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勤勉な学生

 シャルル・アドルフ大学は、王城から続く英雄橋をまっすぐ進んだ左手、ちょうど王立文書館と川を挟んで向かい合う位置にある。緑豊かなキャンパスには、12の学舎と、2つの王立病院が併設されている。

 ドレイファスの王都カラキムジアには、シャルル・アドルフ大学の他に、ヨハン・グッゲンシュタイン、クレメンス・メイヤーの2つの大学がある。これら3つの大学をまとめて、カラキムジア大学と呼んでいる。特に科学分野のさまざまなデパートメントを有するのが、シャルル・アドルフ大学だ。

 ちょうど正午を伝える鐘が鳴り、ツタの絡まる赤煉瓦の講堂からは、講義を終えた学生たちが賑やかに談笑しながら歩み出て来ていた。

 世界は、ローゼン島を舞台に、ドラクマ帝国との10年にも及ぶ戦争が続いている戦時下だが、遠く離れたカラキムジアはまだ穏やかな平和を謳歌している。徴兵を免除されている学生たちは、戦争への不安すら感じることなく、のんびりと学問に専念していた。

 教壇から降りて、フルバ・ドゥースは銀色の髪をまとめていた髪留めを外した。彼女の表情は若く聡明で、自信に満ちていた。こぼれ落ちた髪が彼女の白衣の肩にかかる。フルバは、37歳になったばかりで、半年前に娘を出産した後、この秋から、シャルル・アドルフ大学医薬デバートメントの医薬術の教授に就任していた。

「先生。フルバ先生」

 教室を出ようとしたフルバを、一人の学生が呼び止めた。

「質問があります」

「はい。なにかしら?」

 振り返ったフルバは、その学生と向かい合った。いつも最前列に独りで座り、食い入るように講義を聴いている寡黙な男子学生だ。漆黒の髪に丸眼鏡。そしていつも、お世辞にもきれいとは言えない焦げ茶色のジャケットを着ている。熱心にノートを取りながら授業を聞いている姿は何度も見ていたが、質問をしてきたのは初めてだった。

「系統発生の話ですが」

「系統発生?」

「生物は系統発生を繰り返す」

「あぁ、反復説ね」

「はい」

「残念ながら、私は発生学の専門家ではないわ。答えられるかしら」

 フルバは小さく笑顔を浮かべて肩をすくめた。

「いえ。いろいろな先生に伺っています。王宮専属医薬師(リミエディスタ)を務められているフルバ先生はどうお考えなのかご意見を伺いたくて」

 目の前の学生は、言葉こそ丁寧だが、その眼は試すように鋭くフルバを見つめていた。

 ドレイファス、キールの医薬制度は共通していて、内科的な診療を担当する薬師と、外科的な診療を担当する医師とに資格が二分している。王宮医薬院には、専属の王宮薬師(リミディスタ)王宮医師(メディエスタ)がいるが、その両方の資格を持っている人間は極めて少ない。キール王国出身のフルバは、32歳の時からドレイファス王室の王宮専属医薬師(リミエディスタ)を務めており、特にドレイファス王カールスの信頼が厚い。

「また急にハードルが上がったわね」

 持っていたノートをテーブルに置いて、フルバは銀色の髪を右手でかきあげた。

「いえ。ただ、ご意見を聞かせて頂きたいと思っているだけです」

 にこりともせずに、学生はフルバを見つめている。

「良いわ。何?」

 苦笑いを浮かべながら、彼に質問を促す。

「生物が、その発生の過程で進化の歴史を繰り返すのなら、それを遡ることもできると思いますか」

「遡る?」

 質問の意味を計りかねて、フルバは首を傾げた。

「はい。例えば、ヒトの子になる物をモンクスの段階に戻したり……いや、モンクスの段階で止めるという方がいいのかもしれないのですが」

「それはつまり…母親の胎内で成長する過程が進化の過程を繰り返しているとすれば、例えば、発生の初期の段階で止めたら、モンクスの子として生まれるか、ってことかしら」

「そうです」

 少しずり落ちたメガネを右手で上げながら、彼は小さく頷いた。

「反復説の理論的には可能なように見えるけれど、実際には不可能よ。そもそも、反復説自体がもう数世紀前の古典的な考え方で、今では否定されているわ。それに、ヒトの場合、モンクスに似ていると言われているのは受精後38日頃の胎児よね。その段階で止めておいてモンクスとして出産させると言うのは不可能に近いわ」

「でも、人間は受精後6ヶ月頃まで全身を毛で覆われていて、その後それが抜け落ちると」

「それがモンクスのネオテニー、つまり幼児形ではないかっていうことね?」

「人間には、魚のような鰓やモンクスのような尻尾はありませんが、それは遺伝子が無いからではないんですよね」

「よく勉強しているわね。そう。ホメオティック遺伝子の存在ね。発生初期の胚の構造を決めるホメオティック遺伝子は、真核生物すべてが共通して持っている」

「このホメオボックスをいじれば、人間にも尻尾を作らせたりできるのではないかと僕は考えているのです」

「なるほど。面白い考え方ね」

 大学で生物学を学び始めた学生の興味としてはいささか突飛なようにも感じられたが、実に良く勉強をしている。フルバは満足そうに腕を組んだ。

「遺伝子がないのではなくただその働きがオフになっているだけなら、その働きをオンにすれば、」

「遺伝子を発現させられて、人間にも尻尾や鰓が発生するのではないか、と。あなたはそう考えるということね」

「はい」

 揺るぎない表情で、彼は頷いた。

「先生は、キールの神話をどう思われますか?」

「キールの神話?」

「地上に天下った龍は、人の血に紛れて永遠を生きる道を選んだ」

「それは神話よ」

「わかっています。でも、世の中の神話の多くは、何かを暗示的に示していることもあります」

 一瞬言葉を切って、強い口調で彼は続けた。

「もしキールの民が龍の末裔なら、系統発生を遡れば、いつかは龍の子を作り出せるかもしれない」

「ますます私の専門からは離れたわね。神話が歴史的事実を暗示していることは、まぁあるのかもしれないけど、それが生物学的に見てどうかというのは、科学の範疇を超えているわ」

 目の前の青年は、質問の答えを求めているのではなく、自分の意見を伝えたいだけなのかもしれない、とフルバは思った。陰鬱な声と確信的な口調が相まって、妙に老成した雰囲気を醸し出していた。

「ではもう一つ。南の大陸の動物で、外部環境が悪いと、発生段階を途中で止めることができるほ乳類がいると本で読みました。発生段階を、つまり、細胞分裂を止められると言うことは、もしかすると、人間にも可能なのではないでしょうか」

「それは、」

「フルバ先生!」

 フルバの言葉は、教室に駆け込んできた新たな人物の声で遮られた。

 大学の事務官の一人だ。

「フルバ先生。王宮から至急出頭との要請が」

「わかりました。すぐに」

 王宮医薬師としての職務は、現在も平行して拝命している。王族の急病の折りなど、緊急で呼び出されることもある。

「ごめんなさいね」

 話の途中で腰を折られ、残念そうに学生に向き直った。

「いえ」

 しかし、当の本人は、意外なほどに冷静に、既に机の上のノートや本をまとめて出ていく準備をしていた。

「話の続きは、また次回にでも」

 フルバもノートを手に取り、彼に背を向けた。

「あ。あなた、名前は?」

 思い出したように振り返り、彼の背中に声をかける。

「ジョバンニです。ジャバンニ・クエント」

「あぁ、あなたね。飛び級で入学した学生さんって言うのは。確かまだ、16歳だったわよね。覚えておくわ。ジョバンニ。ではまた」

 後ろ手に手を振って、フルバは慌てて講堂を飛び出していった。

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