第二章【壱】 オレオレ詐欺
そこは暗かった。
真っ暗だった。
何も見えなかった。
それなのに木の揺れる音だとか、虫のさえずりだとか、そんなものはよく聞こえてくるのだ。
ああ、夢だな。そう思った。
夢だと自覚してしまったその世界は、ひどくつまらないものに感じられた。
真っ暗でも。
何も見えなくても。
朝になったら目が覚める。それまでの世界なんだと。
いままで何も感じなかった手のひらに感触が生まれた。
ゆっくりと動かしてみる。
さわさわと、なにか湿ったものに触れた。
草だな。本能的にそう思った。
「………っ」
声が聞こえた気がする。
「…………おい」
声が。
「おい!」
一瞬で視界が晴れた。
椎は草むらに寝転んでいた。星が見える。月も見える。
けれどもこんな場所は知らない。
そのとき気付いた。こちらを覗き込む顔があることに。
「……誰?」
思わずつぶやいた。
返事は返ってこなかった。
そのかわりに、背中の大きな翼が見えた。
闇を溶かしたような、深い黒。カラスのような―――。
「……あ」
椎は顔を上げた。顔を見ようと思ったのだ。
しかしその顔には鳥のような不思議な文様の描かれた布面がつけられていて、見ることはできなかった。
―――カラス……。
椎はじっと布面を見つめた。
―――これも夢?
「夢じゃない」
彼が答えた。
「前にも言っただろう。ここは危険だ。もう来るな」
「……前にも?」
ああ、彼は、あのときの。
夢に出てきた黒い翼の。
やけに鮮明に覚えていた。闇を溶かしたような黒い翼と、そして少し低かったけど、凛としていてとてもよく透る声が聞こえたこと。
視界がぼやけていく。
眠気が襲ってくる。
待って、まって。聞きたいことがあるの。あなたなら答えてくれるんじゃないかって、そう思うの。ねえ、あなたなら。
あなたなら私を、連れ出してくれる?
椎は目を覚ました。
朝日がまぶしい。何か夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
―――珍しいな。
椎はベッドから起き上がる。
思い出せないような普通の夢を見るのは珍しい。夢を見ていた自覚はあるのに。
それに、今は朝だ。午前二時、夜中ではない。変な夢を見たときは、必ずといっていいほど午前二時に目が覚めるのに。
―――やっぱり、普通の夢を見てた?
思い出そうとすると、頭の中にもやがかかったように記憶があいまいになる。
椎は頭を左右に振って気を取り直すと、カーテンを開けた。
***
耳の奥で電話の呼び出し音がなる。
同じことの繰り返し。霞はため息をついた。
ガチャという音がして、相手が出たのがわかった。
『もしもし』
やる気のなさそうな声。名前を確かめる。
「ウメノだな」
『……霞か?』
霞は小さくうなずいた。
「そうだ」
『なんのようだ。っていうか、どこから掛けてきてる』
霞はまわりを見回した。街中の風景がよく見える。緑色の受話器を握りなおす。
「公衆電話」
『……はあ?』
素っ頓狂な声が返ってきた。
「なにかへんなことでも言ったか」
『どうして人間界の公衆電話から妖界にいる俺のケータイに電話が掛かってくるんだよ』
「裏技を使った。……そんなことはどうでもいい」
『どうでもよくないだろ』
「どうでもいいんだ」
霞の声にわずかに力が入る。
ウメノが嘆息した。
『……スグルさんのことか』
「わかってるなら早く話せ」
電話の向こうでウメノはしばらく黙っていた。そしてポツリとこぼす。
『会わないってよ』
「……」
『忙しいってさ』
「……そうか」
『やけに素直だな』
正直に驚いている様子だった。
霞は淡々と話す。
「会わないっていったら会わないんだろう。お前に文句を言うことではない」
それに対してウメノは納得したようだった。
電話の中でしばらく沈黙は続いた。霞は公衆電話の十円硬貨が切れそうだったので、新しい十円玉を入れる。
ウメノが口を開いた。
『なあ、前にも言ったが』
「組織には入らない」
霞は最後まで聞かずに即答した。
電話の向こうでウメノが笑ったのがわかった。
『いいのか?お前のために言ってやってるんだぜ?』
霞は苦虫を噛み潰したような顔になった。
―――こいつは本当に鋭い。
「いいよ。今その話は、お前が食べ過ぎで人間の格好をしていても狸に見えてしまうくらいどうでもいい」
『……はっはっは。なかなか面白い冗談だな。今度人間界で会ったら、ぜひお前の甘酒に毒を盛ってやるよ』
「いや、遠慮しておく」
霞は丁重に断った。
毒を盛られては面倒だ。いや、毒くらいなんとかなるが、そのあと酔っ払ったウメノにどれだけからまれることか。だがそれ以上に組織に入るのはもっと面倒だった。
やめたければやめればいい。自分の代わりはいくらでもいる。いまの立ち位置が一番楽だ。だが組織に入ればそうはいかなくなる。
「じゃあ」
霞はまたなにかを言われる前に適当に電話を切った。
と、すぐにまた電話が鳴り出す。公衆電話からではない。霞のズボンのポケットからだ。
霞はポケットから黒い携帯電話を取り出した。初期設定のままの着信音は霞をせかすようになり続けている。
霞はため息をついた。
この携帯電話は連絡が取れないと不便だという叶重に無理やり持たされたものだ。もともと機械は苦手なのだ。もちろん携帯電話には叶重の電話番号一件しか登録されていない。
霞は通話ボタンを押した。
「もしもし叶重さんですか?」
『そうだよー。わかってるなら聞かなきゃいいのに』
電話の向こうから聞きなれた声が返ってくる。
霞は電話ボックスの壁にもたれかかった。
「前にそうしたら叶重さん、電話の相手くらい確かめろって言いましたよね」
『そうだっけ』
しらばっくれる叶重。
霞は目を閉じた。もう何も言うまい。
「……で、用件は?」
『ん?ああ。ちょっと頼みごとがあってね』
「はあ」
叶重が話す声に混ざって、かすかにクラッシックの音楽が聞こえてくる。これは店でかかっていたものと同じものだ。叶重は自分の店にいるらしい。
霞は無意識のうちに指で拍子をとっていた。
『霞くん、今日暇だろう?買出し頼まれてほしいんだけど』
「そんなことなら引き受けますけど」
耳の奥で鳴るクラッシックに合わせて、霞の指が電話ボックスの壁にあたるコツコツという音が響く。
『椎ちゃんも誘おうと思ってるんだ』
コツッ。
霞の指が止まった。
「……は?」
かろうじて声を出す。
「なんで?」
叶重がひらひらと手を振っているのが頭の中に浮かんだ。
『いや、とにかく、椎ちゃんと一緒に行ってほしいんだよ』
「俺一人で行けます」
『まあまあそう言わずに』
叶重のなだめる声。
霞は電話を握りなおした。
「じゃあ、宮間と行きます」
『さっき誘ったんだけど、忙しいって』
「それなら俺も忙しいです」
叶重が息を吐いたのがわかった。
『さっき引き受けるって言ったじゃないか』
ぎりっと霞の奥歯が鳴った。しかし電話ボックスに映る自分の顔はいつもの無表情だ。
『そういうことでよろしくね。じゃあ』
「俺は」
ツーツーという機械音が耳に流れてくる。
霞はあきらめて携帯電話を閉じると、電話ボックスの中で小さくうめいた。
「……なんであいつと……」
***
椎は朝食の片付けをしていた。
施設の中には小さい子どもも多かったので、家事は得意なほうだった。
―――バイトは夜からだし、暇だな。
洗い物をしながら、今日の予定を考える。
―――なにしよう。
そのとき、バイブ音がした。
背伸びをして机の上を見る。携帯電話の鳴る音だった。
「誰だろ」
洗い物をする手を止めて、電話をとる。画面には知らない番号が浮かんでいた。
一瞬出るのをためらったが、結局通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし椎ちゃん?』
まるで友人に話しかけるかのような軽い声。
椎は警戒を強めた。
「どちらさまですか?」
電話越しに聞く声なので、こちらからは向こうにいる人物などわかるはずもない。
これは当たり前の質問のはずだった。
それなのに、笑われた。
思い切り笑われた。
『はははは!椎ちゃん、僕のこと、わからないの?』
「すいません、どちらさま」
『だから僕だってば』
「………」
新手のオレオレ詐欺かな、と思った。
「どちらさまか言っていただかないと、電話を切ります」
椎は言い切る。
相手が笑うのを止めて、電話の向こうでため息をついた。
椎は電話を切る準備をした。
『……寺石叶重だよ。なんでわからないのかなあ』
「え?」
椎は小さく声を上げた。
その言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。
頭の中で、顔と名前を一致させる。
そして一致したとき、
「店長さんっ?」
思わず声が上ずった。
叶重が爆笑する声が受話器から聞こえてくる。椎は顔が真っ赤になっていくのを感じた。
「そ、それで何の用なんですか!」
自然に声が大きくなる。
電話の向こうで叶重が肩をすくめた気がした。
『ちょっと頼みごとがあってね』
椎は首をかしげた。
「頼みごと、ですか」
『うん。簡単なことなんだけどね』
そうぼやいて、叶重は言った。
『霞くんと、買出しに行ってきてほしいんだ』