出征前夜
明日の診療に使うための薬を調剤し終えて、フルバは大きな溜め息をついた。メディシナーレコルドを治療室の棚に戻す。ふと視線を窓に映すと、街灯に照らされた中庭を横切って、人影がやってくるのが見えた。
「ジョバンニ?」
慌てて窓を開け、少し身を乗り出すようにしてその人影を呼び止めた。
「フルバ先生」
人影が立ち止まって、低い声で返事をした。ジョバンニ・クエントだ。
「久しぶりね。寄って行かない? お茶でも入れるわよ」
彼女の呼びかけに、ジョバンニは小さく頷いた。二人が初めて会ってから、既に6年の月日が経っていた。最初に出会ってからの2年半は、フルバのラボに研究に来ていたこともあって話もしたが、彼が医術のスペシャリオに進んでからは、ほとんど会う機会も無くなっていた。ただ、噂ばかりは良く聞く。ジョバンニは、すっかり優秀な医薬師になっていた。
「少しも変わっていないわね。あなたは」
フルバは目の前の青年を改めて見た。診察室の無機質な椅子に腰掛けて二人は向かい合っていた。漆黒の髪に、初めて会った時と変わらない丸眼鏡。お世辞にもきれいとは言えない白衣を着て、仏頂面もそのままだ。強いて言えば、髪が幾分か伸びた。
「活躍は聞いているわ。モンクスの自己細胞から作り出した心臓を、無事に移植することに成功したんですってね。セラーリンテリウムの臨床試験からまだ2年しか経っていないのに、もうアルティオルガナムの動物移植実験の段階まで進んだなんて、信じられない。その後、被検体の様子はどう?」
「拒脱反応はない。今のところ生きています」
「すごいわ。新しい心臓の機能には問題はないのね」
「でも、人工的な心臓では充分ではありません。外部からのアルティオルガナムと置き換えているだけでは、いつまで経っても生物学的な生存限界から逃れられない。そもそも、アルティオルガナムの準備に時間がかかりすぎて、急な手術には対応できないのですから」
世間の賞賛とは対照的に、本人は自身の仕事を大して評価していないのが彼らしかった。
「でもすごいことよ。自己の体細胞から作り出した組織が、自己の臓器を作るのだから。これで、損傷した器官を治療する道が広がったわ。もちろん、生存限界からは逃げられないけど、今よりずっと、人は長生きできるようになるでしょうね」
「でもまだ充分ではありません」
重苦しい口調で、ジョバンニは吐き出すように言った。こういう表情の彼は、いつにも増して、人を拒絶するようなオーラを纏う。
「失ったものを補うだけでは、いつまでもその限界から逃れられない。僕は、失うことがないようにするにはどうしたら良いのかを考えています」
「あなたはまるで、不老不死でも追い求めているみたいね。生物はいつか必ず死ぬわ。そのいつかをできるだけ長くするのが、私たちの願いでもあり仕事でもあるけれど、永遠なんてありえない。それに、永遠の時を生きるなんて不幸なことよ」
ジョバンニは何も言わなかった。
「リジェナチュールの有効性は証明できたわけだし、もう少し喜びなさいよ」
「他人の評価などに興味などありません」
「あなたらしいわね」
フルバは苦笑いを浮かべながら、頃合いになった紅茶をカップに注ぐ。彼の人への無関心度は、5年前からちっとも変わっていない。
「最近は、薬師院にも出入りしているのよね? あなたと一緒に研究をしてみたかったわ。でも、あなたがいてくれたらシャルル・アドルフ大学も安心ね。これで私も、安心して戦場に出られるわ」
「戦場に?」
他人のことに関心を持たないジョバンニが、珍しくフルバの答えに問い返した。
休戦協定の立会人としてローゼン島に入ったキール国王夫妻は、ドラクマ帝国の策略によって殺害され、エリザベート王女はさらわれてしまっていた。王都マロニアの壊滅は免れたが、キールは、ただ一人遺されていた王子のルドルフをその戦闘の最中に失っている。
「DAKKS連合軍がローゼン島奪還に動いたわ。キール王国の本土決戦はこちらの勝利に終わったけれど、ローゼリア行政府を取り戻せるかは、予断を許さない状態のようね。場合によっては、ドラクマ本国への攻撃も辞さない構えよ。ルドルフ王子を失った今、キール王国は崩壊寸前。ドレイファスは、キールを全面庇護下に組み入れ、キール守護のために騎士団を派遣する。私も軍医として従軍するの」
「そうですか。死者も多くなるでしょうし、忙しくなりますね」
彼が口にした言葉には、全く感情がこもっていなかった。
それでも、他人に全く興味を持たないはずのジョバンニがそんな言葉を口にしたことにフルバは驚いた。
「あ。ミルクいる?」
落ち着かずに、フルバは立ち上がった。
「ジョバンニ?」
保冷庫の方へ歩き出したフルバを、ジョバンニが背後から抱きとめていた。
「やだ、あなた一体どうし……」
最後の言葉を、彼の口づけが塞いだ。
「んっ……う…んっ」
白衣の隙間から潜り込んできたジョバンニの長い指が、フルバの胸を優しく包み込む。
「先生のこと、ずっと気になっていたんです」
いったん唇を離したジョバンニが、腰に響くような声でささやく。
明かりが消された部屋で、治療室のベッドが小さく軋んだ。




