出会い
序章
ギラギラと肌を焼き、舗道されたアスファルトを熱されたフライパンのように変える強い夏の日射しの中、僕は一人で目的地までの道のりを歩いていた。
電車の窓の外を眺めているだけ、景色が次々と移り変わっていく。初めてのことが多すぎて私は興奮が抑えられずにいた。
校門をくぐると校庭の方からは運動部の元気な声が聞こえてくる。僕はそれを聞きながら校舎に入った。とたんに空気が冷たくなり汗が蒸散して心地よくなる。
車内放送から次の降車駅の名前が聞こえる。私はその駅が自分の降りる場所だと確かめると荷物を持って席から立った。そして扉の前まで歩いていく。さあ、もうすぐだ。
廊下をコツコツと歩く音が辺りに響いて反射する。昼間なのに薄暗く幾何学的な空間は慣れていない人間にとっては不気味な空間に違いないだろう。その中を僕は静かに目的の場所まで歩く。
電車の速度が徐々に落ちていく。ドアから見える景色は見るもの全てが新鮮で、私はまるで子供のように目を輝かせていた。そして電車が止まる。私は一歩先の世界に期待して胸を踊らせる。
ふと僕は廊下の窓から空を見上げると、そこにはいつもと青空が広がっていた。それは、物心ついた時からずっと変わらずそこにあり続ける空だ。
駅のホームから空を見上げる。それは、私にとっては久々にガラスを隔てずに見る青空だった。こんなに綺麗な青空を見るのは本当に久しぶりだ。
この一点の曇りもない空を見ると僕は思う。
私はこの澄んだ青空を見て思った。
また、この季節だ。退屈で窮屈な、嫌な季節。
この空の下にあるものを、私の記憶に焼き付けよう。
ああ、
僕の
私の
『夏が始まる』
一章
夏は暑い。そんなことは当然だろう。だが、そんな暑い中で密閉された空間の中にいるということは想像以上につらいものがある。正直、新手の拷問にでも使えるのではないか。空野蒼はそんな居心地悪く極まりない学校の図書室という場所に一人でパラパラとページをめくっていた。すぐそばの机には中身を軽く読んで決めた小説が数冊重ねてある。蒼は手に持った本を閉じると机の本と一緒に抱え、貸し出しのカウンターまで運んだ。
「これ、頼みます」
「あいよ」
なじみの図書委員に希望の本を渡し、互いに慣れた手つきで手続きを進める。この場所にくると、カウンターの上にある扇風機の風がこっちまで当たって心地よい。何度も思うのだがこの地獄のような空間の中、ちっぽけな扇風機一つで与えられた役職をきっちりこなす図書委員は本当に凄い。
「そういや、次はいつ空いてるんだっけ?」
「毎週一回、同じ曜日に」
「そっか。サンキュ」
手続きが終わると蒼はマイバッグに借りた本を入れた。
「それじゃお先に」
「お疲れ」
挨拶をして図書室を出ると、そこは別世界だった。冷たい空気が体を冷まし一気に気分が楽になる。たった一枚の壁でこれだけ違いが出ると思うと、なにかしら不思議な感じがする。こういうのを天国と地獄というのだろうか。いや、この後炎天下の中を家まで歩くことを考えればつかの間の休息と言った方がいいのか。どちらにせよ、帰りのことを考えると憂鬱になることに変わりはなかった。
昇降口を出ると運動部の掛け声が聞こえ、さらには北風のライバルもビックリな強烈な日差しが蒼の目を襲う。既に騒音になりつつあるセミの大合唱を聞き流しながら校門を出ると、一面には田園が広がっていた。本来インドア派の蒼がこんな炎天下の中にわざわざ学校まで出向いた理由もこれだ。周りには退屈を凌げるようなものは何もなく、唯一の趣味の読書も学校の図書室が一番近いのでそこを利用するのが最善だったというだけだ。
蒼はこの町が嫌いだった。電車は一時間に一本通るか通らないか。バスもほとんど走ってなく、住宅街から通っているこの学校まで徒歩一時間もかかる。駅前の商店街はそれなりに活気があるが、夜八時にはどの店もシャッターが降り、不気味なほどに静かになる。ここはそんな町だった。とにかくこんな町が退屈で仕方なかった。他の人間はどう思っているか知らないが、東京や大阪などという都会という大きすぎる夢を知ってしまった蒼にとって、この何もないこの町は窮屈以外の何もなかった。
田園地帯を通り抜け、やがて駅前まで出る。そういえば耳にした話だとこの間の台風でバス停の標識が飛ばされたと聞いた記憶がある。一応と思って確認してみると、確かに春には見かけていた標識がどこにも見当たらない。蒼は呆れて思わず笑ってしまった。
ちょうど駅前にいることだし、喉の渇きを潤すために自販機でスポーツドリンクを買うことにした。まあ、無理もないだろう。三十分以上もこの直射日光の下を歩いていたのだ。小銭を入れ、スポーツドリンクを選択する。ゴトンという音がして取り出し口に手を入れ
「あの」
正直に言おう、かなり驚いた。こんな場所で声を掛けられることすら滅多にないことなのに、更に不意討ちをもらうとは思わなかった。スポーツドリンクを取り出してゆっくりと振り向き
「すみません、ちょうどお聞きしたいことがあるんですけど」
相手は似たような年の女の子だった。つばの広い麦わら帽子にあまりにも不釣り合いな旅行カバン。そして、何より整った顔立ちがかなり印象的だった。
「…………」
不覚にも、見とれてしまった。少女は蒼が完全に硬直してしまったことに対してどう反応していいのかわからず首をかしげる。
「あの、えっと……」
「えっ、あ、すみません。あー、どうかしましたか?」
一瞬、我を忘れていた蒼は慌てて取り繕う。
「えっと、バス停の場所がわからなくって。駅から出たらすぐにわかるって言われてたんですけど全然見当たらなかったもので……」
「あー……」
台風で飛ばされた、なんて言ったらどういう反応をするのだろうか。が、それ以前に問題が一つ。
「えっとですね、バス停の標識はこの前の台風で飛ばされたみたいで……。それより、次にバスが来るのって夕方になりますよ?」
「え?」
時間を確認して話した蒼の一言に少女の表情が固まった。
「……残念ながら」
「あらら……」
少女は呆然と立ち尽くす。
「あ、それじゃあちょっと質問なんですけど……」
彼女はポケットから一枚のメモを取り出し、それを蒼に見せる。
「この場所まで行きたいんですけど、どうすればいいでしょうか?」
少女が指差した場所の名前は、蒼もよく知るところだった。
「ああ、ここなら徒歩でも十分行けますよ。もしよければですけど、近くまで案内しましょうか?」 「えっ、それだとそちらの迷惑になりませんか?」
「いえ、今から僕もちょうど近くまで行くので。気にしないでもらって大丈夫ですよ」
「えっと……それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
そして僕達は、お互いのことを話しながら住宅街の中を歩いた。
「へえ、わざわざ首都圏から来たんですか」
「はい。でも慣れないことだったんで、電車に一本乗り遅れてしまいましたけど」
「あはは、たしかにこんな田舎の電車は乗り遅れると大変なことになりますからね」
「ええ本当に。まさか一時間も待つなんて思いもしませんでした。びっくりです」
「最近の田舎はどこもそんなものですよ。でも何でわざわざこんな辺鄙な町に?」
「実は私、生まれつき体が弱くて。東京にいた時も入院と退院の繰り返しだったんです。そしたら両親が、空気が綺麗なところに知り合いがいるからそこで療養してこいって。私自身も田舎に憧れていたので試しに来ることにしてみたんです」
「体質ですか……。それにしても、ははっ」
蒼は堪えきれず笑ってしまった。
「憧れなんて……。こんな田舎には田んぼと山しかないですよ。コンビニすらないんですから」
「それでも私にとっては夢だったんです。一回こういう町で暮らしてみるの」
「変わった夢ですね」
「周りからもそう言われます」
二人で顔を見合せ、そろって苦笑した。
「あー、そろそろこの辺りですかね」
二人は十字路の手前で立ち止まった。
「ここから右に行けばさっきのメモに書いてあった場所まで行けます。目立つものなんですぐにわかると思いますよ。僕はここから左なんでここでお別れです」
「そうですか。わざわざここまでありがとうございました。えっと……その、また会えますか?」
「え?ああ。まあ、小さい町ですからね。ちょっと出歩けば会うかもしれませんね」
「そうですか。それじゃあ、また今度を楽しみにしてますね」
「ええ、そちらも良い滞在を」
二人は互いに一礼して、それぞれの道を歩きだした。蒼は後ろを振り返らずまっすぐに家に向かう。そして家に着く直前、ずっと手中にあった駅前で買ったスポーツドリンクを思い出した。
「これ、すっかり忘れてたなぁ……」
キャップを開け、すっかり生ぬるくなったスポーツドリンクを一気に飲みほす。
「なんか、いろいろとすっきりしないな……」
不思議な女性だった。
「また会えますか、か…………」
素直に会ってみたいと自然に思ってしまう自分がいた。
っとと、いけないいけない。
顔をブンブン振って変な考えを振りほどく。そして学校で借りた本が入っているカバンの中に空のペットボトルを入れた。
「ただいまー」
おう、おかえりー、という親父の声がリビングから聞こえてくる。それだけだった。いつもなら殺人級のスピードで飛びついてくる妹の姿が今日はない。
「あれ、茜いないの?」
リビングに入ると、いつも通りの格好で親父がテレビを見ていた。
「茜なら今出かけてる」
「へえ、珍しい。じゃあ母さんは?」
「二階。本でも読んでるんじゃないか?」
「あっそ」
椅子に肩掛けカバンを掛け、中から図書館で借りてきた本を取り出す。内一冊を妹の茜のスペースに置く。ちなみにタイトルは『ゴキブリの生態について』である。今朝これを借りてくるよう頼まれたのだが、我ながら妹の考えていることがよくわからん。ちなみにこれが一番重かったりする。
「つか、なんでこんな本が学校にあるんだよ…………」
どうでもいいことを愚痴りながら冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。コップに注ぐと、それを一気飲みした。
冷えた水分が体に染み渡り、体温がすーっと下がっていくのが心地いい。やはり夏はこれに限る
そんなことを考えていると、玄関から無駄に明るい声が聞こえてきた。
「たっだいまー!!蒼兄帰ってる~?」
帰ってるぞー、と親父。
「ささ、上がって上がって~」
どうやら茜は誰かを連れてきたらしい。同級生だろうが、とりあえず挨拶しに玄関に顔を出す。
「いらっしゃ、い……?」
あらかじめ言っておこう。妹の茜と一緒にいたのはよく見知った顔、いや、見知ったばかりの顔だった。整った顔立ちにつばの広い麦わら帽子、そして手には不釣り合いな大きさの旅行カバン。
「あら?」
「おおう……」
「ん?なに、もしかして蒼兄と翠さんって知り合い?」
「まあ、一応な……」
と、蒼。
「茜ちゃん、ついさっき話してた人よ。ほら、この人が待ち合わせ場所の近くまで案内してくれた人」
「あー、なんか納得。蒼兄ってそういうところ中途半端だもんねー」
「悪かったな、中途半端で」
「こら、お客さんの前でいきなりケンカすんじゃない」
いつの間にか後ろには父親が立っていた。
「ああ、海原さんだね、いらっしゃい。狭い家だけどゆっくりしていってください」
ここまでくればだいたいの予想はついていた。
「えっと、今日からここでお世話になります、海原翠です。改めて、よろしくお願いします」
「ああ、ええと、空野蒼です。こちらこそよろしく、です」
お互いに頭を下げて挨拶を終える。
それ二人の、なんとも早い再会だった。




