第一章【弐】 都会の真ん中
目を覚ますと、誰もいなくなっていた。
そんな虚無感。
だれか。
だれでもいい。
だれか。
タスケテ。オネガイ。
これ以上、人の醜い姿を見てしまったら。
きっと大嫌いになってしまうから。
人間を大嫌いになってしまうから。
だれでもいい。
空っぽの心に、何かを入れて。
***
「……―――ッ」
まただ。
変な夢を見る。目を覚ます。午前二時くらい。
今週で三回目。
椎は頭を押さえる。まだ頭の奥に声が残っている。
夢の内容は同じときもある。違うときもある。
バラバラだ。
しかし大抵決まっている。
変な夢だ。
見たこともない場所にいたり。
暗闇だったり。
不気味な声が降ってきたり。
決していい夢とは言えない。
そして必ずといっていいほど、そういう夢を見る日は目を覚ます。
午前二時くらい。
椎は首を振った。
布団の中にもぐる。
もう寝よう。きっと疲れているんだ。
だから、もう寝てしまおう。
固く目を閉じて、椎は眠りにおちた。
***
アルバイト面接の結果は、手紙にて知らされた。
ただの結果発表にしてはやけに洒落て作られた、水色の便箋。封には丁寧に封蝋まで使ってある。
しかしそんなことは、椎にはどうでもよかった。
重要なのは、結果だ。
期待と不安が見え隠れする中、アパートでひとり、彼女は手紙を開ける。
そして。
アパートの部屋の一角で、椎は叫んだ。
「やったああああああ!」
ごろごろごろごろと床の上を転げ回る。
「やった、やったやった!」
便箋をぎゅっと握りしめる。
椎は小さくつぶやいた。
「受かった……!」
嬉しさがこみ上げてくる。叶重店長にはお礼を言わなければならない。
これで施設に頼る必要もなくなる。
椎は施設に連絡するため、受話器を手に取った。
***
同じころ。
とある長屋にて、水色の便箋を持った青年が震えていた。
その口から、小さく声が漏れる。
「……受かった」
それは決して歓喜の震えではなく。
純粋な当惑と、わずかな怯え。それらに対する震え。
青年は机に突っ伏すと、首を振って息を吐いた。
「受かってしまった……」
***
椎は人ごみの中を歩いていた。
営業時間、午後五時から夜十二時まで。
自給は七百円。
資格の必要なし。
月曜・祝日定休日。
一緒に宮間という人も採用された。
合格を知らせる手紙とともに入っていた紙にはそう書いてあった。
寺石叶重店長の店であるアイリッシュ・パブ「FⅠLE」は、都会の真ん中にある。
都会といってもにぎやかな大通りに沿った場所ではない。居酒屋やバーなどの飲食店が立ち並ぶ裏に入ったところにそのパブはあった。
とはいえ、表であろうが裏であろうが都会の真ん中ということには変わりない。やはり人ごみを避けては通れない。
いつもは雑多とした人ごみを嫌って出来るだけ人通りの少ない道を通ろうとするのだが、面接に受かって浮かれている椎はそんなこと気にしなかった。もともと人ごみを避けては通れない場所に店はあるのだ。楽しみながら通ったほうがいいに決まっている。
人ごみを歩くのは苦手でたくさんの人にぶつかりながらも、いつもと違う気分で見つめる街は輝いて見えた。
「あのぉ、今日からお世話になる木暮と言いますが……」
アンティークな装いの店内の扉を開けて、恐る恐る中をのぞく。
返事はない。店内には誰もいなかった。
―――少し早く来ちゃったかな。
腕にはめた時計を見る。午後四時半。店の準備もあるはずだと思い、少し早めに家を出たのだ。
ふと違和感に気付いて椎は首をかしげた。だれもいない店内に感じる違和感。
椎は上を見上げた。
「あ」
そこに違和感はあった。
明かりだ。明かりが点いている。
そのときごそっとカウンターのほうから物音がした。
椎の肩がびくっと動く。
「ど、泥棒……?」
手に持っていた鞄を肩から降ろすと、椎はいつでも対応できるように構えをとった。
おとずれる静寂。
気のせいかな、と椎が思い始めた、そのとき。
ゴトンッと大きな音がした。カウンターに黒い影。
椎は叫んだ。
「どろぼおおおおぉぉぉぉ!」
「ちょっ、おい!」
声が聞こえた気がするが、気にしない。
椎はろくに確認もしないで鞄を黒ずくめに向かって投げた。
ゴスっと鈍い音がして、鞄が黒ずくめに直撃する。
「やった!」
椎は思わずこぶしを上げた。
しかしその声に答えてくれる者はいない。
「……う」
うめき声が聞こえた。
あわてて駆け寄ると、椎は倒れた黒ずくめの顔を確認すべく覗き込む。
「かっ………!」
その名前をつぶやきかけて、
「………」
沈黙した。
頭から血がスッと引いていくのがわかる。
黒ずくめが椎の顔色をうかがうようにして片目を開けた。
椎はハッと我に返る。
黒ずくめの顔を確認して―――目を逸らし、つぶやく。
「か、霞……」
「………」
黒ずくめ―――霞は嘆息した。ゆっくりと起き上がりながら、頭をさする。
「どれだけ力があるんだ。俺がよけてたら、間違いなく後ろの酒が犠牲になってた」
「え?」
おそるおそる。椎は霞の後ろにある酒の数々を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
どれも高そうな物ばかりだ。椎には弁償できそうにもない。
―――まさか霞、私のために……?
椎は霞を見上げた。
霞は相変わらずの無表情のまま、あくびをする。
「まあ、あの場合、怒られるのは俺なんだろうけど。あの店長、レディーファーストだから」
「あ、そうなんだ」
椎は少し残念な気分になる。
しかし椎の早とちりのせいで霞が痛い思いをしてしまったのだから、そんなことも言っていられない。 椎は霞に向き直った。
素直に頭を下げる。
「ごめん。霞」
「え、あ、ああ」
謝られることに慣れていないのか、口調はうろたえながらも霞は静かな目でうなずいた。
「俺も悪かった……その、驚かせてしまって」
「いいよ別に。早とちりしちゃったのは私だし」
椎はきょろきょろと店内を見回す。
霞がいぶかしげに眉をひそめた。
口では何も言わなかったが、その仕草が「探し物か?」と聞いてくるので、椎は見回すのをやめてうなずいた。
「店長さんに挨拶した方がいいのかなって」
それに対して霞は小さくため息をついた。
「あの人ならいつも遅刻だから、気にすることはない」
「……ふうん」
―――店長さんって、どこでもそういう感じなのかな。
椎の中でなにか間違った認識がされていることに霞は気付いていない。
椎は近くの壁にもたれかかって訊いた。
「霞はここに来てから、長いの?」
「いや……」
思案するように首をかしげると、霞は答えた。
「だいたい一ヶ月と少しくらい、だと思う」
「じゃあまだ働き始めたばかりなんだ」
「まあ」
霞が生返事をする。
椎はアンティークな装いの店内を見て、つぶやいた。
「じゃあこの店もできたばかりなんだね」
「それは―――」
そのとき入口の扉が小さく開いた。
その隙間からパーカーの袖が少しだけのぞく。
「あのぉ、『ふぁいる』っていうパブはここで合っていま……げふっ」
細い声が聞こえた。次の瞬間、扉が大きく開く。バタンッとパーカーが倒れた。
「どうもどうも!寺石叶重店長です。ちなみにこの店の名前は、アイルランド語で読むからね。『ファイル』じゃなくて『フィレ』なんだ」
「今日はいつもより早いっすね、店長」
特になにも突っ込まずに無表情に言葉をかける霞。
叶重の下には、パーカーを着た青年が倒れている。
「あ、あの、叶重さん……」
「ん?」
叶重がこちらを向く。
椎は叶重の足元を指差した。
「その、人が……」
「ああ、彼は宮間くん。今日からここに来てくれる……って、なんでこんなところに?」
「店長が倒したんですよ」
霞が青年―――宮間の近くに座り込んでつぶやいた。
ゆっくりと起こしてやる。
「大丈夫か?」
ぺちぺちと頬を叩くと、しばらくして彼は目を覚ました。
「う……、僕は何を?」
「何もしてない。悪いのは店長―――」
「さわるなッ!」
一瞬の出来事だった。
宮間が、霞に抱き起こされた状態から、霞を跳ね飛ばした。
「……」
霞は慣れた仕草で体勢を立て直すと、動かない静かな目でじっと宮間を見据えた。
宮間は肩で息をして―――信じられないものを見るような目で、霞を見ている。
ぴくっと肩が動いて霞がつぶやく。
「お前、まさか―――」
「ね、ねえっ」
言葉をさえぎったのは椎だった。
霞を見上げ、睨みがちに言う。
「二人とも知り合い?勝手に話進めないで」
「別にそういうわけじゃないです」
宮間が首を振って否定する。
「知り合いじゃない。初対面だ」
目線は宮間から離さないまま、霞は言う。
宮間もその目を一瞬正面から受け止めて。
宮間が霞から目を逸らした。
しかしあきらめたように小さく首を振って、顔を上げる。
「……あの」
宮間が頭を下げた。
目線は地面の一点を見つめていた。
「すいませんでした。……怪我はありませんか」
小さな声で、謝罪をした。
霞も肩の力を抜き、うなずいた。
「ない。大丈夫だよ。今のは俺が悪かった」
宮間が店長に向き直る。
「あの、その……すいません。もう僕なんてクビにしてもらってもかまわないですから」
「とんでもない!」
こちらが驚くような大きな声で否定したあと、叶重は静かに首を横に振った。いままで静かにしていたぶん、話したくてうずうずしていたようにも見える。しかしその動作は、声に反してとても落ち着いていた。
叶重は頭にかぶっていたキャスケット帽を外した。
ぽつりとこぼす。
「この店は、最近リニューアルオープンしたばかりなんだ」
アンティークな装いの店を見渡す。
「店員も、新しくなった。この店は店名だけ残して、あとは全部新しいんだ」
目を静かに閉じる。
「僕はね、この店をやり直したいと思ってる。―――宮間くん」
叶重は顔を上げると、宮間を見て目を細めた。
「君は僕が選んだアルバイトだよ。どんな理由があろうと、やめるなんて言葉は使わせない」
その目線が、椎に向いた。
椎は思わず背筋を伸ばした。それを見て叶重がくすりと笑う。
「君もね」
椎はうなずいていた。それは否定を許さない言葉だった。
宮間もしばらくうつむいていたが、やがて小さな声で「はい」と返事をした。
ただひとりだけ。
そこから少し目線を外して、片手で耳を塞ぐように、霞はそれを聞いていた。