくてはいけない。
「僕がこれまでやった細胞実験では、ニュートロフィルの働きを抑えることで炎症を防いでいるのではないかと思います。実際に炎症性疾患を発症しているモンクスにコルチカムを投与することで、疼痛抑制と抗炎症効果がなぜ起こるかというのが解明できるはずです」
ジョバンニと話していると、時折、どちらが教師かわからなくなる時がある。彼は人に対する興味はほとんど示さないが、研究に対しては情熱的で、勤勉だった。
「それが解明されれば、結晶針痛症の治療に使えるかもしれないわね。わかった。委員会には、許可申請のサインをして出しておくわ」
「ありがとうございます」
ジョバンニの言葉は、妙に無味乾燥に聞こえた。
フルバはそのまま実験室を出た。