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UP TO YOU  作者: 来生尚
6/14

 そのまま石川さんは上に戻るのかと思っていたのに、エレベータを一緒に降りてしまう。

 落ち着け。

 冷静に冷静に。

 大声出したりしないで、冷静に。

 もう全部終わったこと。それは石川さんだってわかっている。

 不毛な恋なんてしない。

 絶対に私に心を動かされない人になんだって知っている。

 もう何ヶ月も、石川さんが「たった一人」を見ていたのを近くで見てたから。

 終わりにしたのは自分自身。絶対に叶わない恋なんだってわかった。

 こんないびつな関係になったキッカケは些細な事。

 ポンっと頭に乗せられた掌が、大きくて温かかったから。

 異動でこの支社に来て、営業と営業企画の合同の懇親会でボーリングに行った。

 くじ引きで同じレーンになったのが縁で、ちょこちょこ食事に誘われたりして、気が付いたら体の関係になっていた。

 特別なんだなんて舞い上がったのは、ほんの短い間だけ。

 先輩、同期、後輩、派遣さん。

 何人もが石川さんと関係を持っていた。

 私は都合のいい女の一人。

 それでも、もしかしたらと希望を持っていたけれど、同じ担当になってわかった。

 この人は絶対に私に愛情をくれない人だって。

 見せ掛けだけの愛情らしきものはくれるけど。

 そう結論付けるまでの時間は、そんなに必要じゃなかった。

 けれど、石川さんの失恋を目の当たりにして、また不完全燃焼だった不毛な恋の火が点いた。

 あれは間違いだった。

 やっぱりあの頃と何も変わらない。石川さんの心の中に、私の居場所は無い。


「私、あんまり器用じゃないんです」


「は?」


 意味が分からないといった表情の石川さんに作り笑いを向ける。


「同じ担当なのに前みたいな関係になっちゃうと、職場で上手く繕えなくなるんです。石川さんみたいに器用じゃないんですよ」


 好きな女がいても、他の女を平気で抱けるあなたみたいに、心も器用じゃないです。

 心の中の毒は飲み込んだ。


「俺はただ、お前の体調が心配だっただけで」


 そう。

 あなたはいつもそう。

 踏み込もうとしてこちらが跳ね除けると、まるでこちらが考えすぎかのように下心なんて無かったと言う。

 けれど、仕事中には絶対に名前でなんて呼ばない。

 二人きりのある瞬間だけしか、そんな風に呼ばれない。

 だから、体調不良にかこつけて、距離を詰めようとしてきたことは言われなくてもわかる。


「大丈夫です。これから病院行きますから」


 営業用の笑顔を向けると、困ったような顔で石川さんが苦笑する。


「送ってやろうか?」


「いいです。お気持ちだけで」


「佳代」


「結構です。お先に失礼します」


 カツンとヒールが床を蹴る音が一つ。

 次の一つの音はきれいに響かず、乱れた音がエレベータホールに響く。


「待てよ」


 石川さんがぐいっと腕を掴む。

 咄嗟に身を捩るものの、血中酸素濃度が低くなっているせいか、少し動くだけでも息が乱れる。

 ひゅーっと喉が鳴る。

 今日は石川さんは鬼門!


「送ってくから」


「いやです。病院、ひとりでいけますからっ」


 ぎゅっと掴まれた手から逃れる為に、足に力を入れるものの、全然ぴくりとも動かない。


「意地はんなよ」


「意地になんてなってませんっ」


 ふいにぐいっと後ろから肩をつかまれ、ポンっと誰かの背中に当たる。

 石川さんの表情も固まっていて、誰だろう? と後ろを振り返る。


「かっ。川西さんっ?」


 何でここに?

 もう帰ったんじゃなかったの?

 川西さんの右腕にぐいっと力が籠められて、後ろから片腕だけで抱かれる。

 右腕が胸の上をとおり、左の肩を掴む。決して強くはない力で。

 ぎょっとして固まっていると、端正な顔がすぐ横にきて、目線がぶつかる。


「息してみてください。深呼吸」


「は、はい? あのっ。それより腕をっ」


「大きく吸って。それから吐いて」


 全く動じることなく、静かな声が耳を揺らす。

 髪、下ろしてて良かった。多分耳真っ赤になってる。

 心拍数は限りなく多くなっている。

 ドキドキが耳に聞こえてきそうなくらいで。


「吸って?」


 柔らな声だけれど拒絶はゆるされないようで、深呼吸することを促される。

 すーっと息を吐くと、すぐ横の目が優しくなる。


「そう。上手だね。ゆっくり吐いて。何度か深呼吸してみてください」


 観念して言われるがままに何回か深呼吸すると、川西さんの腕が離れ、体が遠ざかる。

 これでもうドキドキしているのが伝われないと思うと、ほっとする。


喘鳴ぜんめいがしますね。気道が狭くなってます。急いで病院に行きましょう」


「え?」


「一昨日アナフィラキシーショックを起こしたばかりで、今この状態は危険です」


 言われた言葉は耳を通り抜ける。

 気道? 確認してたの?

 変に意識してしまっていた、自分が恥ずかしくなる。


「病院なら俺が連れて行きますから」


 川西さんよりも低い声が意識に飛び込んでくる。

 あ。一瞬忘れてた。石川さんの存在。

 そのくらい、ありえなくって気が動転して。


「あなたは?」


 さっきまでよりもずっと冷ややかな声で川西さんが尋ねる。

 ああ。そうだ。さっき課長が紹介する間が無かったから。


「田島と同じ担当の石川です。今後御社の担当をさせていただきます。よろしくお願いします」


 石川さんの声も、若干棘がある。

 気恥ずかしさもあり、後ろを振り返ることが出来なくて、前の石川さんを見つめるしかない。

 その目は真っ直ぐ私の後ろに向けられている。

 ふっと背後で笑うような声がした。


「そうですか。その件はこちらが口出し出来る事ではありませんので、今後よろしくお願いします」


 皮肉っぽい声に何故か、ずきっと心が痛んだ。

 そして気がついたら振り返っていた。

 川西さんは私に気付くと、ふっと視線を緩める。


「なんて顔してるんですか」


「……どんな顔してますか?」


 真っ赤な顔でもしてるのかな。

 不安になって聞くと、くすっと笑って川西さんが腰を屈める。


「攫ってしまいたくなる」


 耳元で囁くと、ポンっと私の肩を叩く。

 急にさらりとそんな事を言い出さないで。

 今までとは違う意味で息が苦しくなる。


「田島さん。病院にお送りしますよ」


「だから、俺が」


 若干苛立たしさを内在する声で、石川さんが抗議しようとしたのを、川西さんは視線一つで拒絶する。


「病状を悪化させたのはあなたでしょう? 先程田島さんを乱暴に扱ってましたよね」


「んなこと」


「ありますよ。こんなに息が苦しそうなのに、あなたは平気で自分の意思を押し付けようとした。彼女を慮っているとは言いがたい行動でしたよ」


 畳み掛けるように、けれど冷静に淡々と告げる川西さんに、石川さんが一瞬口を噤む。

 その視線が私に向けられる。

 と、同時に、偶然だけれど、ひゅーっと喉が鳴る。


「一人で行けますから大丈夫です。川西さん、ありがとうございます」


 すっと、川西さんから距離を取る。

 けれども石川さんからも遠ざかるように。


「石川さん。仕事まだ残ってますよ。それに残業申請も出してましたよね? 私の事は気にせず仕事に励んでください」


 まだ紅潮しているであろう頬には熱が残っている。

 耳元には川西さんの囁いた声が反響している。


「佳代」


 再び名前で呼んだ石川さんの声に、ぎゅっと眉根に力が入る。


「業務中は名前で呼ばないでくださいね。お疲れ様でした。お先に失礼します」


 勤めて冷静に返事をし、川西さんにも一礼する。

 カツン、と再びエレベータホールにヒールが床を蹴る音が響く。

 カツンカツンと音を立てて固い床を歩いて抜けていく。

 振り返ることはしなかった。

 振り返ってしまえば、何かが壊れて、何かが動いてしまいそうな気がして。



 自社ビルを出たところで、後ろを振り返る。

 誰の姿も無かった事にほっとしたのと同時に、胸がぎゅっと痛む。

 やっぱりという言葉が浮かび、がっかりした気分になる。

 誰がいなかったことに、がっかりしたんだろう。

 ふと浮かんでいたそんな考えを振り払うように、腕時計に視線を落す。

 時間は2時過ぎ。

 病院の予約は4時30分だけれど、早めに行っても診察して貰えるかな。

 とりあえず駅まで出て、病院方面行きのバスに乗ろう。

 駅前のロータリーに行こうと決めて一歩を踏み出そうとしたところで、ポンっと肩を叩かれる。

 その手の感触や香水の香りを覚えてしまった自分がイヤだ。

 やっと落ち着いたと思ったのに、また心にざわめきが起こる。


「送りますよ」


「だいじょうぶです」


 取引先の支店長相手に失礼だとわかっていながらも、振り返らずに答える。

 ものすごく人に見られたくない場面を見せてしまって気まずい。

 あんなところ、誰にも見られたくなかったのに。

 色々社内で噂が流れているのは知っている。

 けれど決定的な場面は誰にも見られないように気をつけていたのに。


「歩くのも辛いでしょう」


 確かにちょっと辛いけれど、そんなこと見透かさないで。

 それに、柔らかな声のトーンが耳に心地いいとか思っちゃうのも、イヤだ。

 イケメンは声までイケメンなんだろうか。

 その声は心の奥のほうまで、するすると入り込んでくる。


「田島さん」


 呼ばれてしまうと返事をしないわけにはいかない。

 のろのろと振り返ると、川西さんはふわりと相好を崩す。


「一緒に行きましょう。病院」


「そこまでしていただくわけにはいきません」


 ふっと笑って、川西さんが目を細める。


「あなたは口より目のほうがとても素直ですね」


「目?」


「ええ。目」


 節ばった指が目尻に触れる。

 くすぐったいような感触に、鼓動が早くなる。

 あっさり離れていった優しく触れた指先を目で追ってしまう。


「送りますよ。病院まで」


 まるで決定事項のように告げられ、一瞬拒絶が遅くなる。


「いえ。一人で行けますから。それにそこまでしていただかなくても結構です。謝罪なら何度も」


「謝罪ではありませんよ」


 じゃあなんだと言うのだろう。

 こんな人が私に絡んでくる理由なんて無い。

 優しくして、私を落して、会社を訴えないようにさせようとか考えているんじゃないだろうか。

 会社同士のやりとりでは表に出ないようにって決めても、もしも私が訴えたりしたら、とか考えてたりして。


「では余計に理由がありません」


「一目惚れした女性と少しでも一緒にいたいというのはおかしいですか?」


 にっこりと笑われて、その笑みが余計に作り物っぽく感じた。

 そんな言葉を言うのに照れもなく、計算尽くされたような笑い方で、感情の乗らない声で言われても、嘘にしか思えない。


「……そんなに私は地雷女に見えますか?」


「何故そう思うんですか」


 聞かれて、今回の件を訴えないようにさせようとする策にしか思えないことを遠まわしに遠まわしに伝える。

 自分には一目惚れされるようなところなんて無いと織り交ぜながら。

 無駄に長くなった説明を聞き終えると、川西さんが再び目尻に触れる。


「うん。あなたはとても自信が無いのですね。とても魅力的なのに」


 皮膚から伝わる感触も、心も、くすぐったくて仕方なくなる。


「大丈夫。あなたを傷つけたりしませんよ」

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