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「……どうした?」
なんとか振り切って個室に戻った時には、精神的疲労が凄まじすぎた。
しかも結局スマホは返せずじまい。
これ無かったら困るんじゃないだろうか。
「ああ、会えなかったのか。迎えの車でも来ていたんだろう。このあたりは路駐も煩いから、急いでいたのかもしれないな」
課長。そうじゃないんです。
会えたけれど返せなかったんです。
正確には受け取ってもらえなかったというか、はぐらかされたというか。
大体一目惚れなんて、絶対嘘に決まっている。
あーっもうっ。
いきなりそんな事言い出すから、頭が真っ白になって、結局渡せなかったんだわ。
なんか妙に面白そうに笑っていたし。
川西支店長の思う壺?
イケメンむかつく。
「これは、今日お返しに伺ったほうがよろしいでしょうか」
「そのほうがいいが、お前に行かせるわけにも」
「ですよね」
まだ正式な謝罪を受けてはいない。
病室とさっきと、個人的な謝罪は貰っているものの、被害者である私がのこのこ取引先の支店長のスマホを返しに行くのはおかしな話だ。
「後であちらに確認しておく。俺か石川が行けばいいだろう」
「お願いします」
それがいい。
そうしたらもう会わなくて済む。
あんなに心臓に悪いイケメンに一目惚れしましたなんて言われて、心が揺らがないわけが無い。
けれどそれが絶対に嘘だと分かっている。
そもそも惚れられる要素なんて、一つも無い。
もしもあんなイケメンに一目惚れされるようなところがあるなら、もう何年も彼氏がいないのがおかしい。
痴漢にはイヤってほど会うのに。
本当に運がない。
あ。もしかして、今回のアレも新手の痴漢?
いやいや、あの人あの顔と肩書きで、女性に不自由しているとは思えない。
からかわれたのか。それともよっぽど向こうの会社を訴えそうな地雷女に思われたのか。
なんにしても、その顔に騙されると思うなよ!
イケメンなんてだいっきらいなんだから。
課長との昼食を終えて営業課へ戻ると、先輩であり今回の取引先を私の前に担当していた石川さんに声を掛けられる。
昼休憩の時間は過ぎているけれど、石川さんに取引先を引き継いで貰うことになりそうなので、一服がてらの世間話に応じる。
「んで、どうだった? 向こうの支店長」
「土下座されちゃいましたよ。そこまですることないと思うのに」
自動販売機の紅茶のボタンを押しながら答える。
ガコンという音と共に落ちてきた缶を取り出し、小さなテーブルの上に缶を置く。
目の前で石川さんは面白いものでも見たかのような顔をしている。
この人もイケメンなんだよなぁ。
でもさっきの毛並みの良いライオンみたいな人とは違う。
アレ見たあとだと、大分落ちる。ごめんなさい。
雰囲気イケメンって誰かが言っていたけれど、その意味がよくわかった。
でも些細な仕草とかが、本当にイケメン風味。
今日はイケメン日和なのかしら。嫌な日だわ。
「へえ。あそこの支店長って結構年いった定年間近の爺さんだったと思うけど、そこまでしたか」
「え? 違いますよ。妙に若い人でしたよ。とても支店長で取締役には見えないような」
「ふーん。んじゃ俺が持ってた時と変わったんだな」
ポンポンっと石川さんが煙草の灰を灰皿に落す。
「そんな若いヤツが土下座なんてしたか。お前の事、よっぽどヤバイと思ってるんじゃねーの?」
「それはどういう意味でしょう」
「いやいや、入院させちまったし、こっちは一応大企業だし?」
そういう意味ね。
ヤバイのは私本人かと思っちゃったわ。お昼のやりとりもあったせいで。
「でも死んだりしたわけじゃないですからね。向こうだって名の通った企業ですから、そこまで平身低頭ってのもおかしい気がします」
「あー。まあ、そうだな。んじゃ若くて駆け引き下手だったのかもしれないな。普通そこまでしないだろ」
「ですよね」
同意を得られて、心の違和感を共有できたおかげか、心が軽くなる。
大体あの場面であのイケメンが土下座したり、一目惚れ発言したり、おかしなところばっかりなのよ。
あれは絶対変よね。
「だいた……こほん」
唐突に咳が出る。
「ごほっ。すみません」
そして途切れることなく、咳が出始める。
喉が痒いような息苦しいような。
これはあれだ。
入院するキッカケになった。あの咳だわ。
何で? 何で?
「大丈夫か?」
ぎゅっと煙草の火を押し消した石川さんが、腰を屈めるようにして顔を覗き込んでくる。
でも咄嗟に咳が出そうになって顔を背けると、やっぱり咳がこほこほっと出てくる。
「これ、アルコール入ってないですよね」
飲んでいたミルクティの缶を石川さんに見せると「当たり前だバカ」と返される。
バカは余計です。
念のために聞いてみただけです。
心配そうな顔しといて、結構酷い。今に始まったことじゃないけど。
「席戻ります。薬あるし」
「ああ。無理すんなよ。なんなら午後休取ったらどうだ?」
毒を吐いておきながらも、まなざしは優しい。
何かを確かめるかのように、大きな手が頬を撫でる。
一瞬ドキっとしてしまうのが悔しい。
「ああ、血の気が引いている感じじゃないな。こないだは顔真っ青だったから」
「あの時ほど酷い感じではないです。とりあえず戻って薬飲みます」
「ああ」
そう言うと手を離し、石川さんはもう一本煙草に火を点けた。
咳き込みながら席に戻ると、難しい顔をしてパソコンを叩いていた野村くんがぎょっとした顔をする。
「田島さんっ。発作出たんじゃないんですか?」
さすが喘息持ち。言う言葉が石川さんとは全然違う。慌て方も。
「息苦しくないですか? ひゅーひゅーしたり、ぜーぜーしたりしてないですか?」
「大丈夫。この間ほど酷くない」
途中咳き込みながら答えると、野村くんは溜息を吐き出す。
「あのくらいなら即救急車呼ぶレベルです。頓服か吸入薬は貰ってます?」
頓服? ああ、飲み薬のことね。
そういえば薬を入れた袋にそんな日本語が書いてあったかも。
「飲み薬があるから飲むよ」
「発作の時用の薬ですよ?」
念を押すように言われて、はたと思い出す。
そうだそうだ。
もう一度同じような症状が出たら飲むようにって言われてた薬があった。
鞄の中を漁って取り出す。
あったあった。発作用の薬。
小さな錠剤を取り出し、口の中に放り込んで、持っていたミルクティを流し込む。
「……田島さん。薬は水で飲んでください」
「大丈夫よー。だってこれにはアルコール入ってないんだから」
「そういう問題じゃありませんからっ」
はーっと野村くんが溜息を吐く。
普段は頼りない後輩のはずなんだけれど、こないだからやけに世話焼きになった。
そして妙に上から目線だ。
「もしそれにアレルゲンが入ってたらどうするんですか? 今血液検査の結果待ちですよね?」
「大丈夫だって。朝牛乳飲んだし」
げんなりした顔で、野村くんが再び溜息を吐く。
「んじゃ、何が原因で咳出たんですか。さっきまで平気でしたよね?」
「んー、わかんないなぁ」
「わかんないなぁじゃなくって、何してたら咳き込んできたんですか」
何してたらって別に何もしてないんだけれど。
「石川さんと取引先について話してた」
「……それって喫煙所ですか?」
「そうだけど?」
野村くんはついに頭を抱えてしまった。
リアルに頭を抱える人、初めて見た。
「あーなーたーはー、バーカーでーすーかー?」
「はい? それ先輩に言う言葉?」
「先輩後輩関係ありませんよっ。何で気管支狭くなってる時に、煙草の煙吸っちゃうんですか。そしたらまた発作おきて当たり前ですよ。そう言われませんでした?」
んーっと?
言われたような言われなかったような。
煙草を吸うかは聞かれたけれど、吸わないって答えてそれ以上は何も言われなかったかも。
「おおらかっていうか、鷹揚っていうか。それは田島さんの良さだと思いますけれど、もうちょっと気にしてください。自分の身体の事なんだし」
「はい、すみません」
謝ったにも関わらず、野村くんは「絶対わかってない」と零す。
「そう思いません? 加山さん」
派遣の加山さんは、そういえばいつもはリズミカルに叩くキーボードを叩く音を響かせているというのに、今は手を止めて私を見ていた。
「救護室で少し休んだほうがいいと思います。付き添いましょうか」
あまり感情を見せない人だけれど、今は明らかに表情を曇らせていて、心配しているのが伝わってくる。
「加山さんっ。俺、救護室行くんで、加山さんその資料お願いします。俺にはそれどうにも出来ないんで」
「わかりました。お願いします」
どうやら私の意思とは関係なく、救護室行きは決まっているらしい。
二人とも心配性だなと苦笑しつつも、何だか少しくすぐったいような気分になった。