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UP TO YOU  作者: 来生尚
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 ふうっ。

 こっそりと見えないように溜息を吐く。

 営業なんて仕事をしているから仕方の無い事だけれども、気乗りしない取引先との懇親会という名の飲み会なんて、楽しいもんじゃない。

 早く終わらないかな。

 21時頃にお開きになるらしいから、終わったら課の飲み会に行こう。この近くで飲んでいるらしいし。


「田島さん」


「あ。はい」


 いけないいけない。笑顔を作らなきゃ。


「すみませんねー。今日はわざわざ付き合って貰っちゃって。うちの連中、一度は田島さんと飲みたかったらしくって」


「いえいえ。そう言っていただけると、ありがたいです」


 営業スマイルで答えると、取引先の課長はにたりと笑った。

 にこりではない。にたりだ。

 どうやら一番乗り気だったのは、この課長のようだ。

 さっきから、テーブルの下では手が不穏な動きをしている。

 これが全く知らない相手だったり、社の人間ならはねつけるものの、取引相手はどうあしらったらいいものか。

 指先がふいに触れたと装ううちはまだいい。

 イヤだけれど我慢が出来る。

 太ももに指が這い上がろうしているのか、ぺたりと意図的に触れてきた。

 さすがに顔を顰めると、相手にも伝わったのか手を引っ込める。

 そしてまた、にたり。


「いやあ、新しくシステムを変えようかと考えてましてね。田島さんから色々お話もお伺いしたいと思ってましてね」


 だから触らせろ? いや、ヤラせろ?

 随分軽く見られたもんだわ。


「そうですか。システムのことは詳しくありませんから、今度システム担当と一緒にお伺いしますね」


 タイミングよくスマホが着信音を奏でたので、手に持って立ち上がる。


「すみません。会社からなので」


 本当はLINEの着信だけれど、バカ正直に言う必要も無い。

 着信音を規定のものから変えておいてよかった。

 スマホ片手に座敷を降りて、喧騒を避ける為に店の外にいったん出る。

 誰かと思ったら、野村くんか。


 --今日はいつものとこですよ。何時くらいに来られます?


 取引先との飲み会だって言ったのに。バカだなあ。

 リダイヤルボタンを押し、バカな後輩に電話を掛ける。

 野村くんは今年二年目。

 うっかりだとか、そういうレベルではなく、どこか抜けているヤツ。

 案外目端が利いたりするけれど、焦点がずれていたりしている。そして極度の面倒くさがり。

 コール音は長くはなく、ざわめきと共に野村くんの声が耳に届く。


『お疲れさまですっ。そっちはもうお開きですか?』


「んなわけないでしょう。21時頃までらしいわ。だからまだ1時間以上あるけど。何かあった?」


『何かってほどじゃないんですけれど、心配だから連絡してこいって』


「誰が?」


『石川さんが』


 その名前に鼻で笑ってしまった。

 石川さんにだけは心配されたくないわ。

 据え膳食わぬはどころか、膳を持ってこいくらいの人に。

 恐らく自分がそんなだから、取引先の飲み会に行ったというだけで心配したんだろうけれど。

 特に今回の懇親会の相手は元々石川さんが担当してた会社だから、取引先の面々も知っている。

 あの気持ち悪いジジイ、じゃなくって、取引先の課長の人柄も知っているだろうから心配したのかもしれないけれど。

 でもアンタが言うなって。

 石川さんを罵倒する言葉が頭の中であれこれと出てきたけれど、取引先の会社の人がこちらに向かって歩いてきたので、とりあえずやめておく。


「終わったらまた連絡するわ。じゃあ」


 通話を終えるスマホの画面の赤いボタンを押し、ふうっと溜息を吐き出す。

 あと一時間か。



 宴席に戻ると、幸いな事に気持ち悪いジジイは席替えをしたようだ。ラッキー。

 飲みかけのグラスは片付けられており、新しいグラスが置かれていた。

 誰かが気を利かせてくれたのかもしれない。


「仕事の電話ですか?」


 取引先の担当でもある相手に声をかけられて、頷き返す。


「たいした用件ではなかったのですが、後輩が確認したいことがあるとのことだったので」


「そうなんですか。田島さんは後輩にも慕われているんですね」


「そうでもないですよ。後輩といっても、営業では彼のほうが先輩ですから」


 しまった。会話が続かない。

 もうちょっと話が広がるように会話を持っていくべきだった。

 一端出来てしまった間を誤魔化す為に、目の前のグラスを口に運ぶ。

 中ジョッキなので、なかなかの重さがある。なみなみと注がれているし。

 ちょこっと飲むつもりが、ぐびっと飲む結果になってしまったのは、重さのせいだ。絶対。

 思いっきり喉に入ってむせてしまって、味なんてさっぱりわからない。


「大丈夫ですか?」


 大丈夫に見えるか!!

 そう言いたいけれど、涙目で途切れ途切れに「だいじょうぶです」と答えるのが精一杯だ。




 異変に気がついたのは、それからほんのわずかしか経っていなかったかもしれない。

 何だか口の周りが痒いなあなんて思っていたら、頬とか首だとか腕だとか足だとか、あちこちが痒くなってきた。

 なんだろう。

 無意識にあちこちをポリポリ掻いてしまう。

 何となく喉の中も痒いような。気のせいかな。

 さして実の無い会話を続けていると、話すたびに咳が出てむせてしまう。


「田島さん、風邪ですか?」


「いえ、こほん。風邪では、ゲホゲホ、無いと思うんですけれど。ごほん」


 ごほごほごほっと続けざまに咳が出る。


「すみません」


 謝罪の言葉も、咳に紛れ込んでしまう。

 なんだろう、本当に急に。

 止めようと思っても、咳は止まらない。


「田島さーん。大丈夫ですかぁ」


 例の気持ち悪い取引先の課長が、芝居掛かった口調で話し掛けてくる。

 わざわざ隣に座って背中をさするなっ、気持ち悪いっ。

 相手は酒に酔っての事かもしれないけれど、あいにくこっちはシラフだ。

 好意を持っていない相手に、しかもさっきは見えないように太ももに触れてきたようなオヤジに触られても、嬉しくもなんとも無い。

 むしろ気持ち悪いだけ。 


「だいじょうぶですから」


 咳の合間に答え、目の前のグラスの液体を口に運ぶ。

 一口含んで、そして気がついた。


「これ」


 ごほっと言葉と共に咳が出た。

 けれど目の前の担当者はにこりと笑っただけだ。

 こいつかっ。犯人はこいつかっ。

 にこり、じゃなくて、こいつもニタリ。なのかもしれない。


「もしかして気分が悪いんですか? トイレ行きます?」


 腰を浮かせかかった相手に、手だけで断った。


「大丈夫です。一人で」


 立ち上がるときに、ジジイが身体の線を撫でるように触れてきた。

 もーイヤだ! この会社っ。

 色々言いたいことはあったけれど、咳のせいで言葉にならない。

 いや、仮にも取引先相手に、あれこれ言うわけにもいかない。

 咳き込みながら鞄を持って立ち上がって、ハイヒールを履こうとした時に、ふらりと身体が傾いだ。

 それを取引先の男が腕で受け止める。


「大丈夫ですか、田島さん。本当にお酒弱いんですね。トイレでいいんですよね」


「ほんとうに、ごほん、だいじょうぶ、ゲホゲホ、ですから」


 ほっといて!

 そう言いたかったけれど、真意は伝わったのかどうか。

 ついてこようとする男を振り切って、逃げ込むように女性用トイレに飛び込む。

 もうこうなったらヘルプを頼んでもいいよねと、鞄から取り出したスマホを眺める。

 誰に電話する?

 野村くん?

 ダメだ。野村くんじゃ、まとまる話もまとまらなくなる可能性がある。

 石川さん。は、なんか癪だ。

 担当長の村田さんは飲まずに帰ってるだろうし。

 ざわめきが遠くから聞こえてくる。

 その代わり、心臓のバクバクという大きな音が耳のすぐそばで聞こえてくる。


「たじまさーん。だいじょうぶですかー」


 扉の向こうからは取引先の男が呼びかけてくる。

 もうイヤだ。

 その声を聞きたくなくて、無人の個室の中へと入る。

 そうすれば少しは外の音が聞こえてこない。

 悩んだ挙句、リダイヤルの一番上の名前を押した。

 ごめん野村くん。巻き込んで。



『もしもし。終わりました?』


 さっきからまだ30分も経ってないのに。

 即それか! と思ったら笑みがこぼれて、同時に咳がごほごほっと出てきた。


『ちょっと、大丈夫ですか? 田島さん?』


「野村くん、ごめん。助けて」


『田島さん? ちょ、ちょっと、どうしたっていうんですか』


 明らかに野村くんの声質が変わった。

 あー。咳だけじゃなくて、喉からひゅーひゅー音がしてきた。

 これ喘息の発作じゃない。

 子どもの頃に治ったと思ったのに。


『田島さん?』


 返事をしようにも、咳が出てきて途切れ途切れになってしまう。

 辛うじて、LINEに切り替えることだけは伝えた。

 電話を切り、画面を切り替える。

 野村くんとは普段は課のグループでしかLINEなんてしないから、友だちの一覧中から野村くんの名前を探すのすら一苦労だ。

 そんな風に思っていると、向こうからメッセージが飛んでくる。



 --何があったんですか


 --わかんないけど、多分お酒混ぜられた。飲み物に。咳止まんなくて苦しい。


 --すぐ行きます!


 野村くんからのメッセージに、ほっとした。

 ああ、これで助かる。

 そう思ったら気持ち悪さが込み上げてきた。

 ほとんど飲んでないし食べてもいないのに、吐き気が込み上げてきて、口実ではなく本当にトイレから出られなくなってしまった。

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