9
ごくごく当たり前みたいな顔をして、診察室の傍の待合の椅子でも川西さんは隣に腰を下ろす。
「長い時間付き合せてしまって」
謝罪の言葉は、指先でちょんっと唇を押さえられるという行為によって、押し留められる。
「わがままを聞いているのは、あなたのほうでしょう」
にこやかな笑みが、それ以上の謝罪を許さない。
そうかもしれないけれど、それでも、立場のある人を私なんかの病院に付き合せてしまったという罪悪感のようなものがある。
本当に、迷惑をかけていないだろうか。
本当に、時間を無駄にしてしまっていないだろうか。
本当に一緒にいたいと思っているんだろうか。
罪悪感の奥には、不安の種が燻っている。
どんなに言葉や態度で示されても、やっぱり夢のような話で信じられなくて。
「振り回しているのはこちらのほうです。まだまだ振り回しますから、覚悟しておいてくださいね」
意味深に微笑むと、川西さんの指が唇から離れる。
その指先が自分の唇に触れていたことが、急に頭の中にリアルになる。
その瞬間、かーっと顔が熱くなる。
そしてそんな反応をしてしまう自分が恥ずかしくなり、更に顔が熱くなる。
気恥ずかしさで俯いた私の耳元に、ふっと吐息が掛かる。
「逃がしませんからね」
耳元で囁く声は、破壊力抜群で。
ここで叫ばなかった自分を褒めたい。
叫び声を堪えて、川西さんから少し距離を取るように身を捩る。
心拍数は激増しているし、絶対顔どころか全身真っ赤になっていてもおかしくない。
絶対わざとやっているに違いない。
そう思って川西さんを横目で見ると、普段よりも熱の篭った瞳とぶつかる。
その目を見て、初めて、ストンと「一目惚れ」という言葉が心の中に落ちてきた。
本当にそうだったのかもしれない。
本当に好意を持っているのかもしれない。
そう信じてみてもいいような気がしてくる。
ポンっという電子音が鳴り、電子掲示板に受付番号が表示される。
その音でハっと現実に戻る。
ちょうど自分の受付番号が表示されている。
「診察に」
そう言って立ち上がると、何故か一緒に川西さんまで立ち上がる。
「順番ですね。行きましょう」
手を握られ、引っ張られるようにして歩き出す。
もう、何が何だかわからない。
「こちらはお身内の方ですか」
「婚約者です」
少し不審そうに言った担当医に、さらっと川西さんが返答する。
「こっ」
婚約者って!?
何を言い出したのかと、川西さんを凝視するけれど、一ミリたりとも表情は崩れていない。
どうやらそれで押し通そうとしているらしい。
ここで押し問答をするわけにもいかないから、どういうつもりかは後で問い詰めよう。
「アレルギーというのは本人のみならず、家族の理解も大切です。田島さんの場合は、次もかなり重篤な反応が出る事が考えられます。一生アルコールの摂取は出来ないと考えてください」
「わかりました」
担当医の説明に、川西さんは深く頷き返す。
「他に気をつけなくてはいけないことはありますか? 食べてはいけない物など」
「他の食物アレルギーがあるかどうかは血液検査の結果が出てからお話します。今まで食べ物でアレルギー反応が出たことは?」
担当医に問われて、川西さんが私に「ある?」と小声で聞くので、首を横に振る。
「思い当たることは無いです」
川西さんの答えを聞き、主治医が頷く。
「今回のような反応が出るのはアルコールだけのようですね。検査結果を見て、またお話しましょう」
「ありがとうございます」
神妙な顔で頷く川西さんから、主治医は私のほうに視線を移す。
「では診察をします。田島さん、今日は少しひゅーひゅーするということでしたが」
「はい。煙草の煙を吸ってしまって」
「なるほど。では胸の音を聞かせてください」
服を捲ろうとして、川西さんの存在を思い出す。
目を逸らしててくださいっ。目をっ。
目で訴えたのが届いたのか、口元をほんの少し緩ませて、視線をこちらから逸らす。
一応胸の音と背中の音を確認してもらう間、こっちを見ないでいてくれたのは良かった。
聴診器を耳から離し、担当医がパソコン上に表示されているカルテに文字を打ち込む。
「確かにあまり胸の音が良くないですね。発作は何時頃出ましたか」
「お昼過ぎです」
「その時薬は飲みました?」
「はい。頓服って書いてある袋の薬を飲みました」
「そうですか」
会話と同時に、カルテの文字が増えていく。
カチっとキーを叩く音が止まり、担当医がこちらに向き直る。
「気管支がかなり過敏になっている状態です。アルコールもそうですが、煙に近付くのは避けてください」
「はい」
「処置室で吸入をしてから帰ってください。診断書はこちらの入れておきます」
病院名が書かれた封筒が、受付番号などが書かれた用紙と共にクリアファイルに入れられる。
「来週の予約をしてからお帰りください。お大事に」
「はい。ありがとうございます」
「処置室から呼びますから、待合でお待ちください」
看護士の言葉に頷いて、クリアファイルを受け取って立ち上がると、川西さんも立ち上がって、医師に一礼する。
ポンっと川西さんに背中を軽く押され、診察室を出る。
処置室は、いくつかある診察室の並びの中央付近の扉になる。
近くの椅子に座ってから、川西さんに問いかける。
「何で婚約者だなんて」
「イヤでした?」
「嫌とかそういうんじゃなくって」
確かにそうでも言わないと、診察室には入れなかったかもしれないけれど、そんな嘘をついてまで診察に同席する必要があったの?
「イヤで無かったのならば良かったです」
「そっ。そうじゃなくってっ」
声が大きくなってしまって注目を浴びてしまったので、慌てて声を潜める。
「嫌とか嫌じゃないという話ではなくて」
「イヤではなかったのでしょう?」
にこりと笑う川西さんが、私の左手を手に取る。
すっと掲げるようにして持ち上げたその仕草が、まるでドラマの中のワンシーンみたい。
自分のことのはずなのに、まるで液晶画面の向こう側で起こっている出来事のようにさえ思えてくる。
「少々指が淋しいようですね」
ネイルをしていないこと? と思って首を傾げると、トントンと川西さんの指先が左の薬指の辺りを突付く。
婚約指輪!?
「当たり前ですっ」
赤面して答えたのを、楽しそうに川西さんが笑う。
「田島さーん」
処置室から看護士さんに呼ばれ、慌てて川西さんの手から逃れる。
川西さんといると、違う意味で呼吸が怪しくなってしまう。
看護士に説明を受けて、吸入の機械の前の簡素な椅子に腰を下ろし、もくもくと立ち上る煙を吸い込む。
多分5分は掛かる。
考える時間としては、十分過ぎるほどだ。
本当に、どうしたらいいのかわからない。
向けられる好意がストレートすぎて、どう応えたらいいのかわからない。
多分本当に、厚意じゃなくて、好意を持っているんだろうなって何となくわかるけれど、でもどうして? っていう気持ちが拭えない。
あんな素敵な人に、一目惚れしてもらえるような美人でもない。
やっぱりなんか違うなって思われても不思議ない。
どこまで信じたらいいのかわからない。川西さんの事を、自分のことを。
でもきっと、川西さんの事を好きにならずにはいられない。
今だって少なくとも何も思っていない状態ではない。
ううん。そんな後ろ向きな言い方じゃなくって、本当は……。
でもそれを言葉にはしたくなかった。
何よりも傷つきたくなかった。もう二度とおんなじ過ちを繰り返したくは無い。
目を閉じれば、石川さんの姿が思い浮かぶ。
思い出す姿はスーツだ。
私服なんて数えるほどしか見たことが無い。
その私服姿も記憶からは遠くて、思い出すことが出来ない。
「田島」
そう呼ぶ声が耳に鮮明に思い浮かぶ。
「佳代」
そうやって甘く呼ぶ声は、もうかなり遠くになっている。
もしかしたら。
そう願って何度身体を重ねたのだろう。
もしかしたら私を好きなのかもしれない。もしかしたら、彼女になれるかもしれない。
何度も何度もそう思った。
他にも何人もそういう相手がいるのは、社内の噂でも聞いていた。
その相手がまさか親友とさえ思っていた同期だった時には、絶望するのと同時に、彼女だけには負けられないと変に燃えた事もあった。
けれど選ぶのは、いつも私達以外の人。
日常的に遊び相手にしていた私や他の数人には絶対に本気にならない。
いつだって思わせぶりな態度をしていたのに。
まるで私の事を好きになってくれたかのような態度だったのに。
石川さんの同期で、今は本社に異動になった響さん。
女性から見ても魅力的な先輩で、同じ課で仕事をしている時も、抜きん出ていた人で、石川さんが選ぶのはこういう人なのか、と納得した。
響さんには何もかも敵わないと知っていたから。
だから一度は諦めた。
けど、響さんが本社に異動になって、二人の仲が破局して、そしてまた元の関係に戻った。
ああやっぱり、私のほうが良かったのね、なんて夢見たりして、本当にバカみたい。
次に選んだのは、同じ担当の加山さん。
真面目で仕事が出来る加山さん。
とても真面目で、仕事中は怖いくらいの無表情だけれど、それは不器用なだけで、本当は気の弱い守ってあげたくなるような人。
そんな加山さんを石川さんは選んだ。
けれど加山さんは石川さんを選ばなかった。
噂で、石川さんは加山さん狙いらしいと聞いた時はまさかと思った。
そして同じ担当になった時も半信半疑だった。
むしろ、同じ担当になったことで、私にもチャンスがあるんじゃないかとさえ思っていた。
けど、わかった。
加山さんじゃなきゃダメなんだって。
私は結局は性欲処理の代用品でしかないんだって。
抱く時はうまいこと誤魔化しているけれど、日常的に加山さんを見る目、話し掛ける声のトーンが、私じゃダメなんだって教えてくれた。
残酷すぎる現実に、心が壊れそうになった。
加山さんが石川さんを選ばなかった事実を知った時、もしかしたら? という希望を抱きかけたけれど、もう無理だった。
これ以上傷つきたくは無かった。
ダラダラと続けていた関係は、連絡があっても無視するという方法で断ち切った。
そもそも、思えばこちらから休みの日にデートに誘っても、けんもほろろという感じで断られてばっかりだった。
一度だって「好きだ」なんて言われたことだって無い。
抱きたくなった時だけ、甘い言葉を囁いてくるだけ。思わせぶりな態度を取るだけ。
好きになってしまうような態度を取っておいて、決して自分は好きになってくれなかった石川さん。
川西さんが石川さんみたいなサイテーな男ではないと思うけれども、でも、やっぱり信じるのが怖い。
好きになって、掌を返されるのはもう耐えられない。
それでも、好きにならずにはいられない。
今回拍手小話更新ありません。ごめんなさい。