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川西さんに連れてこられたのは、ひっそりと路地裏に佇んでいる鉄板焼きの専門店だった。
和食と言われたので意外だったけれど、目の前でシェフが焼いてくれるスタイルのお店だった。
そんな鉄板焼き食べたの初めてで、目の前に人がいるという状況で緊張しちゃったけれど、料理はものすごく美味しかった。
デザートと緑茶が目の前の置かれると、メニューを説明する以外は無言だったシェフが目の前を去る。
個室の中には川西さんと二人きりになり、ふと目を向けると、柔らかな視線とぶつかる。
「すごく美味しいお店に連れて来てくださって、ありがとうございます」
「いいえ。気に入っていただけて良かったです」
「和食とおっしゃっていたんで、もっと日本料理っぽいものを想像したんですが、こういうところに来たの初めてで楽しかったです」
「のわりには、緊張してましたよね」
見られてた。
なるべくいつもどおりを心がけてたつもりだったのに。
全然緊張を隠しきれていなかったことがバレていたことに、恥ずかしくなる。
「……緊張しますよ」
だって、川西さんは隣にいるし。
後半部分は口を噤むことで誤魔化した。
ふっと優しく微笑んだ川西さんが、俯いたわたしの髪を撫でる。
今日何度目かのそれを、真っ赤な顔は見られたくないので、そっと覗き見る。
---!!
視線がばちっと合い、頭の中で静電気みたいな音がする。
「佳世」
「はいっ」
「今だけ、そう呼んでも構いませんか」
今だけ。
その言葉に胸がきりりと痛む。
でも当たり前の事だ。
明日は無いんだ。
「……はい」
「どうしてそんな顔を?」
「そんな顔?」
すっと頬を撫でた指先が顎に掛かる。
指先に力が加えられ、俯いていた私の顔は、真正面から川西さんを見つめる事になる。
「気付いていないのですか」
「何に?」
問いには答えず、川西さんの秀麗な顔がゆっくりと近付いてくる。
何をしようとしているのかわかったけれど、動く事が出来ず、茶褐色の川西さんの瞳を見つめ返す。
「佳世」
唇が優しい声で、私の名前を呼ぶ。
とくんと胸が高鳴り、きゅっと目を瞑る。
その瞑った瞼に唇が落され、そして唇の上で重なる。
ちゅっと触れるだけの優しいキスに、涙が出そうになる。
どうしてこんなにも優しいんだろう。
どうして今だけなんだろう。
明日は求めてはいけないのが苦しい。
やわらかい唇が離れるのと同時に目を開けると、至近距離で視線とぶつかる。
「川西さん」
「透。そう呼んで」
「とおる?」
「そう」
ぎゅーっと胸の中に抱きしめられ、縋るように川西さんのスーツの胸の辺りを掴む。
指先は震えている。
けど、この手を離したら遠くに行ってしまいそうで、指先に力が入る。
「佳世」
囁かれる声に顔を上げる。
「君が好きです」
「本当に?」
ふっと川西さんが微笑む。
「本当ですよ。冗談ではなく婚約者になりませんか?」
「……私なんかじゃ」
大きな会社の支店長を任されるような仕事の出来る人で、眉目秀麗という言葉が似合うような人の婚約者なんて。
「あなたらしい断り文句ですね」
さらっと流し、川西さんは一瞬だけ唇を重ねたかと思うと、腕の拘束を緩める。
「少しだけ話を聞いてもらえますか」
「はい」
何を話そうと言うのかわからないけど、体温が遠ざかった分だけ、すぐ傍にいるのにも関わらず淋しさが募る。
「年明けには海外に行く事になっています。そこにあなたも連れて行きたい」
「え? 今十月ですよ」
早すぎませんか、展開が。
「隠す事ではないので、全てお話します」
「はい」
「ゆっくりお茶でも飲みながら聞いてください。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
今は取って食ったりしませんからと、冗談めかしに付け加えられる。
そう言われても、ゆっくりまったり聞けるような話じゃない。
とはいえ、緊張のせいか喉がカラカラなので、少し冷めたお茶を一口飲む。
川西さんがデザートのお皿を私のほうに「はい」と差し出す。
「甘いもの、苦手なのでどうぞ」
これから旬のリンゴを使ったデザートのお皿はとても美味しそうで、素直にいただくことにする。
リンゴのコンポートをフォークで切り、一口口に運ぶのを見て、川西さんが頬を緩ませる。
「ずっと思ってたんですけれど、とても美味しそうに食べますよね」
「え? そうですか?」
そんなにニコニコしていただろうか。
「すみません。どれも美味しくって」
「いえいえ。いいんですよ。見ていて嬉しくなりました」
「嬉しい。ですか?」
「ええ。あなたが目の前でニコニコしているのが見られて」
真っ直ぐ向けられる好意を、今は嘘だとは思えない。
ううん。思いたくない。
これが演技だなんて疑いたくない。
「ニコニコしちゃいますよ。だって美味しいんですもん」
「そうですか。ここを選んだ甲斐がありましたね」
何となくだけれど、川西さんの顔が『してやったり』といったように見える。
「もっと所謂和食って言うんですか? あのお刺身とか天ぷらとか。そういうのを想像していたので予想外だったんですけれど、とても美味しかったです。ありがとうございます」
「いいえ。アレルギー反応が出ている時に、生ものはあまりよくないですからね」
「そうなんですか。アレルギーにお詳しいんですね」
私なんて当事者だというのに、アルコールを摂取しなければ良い程度の認識しかないのに。
だから煙草の煙で咳が酷くなったりしたし。
「知人にアレルギーのある人間がいたので」
「そうだったんですね」
その人も酷いアレルギーを持っているのかもしれない。
納得して、デザートの一皿目の攻略に戻る。
見られて恥ずかしいとか考える余裕もないくらい美味しい。手が止まらない。
「美味しいですか」
「はいっ。美味しいです。川西さんもどうですか、一口」
言った瞬間に川西さんの表情が曇る。
そんなに甘いもの苦手なんだろうか。
「透です」
「はい?」
「透。そう呼んでください」
「……はい」
心の中でも透とは呼びにくい。
か、彼としては不機嫌そうな声で指摘するので、とりあえずは同意しておく。
そうやって距離が近付けば近付くほど、後が辛くなるから。
「えっと、お話というのは」
「ああ。そうでしたね」
手にしていた湯飲み茶碗を置き、彼はふーっと溜息を吐き出す。
いつもどおりの柔和な表情ではなく、どことなく固い顔をしている。
「この若さで支店長を任されたのは、祖父がグループ会社の会長の弟なんです」
突然始まった告白に、彼の会社のことを思い出す。
幾つかのグループ企業に分かれていて、その中心が有名な機械工業の会社で、彼が支店長を勤めている会社はそのグループの傘下になる。
確か、創業者の苗字が企業名になっていたような。
彼の名は、その名前ではない。
「母は一人娘で、川西の家に嫁ぎました。なので創業一家からすると遠縁になりますが、あまり血縁も多くないので、こんな若造でもそれなりの肩書きを持たされています」
確かに若い。
一般的には、企業の支店長を勤めるような年齢ではない。
不本意。
そんな表情が彼からは伝わってくる。
「年明けには海外のグループ会社を一つ任される事になりました。国内にいると、目障りなようで」
くしゃりと歪んだ顔は、今まで見せた事の無いものだった。
彼の心の一端に触れてしまったようだけれど、あまり良い方向ではなかったような気がする。
「か……とおる、さん?」
思わず手を伸ばして、彼の腕に触れる。
「大丈夫ですよ。気紛れに振り回されるのには慣れてますから」
行きたくないのだというのは、口調などからわかる。
「恐らく数年は確実に帰って来られません。巻き込む事はわがままだとわかっています」
伸ばしていた手が彼に絡め取られる。
手を握られた瞬間、鼓動が最大限に早くなる。
ドキドキドキドキと。
耳が痛いほどに。
「佳世。一緒にいて欲しい。とても仕事を楽しそうにしていることも知っています。それでも、それを辞めて、一緒に来て欲しい」
「と、おる、さん?」
「佳世の人生をください」
頭の中が真っ白になる。
言葉だけが頭を回る。
心臓の鼓動の音と、彼の射抜くような視線と、人生をくださいという言葉しかわからない。
「絶対に幸せにしますから。だから」
縋りつくかのような彼の決意に、涙が零れ落ちてくる。
何故涙が出るのかわからない。
ただ、彼をそのまま見つめ返す事しか出来ない。
「結婚してください。お願いします」
「……本当に?」
「幸せにしますよ」
「ううん。そうじゃなくて。あの、本当に私で良いんですか?」
強張った表情を崩し、彼が「ええ」と頷く。
「日本語以外喋れません。家事も、掃除しか出来ません。何一つ、お役に立てません」
「構いませんよ」
「でも、でもっ!」
私はあなたには相応しくない!
見た目だって普通。仕事だって普通。家事能力は普通以下。
そんな私が大きな会社の子会社一つ任されるような人に、相応しいとは思えない。
「じゃあ佳世は、もう会わない。これっきりになっても平気ですか?」
微笑みながら落された爆弾に、びくりと体が震える。
もう会えない?
短時間では見慣れたとは言えない、キレイすぎる顔を見つめる。
視線を落し、握られた手を見つめる。
私はこの手を離せるだろうか。
そんな事を思った瞬間、彼の手から力が抜け、ぎゅっと握り返す。
離したくない!
頭で考えるよりも先に、心が動いた。
「……無理です」
「無理?」
強張った顔で彼が聞き返してくる。
「一人になるなんて無理。置いていかないで」
涙が一気に溢れ出し、彼の腕の中に包まれる。
「無理です。佳世を置いていくなんて」
うんうんと腕の中で首を縦に振る。
たったの一日で、彼のいない時間なんて考えられなくなってしまったから。