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傷つけない。
そう言った川西さんのことを心から信じたわけじゃない。
こんな人が私を騙したって、何のメリットも無い。
だからきっと純粋に厚意なんだろうと思うことにする。
病院まで送りますよというその言葉が、息苦しい今は、歩かなくて済むならありがたいとさえ思える。
そして、石川さんのように自分の気持ちを押し付けるのではなく、体調を慮ってくれる人なのだから、悪いようにはならないだろう。
でも取引先の初対面の支店長に、そこまでしていただくわけにはいかない。
「お心遣いは大変あ……」
「うんって言えばいいんですよ。ああ、でもそれは無理ですよね」
断りの言葉を口にしようとしたら、遮るように川西さんが言い、ふっと溜息を吐き出すように笑う。
「あなたは強引に押し切られました。そういう事にしましょう」
言いながら逃げられないようにとでもいうかのように、手首をつかまれる。
決して強く掴まれているわけではないのに、その手から逃れることが出来ない。
痛くもないのに、まるで強い引力でそこに留まるように縫い付けられたかのように。
私の手を掴む反対の手で器用にスマホを操作し、川西さんが電話を始める。
「……正面入口にお願いします」
声のトーンが、ずっと低くて冷たい感じがする。
短くそれだけ言うと通話を終え、くいっと腕を引っ張られる。
「荷物、持ちますよ」
「大丈夫です。重いもの入ってませんから」
くすりと笑った川西さんの声のトーンは柔らかなものに戻っている。
あれは聞き間違えだったのかと思うほどに。
笑い返す事さえ出来ない川西さんが私の手を引いて歩き出す。
と言っても、ほんの数歩だけれども。
車寄せで待っていると、目の前に黒い車が止まる。
車に興味が無いので、車種はわからない。
ただなんとなく、高そうな車だなーとしかわからない。
昼にスマホを渡しそびれた時に、川西さんが乗っていった車と同じ車だという事はわかるけれど。
運転席から黒いスーツの男の人が出てきて、川西さんの前で一礼し、後部座席の扉を開ける。
「お待たせ致しました」
運転手、でいいのだろうか。
その人の言葉に頷き返すだけの川西さんに、逆に居心地が悪くなってしまう。
ありがとうございますとか言わなくていいんだろうか。
どうしようと思って、川西さんの顔を見上げると、口角を上げて私を見つめ返してくる。
「どうぞ。病院までお送りしましょう」
掴んでいた手を離し、ポンっと背中を軽く押される。
今更逃げるとか考えてはいなかったけれど、何となく逃げられない雰囲気を感じる。
「どうぞ」
促すように微笑みながら言っているだけなのに、何故か猛禽類に睨まれたかのような威圧感がある。
考えるだけ無駄だ。
諦めよう。
「ありがとうございます」
さっき言いかけて飲み込んだ言葉を口にして、言われるままに車の後部座席へ座る。
その隣には当たり前のような顔をして川西さんが乗り込み、黒いスーツの運転手が扉を閉めた。
運転手に川西さんが病院の名を告げると「畏まりました」という短い言葉だけが返ってきて、車はすーっと大きな音を出さずに進んでいく。
何を話したらいいのだろうか。
何も話さないほうがいいのだろうか。
こんな運転手つきの、すわり心地の良すぎる車なんて乗ったことないし、こういう場での常識なんてわからない。
つくづく生きる世界の違う人なんだなって思う。
そんな人が何で私なんかに絡んでくるんだろう。
一目惚れなんて言われても、そんなの全然信じられないし。
やっぱり会社を訴えたりしないように、何らかの企みがあるって考えたほうがいいかもしれない。
けど、そう思おうとすると、ちくちく心が痛くなってくる。
今日あったばかりの、ほんの少ししか話していない人に、心のどこかが持っていかれたのだろうか。こんな短時間で?
その考えを打ち払おうと、目を閉じる。
目を閉じれば瞼の裏側には、エレベータホールでの光景が思い浮かぶ。
無理を通そうとする石川さん。
やんわりとそれを非難する川西さん。
二人の顔が浮かんで、そして余計に心がぎしぎしと痛くなった。
本当は……。
その先は、言葉にしてはいけない気がした。
記憶から遠ざかる為に、瞼を開ける。
「大丈夫ですか? 苦しいですか?」
心配そうな声が掛けられ、声の主に目を向ける。
後部座席は普通のセダンよりもずっと広く、隣に座っているけれど、通常の車よりも距離感がある。
今はその距離感にほっとしてしまう。
「大丈夫です。座っていればそれほどでもないんです」
会話をするとたまに、ひゅーっと音が抜けるけれど、それでもさっきまでに比べたら全然ラクだ。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ。お役に立てて良かったです」
にこりと笑うこの人が支店長だという事を唐突に思い出して、はっとする。
「川西さん、お仕事は大丈夫なんですか?」
会議などが無くったって、決裁しなくてはならない書類だってあるだろうし、一企業の支店長なのだから、こんなプライベートに付き合って時間を無駄になんて出来ないはずだ。
そう思うと急に申し訳なくて、いたたまれなくなってくる。
どうしよう。
簡単に厚意に甘えていい人ではなかったんだ。
ましてや色々あった取引先の支店長とはいえ、仕事の相手なのに。
これで仕事に穴を開けてしまったら、私が倒れたことよりもずっと会社にとって損失になる。
そんな簡単に思い浮かぶ常識が、どうして今の今まで欠落していたんだろう。
本当にどうにかしてる。
もっとちゃんと考えてから行動しないと。
「今日の午後はどちらにしても休みを取るつもりでしたから。あなたが気にしなくても大丈夫ですよ」
「え? じゃあ折角のお休みなのに」
「私に付き合せてしまっては申し訳ないので、ですか?」
先回りした言葉にはっとする。
心の中を覗き込まれたような気がしたからだ。一言一句違わず、言おうとした言葉だったからだ。
「あなたといる以上に素晴らしい休日は無いですね。休日を潰したと憂いているのなら、今日一日付き合ってください」
「……はい?」
「病院に送って、それでさようならはしませんよ」
「え?」
「折角の機会を無駄にする性質ではないので」
逃がしません。そう言外に言われた気がしたのは、気のせいではない。
だけど、でも、絶対に何かおかしい。
一目惚れなんて信じられない。
そこまでする価値が私にあるとか思えない。だからやっぱりこれは懐柔して取引先への心象を良くする作戦に間違いない。
「本当に川西さんの会社を法的に訴えたり、会社間の係争になったり、賠償金を吹っかけようとかそういう事はしないので、そんな……」
そんな気のある素振りをしないでください。
そう言いたかったのに、言葉にするのは胸が痛んで出来なかった。
私に向けられる川西さんの視線が、今までになく鋭くなったからかもしれない。
それが、私の言った事が事実なんだと肯定しているようにも思えた。
「なんなら誓約書も書きますから」
これ以上、心の中に入ってこないで。
イケメンなんて嫌い。
顔だけで他人の心を魅了するんだもん。しかも極めて胡散臭い。
そういう目線で見れば、川西さんの一連の行動は胡散臭い以外の何物でもない。
何のとりえもない、見た目だって普通の私なんかに、一目惚れするはずがない。。
「そんな事は望んでいません」
きっぱりと川西さんが告げる。
「興味の無い人間に無駄な時間を割く事もしません。純粋に好意を持っているとは思えませんか」
好意?
厚意、ではなく?
体調を気遣ってくれるのは、本当に好意からくるものなの?
信じられない。
「だって、一目惚れなんてありえないじゃないですか。昼にお会いした時に、ですよね?」
「ありえないですか? でも一目惚れしてしまったんですよ」
「あの短時間にですか?」
少し困ったような顔で川西さんは笑う。
「あなたは覚えていないんですね」
「何をですか?」
意味深な問いかけに、問いで返すと、ますます川西さんが苦笑する。
「一度、社でお会いした事がありますよ。といっても、軽く会釈をした程度でしたけれど」
そんな事あったかな。
これだけのイケメン、見たら忘れることなんて無いと思うのに、全く覚えていない。
何度か取引先に出向いて商品説明をしたり、運用品の保守管理について説明した事はあるけれど、その際に支店長は同席していなかった。
ルート営業でご挨拶に伺って御用聞きをするというスタンスなので、そう何度も訪問しているわけではない。
ならば記憶にありそうなものなのに。
「先月、支店長に就任したばかりの頃、あなたが営業で来られたことがあります。その時にお見かけし、うちの社員たちと談笑しているのを見かけました」
「はい。先月は確かにお伺いしました」
「笑顔の素敵な方だと思いました。そしてその笑顔が頭からずっと離れませんでした。これは一目惚れとは言いませんか?」
「……言うかもしれませんが」
でも本当に?
にわかには信じられない。
記憶に残らないほどの一瞬だったはずなのに。
「信じるか信じないかは、田島さん次第ですよ。嘘は何一つ言っていませんから」
それが真実なのかどうか、見極めるように瞳を見返すけれど、キレイすぎる顔からは感情らしきものを感じられない。
ああ、そうか。
どうして信じられないかというと、そこに「熱意」が無いからだ。
口では一目惚れだと言っているけれど、とても冷静に淡々と話しているから、信じられないんだ。
「信用とはそんな簡単に作れるものではありませんし、まして信頼を得るには長い時間が必要でしょう」
そしてとても事務的なんだ。
とても恋愛の話をしているとは思えないくらいに。
「だから、今日あなたが帰るまでの時間をください。決して傷つけたりしませんから」