KOYOMI:2015 ~リコの思い出~
幼い頃の記憶というのは、普通どれくらい残っているものだろうか。
私はあまり昔のことを思い出せない。
単に私の物覚えが悪いということも多分に考えられるが、もしかしたら無意識に忘れようとしているのかもしれない。
当時、私の家庭は荒れていた。
父は行方知れず、母はほとんど男のところから帰ってこなかった。
そんな事情もあって、思い出したいような楽しい記憶を、私はあまり持ち合わせていない。
ただ、まったくないわけではない。
私の思い出の中にいるのは、いつも兄だ。
当時大学生だった兄は、自分の勉学の時間を犠牲にして生活費を稼いでくれていた。
休みの日は一緒に手をつないで散歩をした。
あまり上手ではなかったけれど、ちゃんと手料理を作ってくれた。
私が問題を起こした時は、優しく怒ってくれた。
私が思い出したい記憶の中には、いつも兄がいる。
兄との思い出の中で、私にとって印象的な出来事が一つある。
・・
ある夏の日、兄はくたくたになって帰ってきた。
その時私はお腹が空いていて、兄の疲れなど考えずにぐずってしまった。
兄はいつもの苦しそうな、困ったような笑顔を見せる。
しかしその日はすぐに「そうだ」と言って私に背を向けた。
それは私をおぶる時の動作だったので、空腹による不機嫌はそのままだったが、とりあえず私は兄の背にしがみついた。
兄は私をおぶってアパートを出ると、スズムシの鳴く夜の道を歩く。
「どこに行くの?」
「帰りに珍しいものを見かけたんだ」
兄は疲れていたはずなのに、その声は弾んでいた。
私はひんやりとした夜風と心地良い揺れに眠気を感じて、いつの間にか眠ってしまっていた。
兄に声をかけられて私は目を覚ました。
眠い目をこすりながら顔を上げると、そこには小さな家があった。
というのは当時の私の感想で、それは屋台だった。
道を少し外れたところにある林の縁に、赤い提灯の光が淡く揺れている。
風に乗って醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。
私は兄の背から飛び降りて、兄の顔を見上げた。
「今日のご飯はラーメンにしよう」
兄は当時もうあまり見なくなっていた屋台に興奮していたのか、いつもより若々しく見える顔で笑った。
私はまだ夢見心地な気分で、ただ頷いて応えたと思う。
“こよみ”とひらがなで書かれた暖簾をくぐると、中には先客がいた。
その人を見て、兄は少し緊張した様子で口を開いた。
「ぐ、ぐっどいぶにんぐ」
簡易のカウンター席でラーメンを啜っていた外国人は、兄の片言の英語を聞いてラーメンを噴き出した。
「ごほっ、げほ……に、日本語で大丈夫ですよ」
少しの間むせたあと、その人は笑顔で涙を浮かべて言った。
「すいません、大丈夫ですか?」
「ええ、少し驚きましたけど。どうぞ」
その人は自分のどんぶりを持って、長椅子の左端に移動してくれた。
先に兄が座って、私は右端に並んで座る。
「いらっしゃい。何にする?」
怖そうなおじさんが低い声で言って、私はようやく目が覚めた。
「それじゃ、醤油ラーメンを。リコも一緒でいい?」
「うん」
「あいよ」
店主のおじさんはそれだけ言うと、麺の入った袋から二人分をつかみ取って鍋に入れる。
ラーメンができるのを待つ間、端の外国人が声をかけてきた。
「今日は涼しくていいですね。いつもこうだといいんですが」
「はあ、そうですね……」
「エドワードです」
「あ、どうも。コウです。この子は妹のリコ」
「へえ、ご兄妹なんですか」
「ええ、結構歳離れてるんですが」
「歳の離れた妹は可愛いでしょう」
「……そうですね、とても可愛いです」
この時兄はエドワードと名乗った外国人の方を見ていたので、どういう顔をしていたのかはよくわからなかった。
「エドワードさんは、日本語お上手ですね。日本に住んで長いんですか?」
「いや、一応アメリカ在住なんです。日本が好きで、度々来ているうちに覚えてしまいました」
エドワードさんはそう言っていたが、当時の私には日本人が話しているようにしか聞こえなかった。
「そうなんですね。学生さんですか?」
「はい。一応アメリカの大学生です」
「それじゃ同い年くらいなのかも」
「そうだと思いました。どんな勉強を?」
「一応学部は文学部なんですが……最近はバイトばかりしてますね」
「バイトですか。何か欲しいものでも?」
「いや、生活費を稼がなくてはいけなくて……」
「……もしかして、ご両親は」
「生きてはいると思います。ただ、どこにいるのかはよくわからなくて」
「……すいません、立ち入ったことを聞きました」
「いえいえ」
エドワードさんは申し訳なさそうにしながらラーメンを啜る。
「はい、お待ち」
ラーメンが出来上がり、私と兄の前に湯気の立つどんぶりが置かれた。
透き通ったスープの上で、キラキラと油が輝く。少し細めの縮れた麺の上に、厚く切られたチャーシューが三枚も。
私は生唾を飲み込んだ。
「熱いから、ちゃんとふーふーして食べるんだよ」
「わかった」
兄が割ってくれた割り箸を受け取って、私はぎこちない手つきで麺を持ち上げる。
念入りに息を吹きかけてから、麺を口に運んだ。
あのラーメンの鮮烈な美味しさを、私は生涯忘れることはないだろう。
「美味しい!」
「うん、美味しいね……」
「“こよみラーメン”は初めてですか?」
私たちがラーメンに舌鼓を打っていると、エドワードさんがまた声をかけてきた。
「はい、初めてです。いつもここでやっているわけではないですよね?」
「ええ。神出鬼没なんです。あなたは運が良い。僕が前に食べたのはミュンヘンでした」
「ミュンヘン? 外国まで行ってるんですか?」
兄の質問に、店主のおじさんは無言で頷いた。
「へえー。それにしてもよくそんなところで見つけられましたね」
「ファンなのでね。匂いでわかるんですよ」
「匂いですか……。昔はよく屋台ラーメンってあったようですけど、最近は全然見ないですよね」
「今は取り締まりが厳しいですからね。こよみラーメンがここでやっていたことも、秘密ですよ」
エドワードさんはにやりと笑うと、どんぶりに残ったスープを一気に飲み干した。
小銭を置いて立ち上がる。
「さて、自分はこれで失礼します。マスター、これお土産」
そう言って、エドワードさんは黒い本を店主のおじさんに渡した。
おじさんは黙ってそれを受け取る。
「席、狭くなってしまってすいませんでした」
「いやいや、一期一会も屋台の楽しみですから。……また機会があれば、お会いしましょう」
そう言うエドワードさんの笑顔は、困った時の兄の笑顔とよく似ていた気がする。
・・
思えばあの時が、私が最初にコロンシリーズを目にした時だったのだろう。
そして今では、兄とエドワードさんの笑顔が似ていた理由もわかる。
優しい人が何かのために犠牲になろうとする時、ああやって笑うのだ。
自分のRIKO:2014、ちや。様のKOU:2014の派生作品です。
同年代のキャラクターを自由に絡ませる設定の一つとして、“こよみラーメン”というものを作ってみました。
ラーメン屋台が生まれた明治中期以降であれば、どの時代でも使用可能ということにします!
この作品はシェアード・ワールド小説企画“コロンシリーズ”の一つです。
http://colonseries.jp/