第四章【壱】 妖界
ウメノは妖界を歩いていた。そろそろ中年の親父のようになってきた腹を抱えてため息をつく。
「これじゃあ霞に何を言われても文句は言えねえなあ」
ふいに血の匂いを感じて顔をしかめる。足元で何かを蹴飛ばした。
「あん?」
見ると、それは写真だった。血で汚れている。ウメノは目を丸くした。
「これ……」
そこに映っているのは三人。三人とも、ウメノは知っていた。
叶重と紗江、それに霞。
「なんでこんなところに……」
はっと気づいて、ウメノは走った。腹が揺れる。
「……くそ、こんなことならダイエットしておけばよかった」
血の匂いをたどる。そこに、いた。
力をなくしてぐったりと倒れた霞が。
「おい!」
あわてて駆け寄る。
「霞!どうした、霞!」
膝をついて、抱き上げた。べっとりとした何かが手につく。
―――血……。
霞の頬に触れる。
呼吸が浅い。もともと雪のように白い肌は、完全に血の気をなくして蒼白になっていた。
「……まずいな」
ウメノは乾いた唇をなめる。このままでは危ないだろう。そのとき、小さくうめく声がきこえた。
「ウ……メノ……」
「霞」
霞が薄らと目を開けて、ウメノを見ていた。
「……スグルに……」
「しゃべるんじゃねえ」
小さくつぶやいた。霞が諦めたように目を閉じる。
霞を抱きかかえて、ウメノは立ち上がった。
「クソ……。借りひとつだからな。おぼえてろ」
吐き捨てて、走る。スグルのもとへ。
***
それは、ずいぶんと幻想的な風景だった。
青い空の中、大きな月がぽっかりと浮かんでいて、何も言わずにこちらを見下ろしている。月からのわずかな光を受け取って、下に広がる海はキラキラと輝き、揺れる。
遠くに女性が立っていた。子供を抱きかかえて。彼は何も言えずにそれを見ていた。なぜなら、女性が泣いていたから。子供の亡骸を抱えて泣いていたから。
女性の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
―――トキ、トキ……!
彼は叫ぶ。気づいてもらえるように、必死に。
その体が突然、火に包まれた。体中が、燃える。熱い。あつい。彼は膝をつく。
いつの間にか近くに来ていた女性が、無表情にこちらを見下ろしていた。
―――トキ!
「お前が!」
女性が叫んだ。
「お前が死ねばよかったんだ!」
―――トキ、俺は。
―――――あなたを愛していたいのに。
***
「……ッ」
遠くに聞こえるぼんやりとした声。
誰のものだろうか。
―――……トキ?
「か…み……ッ」
女性の声。焦がれていたもの。それとは少し違う気がしたけれど。
「霞!」
霞は薄らと目を開けた。
「……椎」
「霞!よかった……。ずっとうなされてたんだよ」
目に入った和室の天井。
椎がいる。自分のことを抱きしめて、今にも泣きそうな声で心配してくれる、椎がいる。
―――夢……だった?
どこから夢だった?トキがいた。子供の亡骸を抱きかかえて。あれは夢だ。現実の風景はあんなにも綺麗ではなかった。じゃあ、ツキフジにやられたのは?あれは―――。
傷の痛みがうずいて、霞はうめいた。
「無理しないで」
椎が心配そうにつぶやく。霞は呆然とその顔を見つめた。
ちがう。あれは夢なんかじゃない。だって、ここは。この場所は。
「……妖界」
目を見開いてつぶやいた言葉に、自分でも驚いた。
ここは妖界。少し考えればわかること。それがわからなかったのは、ここに椎がいたから。それならなぜ。
「……椎」
「なに?霞」
「なんで椎がここにいる」
そのとき扉がひらいて人が入ってきた。
「よお、やっと起きたみてえだな」
「……ウメノ」
「まあ、そう睨むなって」
狸のように太った大きな腹。否、実際に狸の妖怪。“ウメノ”は人間界にいたときにつけた仮の名前だとも言っていた。運動神経が全くと言っていいほどないかわりに、鋭い。認めたくはないが頭はいい。だからスグルのそばにいられるのだ。
霞は低くうなった。
「なんで椎がここにいる」
「なんでだろうなあ」
ウメノが肩をすくめる。
一陣の風が吹いた。ウメノが息を飲んだのがわかった。
霞はウメノの目を見た。ウメノの首筋に刀を押しつけながら、氷のように冷たい眼差しでウメノを睨みつける。
「……こたえろ」
「おっかねえな……」
冷や汗を垂らしながら、ウメノがつぶやいた。
「刀をおさめろ。無理に動いて傷が開いたらどうすんだ。あんたがやられて一番まいってるのは俺らなんだから」
「答えろと言っている」
「……」
しばらく無言のにらみ合いが続いた。
ふいにウメノが息を吐く。
先に折れたのは、ウメノのほうだった。
「……そんな物騒なモン出して問いただすほどにたいした理由じゃねえよ」
「……」
霞は黙って刀をおさめた。ウメノがほっとしたように汗をぬぐう。
「あんた、そんなに短気だったか?」
憎まれ口を叩こうとしたがイラッとした霞が刀をちらつかせたのでぐっと言葉を飲んだ。
「わかったよ。話す」
ウメノが口を開いた。
「霞、あんたを見つけたのは俺だったんだ。そのあとすぐにここにあんたを運んだ。でも組織に入ってねえあんたはここの妖怪じゃねえ。たしかに腕は立つがな、いつまでもここに置いておくわけにはいかねえんだ。それであんたが帰ってこねえってんで心配してたこの嬢ちゃんに、引き取りを頼んだのよ」
一息で言って、ウメノの顔が霞を見た。探るように瞳が動く。
しかしすぐに諦めたのか、大きく息を吐くと、壁にどっぷりもたれかかった。
「そんな仏頂面すんじゃねえよ。何考えてるかわかんねえじゃねえか」
「わかってもらう必要はない」
淡々と言って、霞は気づかれないようにため息を漏らした。
実際に霞は無表情だった。全く動じていないように見えた。
だが内心顔をしかめていた。
―――つまりウメノ、お前はこう言いたいのか。
苦虫をかみつぶしたような心境で、心の中つぶやく。
―――俺が組織に入っていれば、椎はここには来なかったと。
うまい。話の持ち運び方がうますぎる。
―――さすが、と言ったところか。
「それならウメノ、俺は今すぐ帰ればいいんだな」
「それは……」
「それは困るなァ、霞」
扉のほうから聞こえた声に、霞は振り返った。顔をしかめる。
「……スグル」
スグルがそれを見て笑った。
「やあ、霞。もう立って平気なのかい?」
「え?」
とたんに体から力が抜けた。思い出したように痛みがぶり返してくる。
「……ッ」
「霞っ」
駆け寄ろうとした椎を、霞は手で制した。
「……大丈夫」
スグルが肩をすくめて近づいてくる。
「そろそろ痛み止めの薬が弱くなる頃だと思ってね」
体を軽々と持ち上げられて、霞は布団に寝かされた。
「痛み止めは飲んでおいたほうがいいと思うよ。一応山ン婆には見てもらったけど、そのケガじゃ一週間は大人しくしてたほうがいいと思うから。山ン婆特製の薬だ。霞も彼女にはよく世話になっただろう」
「……」
霞は黙って薬を受け取った。
「水は?」
「いらない」
そのまま強引に飲み込む。喉の奥に何かがつかえたような感じがしたが、たいして気にならなかった。
耳鳴りがひどい。頭の奥底に直接響いてくる。
スグルが息を吐いた。
「困るなあ。君には働いてもらわないといけないのに」
その声にはどこか楽しげなものが含まれている。
霞は皮肉気に言葉をもらした。
「金はもらってるから、そのぶんは働くつもりだよ」
「そう?それならいいけど。……で」
肩をすくめたスグルの表情が、不意に真面目なものに変わった。
「誰にやられたの?」
「……」
霞は目をそらした。スグルにだけは聞こえる声で、ポツリとこぼす。
「椎がいる」
「他人に気を使うなんて、霞らしくないね」
「いいから」
スグルは息を吐くと、近くにいたウメノに目配せをした。
ウメノは軽くうなずくと、椎を伴って部屋を出る。
「あ、あの」
ためらいがちにかけられた声に、ウメノは振り返った。
「どうした嬢ちゃん」
進む足は止めない。椎も小走りになってウメノの歩く速さについて行こうとしていた。
古い日本家屋のような造りの廊下を、椎とウメノは歩いていく。
椎が口を開いた。
「霞は……」
「霞なら大丈夫だよ」
ウメノは右手をひらひら振って笑った。
「あいつはいつも無表情で何考えてるかわかんねえが、まあ仲間は大切にするやつだから。だから誰かを置いて勝手に死ぬことはしねえよ」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
ウメノはちらと椎を振り返る。
椎は服の袖をぎゅっと握って、うつむきがちに言葉をもらした。
「霞は、本当に私とは違う世界を生きてる……その、妖怪なんだなって。そう思って」
「まあ、そうだなあ」
ウメノは立ち止まった。後ろを歩いていた椎が、ウメノの背中にぶつかって止まる。
「でも、あいつぁたしかに妖怪だが、どちらかというと人間よりなんだぜ?最近はずっと人間界に住んでたしな。霞もそう言ってなかったか?」
横開きの扉を開け、ウメノは顎で部屋を示した。「入りな」
椎はうなずいて前に出た。
「……」
洋館のような部屋だった。同じ建物の中だとは思えないほど造りが違っている。椎は少し面食らった。
「あの……ここは?」
「客間だよ。客間。って言っても、昔は人が住んでたんだけどな。まあ、そこの住人の希望でこうなったんだ」
「その人いまはどこにいるんですか?」
「ん?……嬢ちゃん。それ聞いちゃうかねぇ」
ウメノは深々と息を吐いた。
「死んだよ。あんたの母親に殺された」
「え?」
椎は目を見張った。
「殺された……、妖怪が?」
「妖怪じゃねえよ、そいつぁ人間の女だ。紗江っていうんだけど……」
言いかけたウメノが息を吐いた。
見あげてくる椎を見て、その頭を軽くたたく。
「気になるかい?まあ、とりあえず入りな。そこでゆっくり聞かせてやる」