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第三章【伍】 飛べないカラス

 気が付いたら、椎は病院の待合室にいた。

 手は冷え切っていて、まだ頭の奥ではクラクションの残留が残っている。その肩に、そっと毛布がかけられた。

「……」

 顔を上げる。

「……霞」

「宮間なら大丈夫」

 霞がつぶやいた。

「あのあと、叶重さんに連絡をもらったんだ。すぐにここに来たけれど、もう大丈夫だと言われた。宮間の妹に」

「亜季に?」

「そうだな。俺がここに来たときにはもう落ち着いていたよ。お前と違って」

 椎は目をそらした。霞が息を吐く。

「お前は何を言っても反応しなかったんだ。ずっとうつむいていて……こっちが困った」

「私は気づいてたの」

 椎は手で顔をおおった。指先が震える。

「宮間さんが歩いていることも、トラックが来てることも、このままじゃ危ないってことも。叫ぼうと思えばできたの。店から飛び出して、宮間さんをかばって。やろうとおもえばできるくらいの時間はあったの。それなのに私はなにもしなかった……」

「……」

 霞は何も言わなかった。言おうとしなかった。

 痛いほどの沈黙が苦しくて、椎はそっと顔をあげた。

 霞が無表情でじっと椎を見ている。

「……ねえ、霞」

 沈黙に耐えられなくなって、椎はつぶやいた。

「霞……。私は、どうすればよかったのかなあ……」

 ぽん、と頭の上に何かが乗った。霞の手だった。

 そのままくしゃくしゃと撫でられる。

 椎は顔を歪めた。泣きそうだった。どんな顔をすればいいのかわからなくなった。

「椎は」

 霞がつぶやいた。

「椎は、抱え込もうとするからいけないんだ。今回のことは事故で、宮間はたまたま運が悪かっただけ。その場にいたお前や宮間の妹も運が悪かっただけ。だから誰も悪くない。お前も、宮間も、そのトラックを運転していたやつだって」

「……うん」

 椎は小さくうなずく。それでも、心に引っ掛かった何かはぬぐえない。それがなにかはわからなかった。宮間のことは、本当に事故だったのか。霞の言葉に安心できない自分がいる。

「そういえば、椎。伝言を預かっていないか?ほら、このあいだ、宮間が言ってた」

「え、ああ」

 椎はうなずいた。

「あずかってたよ。ごめん、すっかり忘れてた」

 霞が話題を変えたので、椎はあわてて笑った。

「えっと……コートを着て帽子をかぶった人だったんだけど……。なんて言ってたかな、たしか……」

 眉をひそめる。思い出した。

「そうだ、伝言を頼みたいって言われて……。『飛べないカラス』って言われたの。どういう意味かはわからなかったけど」

「……飛べないカラス」

 一瞬―――ほんの一瞬だけ、霞の表情が厳しくなった。

 だがすぐになにごともなかったかのようにもとの無表情に戻る。

「椎、ちょっと宮間の病室に行ってくる」

「え、じゃあ私も……」

 立ち上がりかけた椎の肩を、霞がおさえた。

「大丈夫だから」

 霞が立ち上がった。

「宮間も宮間の妹も、大丈夫だから」

「でも私も宮間さんの顔、見たいもん」

「椎」

 霞が椎の顔をのぞきこむ。

「バイト、もう始まる時間なんだ。叶重さんのところに行ってやってくれないか」

「……」

 椎は霞から目をそらした。

「霞、なんか今日ヘン」

「変?」

 霞が眉をひそめる。

「なにが」

「今日の霞はよく表情を作る」

 はっとしたように霞が表情を消したのがわかった。

 気まずそうに椎から顔をそむける。椎は息を吐いた。

「今朝だっていつもより表情豊かだったし、いまだって……。普段眉ひそめたりなんかしないもん、霞。別に悪いことじゃないけどさ。無理してやってるんだったらやめてよ。私も調子狂っちゃう」

「これは……」

 なにかを言いかけて―――いや、言おうとした言葉などなかったのか、霞が小さく首を振った。

 椎は目を閉じる。

「宮間さんのところ、行ってきてよ。私は叶重さんのとこにちゃんと行くから」

「ああ」

 霞がうなずいた。


     ***


 まさかあんなことを言われるとは思わなかった。

 病院の廊下を歩きながら、霞は頭を押さえる。

 よく表情を作る。

 そういうふうに見えた―――のだろうか。

 霞は小さく息を吐く。人前で霞は表情を作らない。霞にとって表情とは、意識下で作るものだったから。意識的に作る表情はつかれる。本当の自分の気持ちがわからなくなる。

 だから驚いた。

 椎の言葉に眉をひそめたこと、言われて初めて気が付いた。表情豊かだったと言われても、自覚がないのだから仕方がない。


 そう。

 椎の前で作った表情は、完全に無意識だった。


 霞は病院の廊下を歩きながら、ふっと笑った。意識的に。

 椎の近くにいれば、もしかしたら、昔のように―――。

 もっと普通に、笑うことができるのかもしれない。

 わずかな期待がそこにはあった。


     ***


 薄暗い明りのついた、真っ白い病室で。

 宮間育実は、目を覚ました。

 ぼんやりとした視界の中に、人の顔らしきものが映る。

「お兄ちゃん……!」

 聞きなれた声。自分とは似ても似つかない、おせっかいで明るい妹の声。

「亜季……」

 視界が晴れていく。亜季がそこにはいた。

「お兄ちゃん……よかったぁ……」

 ―――僕はどうなったんだろう。

 頭の中がまだぼんやりとしていて、状況が整理できない。

「お兄ちゃんね、事故にあったの。トラックにはねられて」

「……トラック」

 なんとなく思い出してきた。道を歩いていたら、大きなクラクションの音がした。壊れたおもちゃのように大げさに聞こえたことを薄らと覚えている。そこから意識がなくなった。

「でも、本当に無事でよかった……」

「……お前なあ……」

 自分を見つめる妹があまりにも泣き出しそうな顔だったので、宮間は思わず笑った。

 亜季が照れくさそうに頭をかく。

「だって、お兄ちゃん、目の前で事故にあうから」

「目の前?」

「あの場にいたの、わたしも」

 つぶやいて亜季は、宮間の体に覆いかぶさった。

「あのね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの誕生日、明日だったんだよね。わたし、お兄ちゃんに家に帰ってきてほしくて……。お父さんも、お母さんも、本当は心配してるの。だから、だから……」

「亜季」

 宮間は妹の名前を呼んだ。その背中に手を回す。

 丸みを帯びた肩。小柄な体に似合う、小さな背中。

 亜季が笑った。

「お兄ちゃん、くすぐったいよ」

「……」

 宮間は目を細める。

 これは妹の体。自分のよく知っている、宮間亜季のもの。

 宮間は亜季を抱き寄せた。

「……お兄ちゃん?」

「―――亜季じゃない」

 小さくうめく。

 宮間は顔をしかめた。

「亜季じゃない。お前はだれだ」

 クスッ。

 亜季が笑った。否、これは亜季ではない。亜季はこんな笑みを浮かべない。

「さすが、とでも言うべきか」

 耳に触る音でくすくすと笑いながら、それはゆっくり起き上がった。

「触れると心が読めると聞くからどんなものかと思ったけれど、まさか一瞬でばれるなんて。さすがだ。自慢していいな、これは」

「お前は誰だ」

「ん?」

 亜季の顔で、それは狡猾に顔を上げた。

「俺?聞きたいか」

 立ち上がり、病室をくるくると歩き回る。

「俺は―――」

「ツキフジ!」

 病室の扉が勢いよく開いた。

 亜季のふりをしたそれが、小さく表情を歪める。何かを呟いた気がするが、小さすぎてきこえない。

 宮間は一瞬息を飲んだ。

「……霞さん」

 霞がそこにいた。

 息を切らして、怒りとも憎悪ともつかない形相で、ツキフジと呼んだそれを見ながら。

「……殺してやる」

 霞が低くうめいた。

 ツキフジが目を細める。

「そんな物騒な」

 霞が火傷のある手を握る。じっとりと汗ばんでいる。

 ツキフジはそれを鼻で笑った。

「だいたいあんたにそれができるのかい?」

「できるさ」

 つぶやく霞の肩が、小刻みに震えている。

 ツキフジは目を細めた。

「ハッタリはよくないな。それに―――」

 風が吹いた。窓が大きく開いた。カーテンが揺らめく。霞は叫んだ。

「待て、ツキフジ!」

「それに、俺を捕まえろとスグルから言われたんじゃないのか?『飛べないカラス』」

 風がおさまった。霞は小さく舌打ちをした。

 窓の下には亜季が倒れていた。

「……亜季」

 宮間がつぶやく。

 霞は振り返った。

「亜季はただ乗り移られていただけだ。あいつのよくやることだよ。でも完全に自分の体にはできない。だから大丈夫。亜季は無事なはず」

 静かな寝息が聞こえてきた。亜季のものだった。

 宮間がそっと息を吐く。それからふと真顔に戻った。

「霞さん」

「ん?」

 病室の真っ白い天井を見あげながら、宮間はつぶやいた。

「僕、一応あなたの過去、ほとんど見てしまってるんです」

 霞の表情は変わらない。何食わぬ顔で、宮間を見ている。

「『飛べないカラス』はあなたを馬鹿にした言葉。それを最初に言ったのは、スグルという人……いや、妖怪。この間、椎ちゃんに伝言を頼んだ人です。こういうことは、僕が首を突っ込んでいいことじゃないですけど」

 宮間は霞をにらんだ。霞が一瞬息をのむくらい、厳しい顔だった。

「あなた、このままじゃ全部失くしてしまいますよ」


「……わかってるよ」

 片手で片方の耳をふさいでそうつぶやいた霞の声は、心なしか弱く聞こえた。


     ***


「スグル」

「霞かい?」

 スグルと呼ばれた彼は、うれしそうに目を細めた。

「来てくれたんだね」

「お前が呼んだんだろ。この間は断ったくせに」

「だって、ねえ」

 スグルが肩をすくめる。

「あの時に会っていたら、断られそうだったから」

 にやり、と笑う。

「椎ちゃんをおとりに使うこと」

「今も承諾しているわけじゃない」

 スグルは息を吐いた。

「とかなんとかいっても、結局は断れない。君はやっぱり、『飛べないカラス』だ」

「……」

 霞の表情は変わらない。動じない表情のまま片手で耳をふさいでいた。スグルは微笑んだ。

「こっちへおいで」

「断る」

「そうムキにならないでよ」

 スグルは立ち上がった。

 ゆったりとした足取りで霞の背後まで忍び寄る。

 霞の肩が、ピクリと動いた。

「君は」

 そっとその肩に手を置く。

「何を言っても、何をしても」

 霞が唇をかむ。

「僕から、逃げれないんだから」

 霞が静かに目を閉じた。

「……叶重と同じ顔で、それを言うな……」

 スグルは目を丸くした。

「叶重?」

 顎を上げる。

「僕と同じ魂の?」

「……」

「叶重のこと、そんなに大事かい」

「うるさい」

「僕のことは嫌いなのにねえ」

 クツクツとスグルは笑う。楽しそうだった。少しさみしそうだった。

「僕のほうが最初の居場所なのにな……」

「逃げられない居場所なんか、好きになるはずがない」

 スグルは息を吐き出した。

「でも嫌われたくないんだろう?」

 痛いところを突いたはずなのに、霞は相変わらずの無表情だった。スグルは思わず苦笑する。

「叶重にも言われていたね。君は最近、笑わなくなった」

「もともとだよ。……それより」

 霞が振り返る。スグルに向かって手を指しだした。

「?」

「写真」

 スグルは顔を上げた。

「あれ、どうして僕だと気付いたの?」

「あの場にいてあんなことをするのはお前しかいない」

 一瞬目を丸くする。霞がためらいなくそれを言い切ったことに少しだけ驚いた。

 霞がせかすようにつぶやく。「はやく」

 ちょっと待ってとつぶやいて、スグルは机の引き出しを開けた。

「えっと……たしかこの辺に……」

 霞は黙ってそれを見ていた。スグルはやがて引き出しの奥から一枚の写真を取り出す。

「はい。これ」

「ああ」

 霞がうなずいて、受け取る。

 叶重と霞と、あともう一人、女性の写った写真。

「懐かしいかい?」

 スグルが目を細めた。

「紗江、最後まで優しい女性だった……」

「叶重は忘れてしまっている。それじゃあ意味がないだろ」

「そうだね」

 スグルは悲しそうに微笑んだ。

「紗江は叶重のことを、一番大事に思っていたから」

「そう言っていたのか」

 霞がスグルの顔を見る。

 静かな瞳。揺れ動かない、湖のように静かな瞳。

 スグルはうなずいた。

「うん。最後にね。僕にあいさつしていったよ」

 微笑む。今度は優しい笑みだった。

「君にもよろしくと言っていた」

「……そうか」

 つぶやいて、霞が写真を懐にしまう。

「もう用は済んだか」

「そうだね」

 スグルがうなずく。

「もう帰っていいよ」

「ああ」

 最後にスグルは声を上げた。

「椎ちゃんによろしく」

「……」

 霞は何も答えなかった。


     ***


「……そろそろ邪魔になってきたな」

 彼はスッと三日月に目を細めた。

 その視線のさきには、霞がいた。



 不意に殺気を感じて、霞は振り返った。誰もいない。

 ―――気のせいか。

 また歩き出す。人間界では椎が待っている。もうとっくに『FIRE』の営業時間は終わって、家に帰って寝ていることだろうが。

 家路を急ぐ。

 仮の住まいだけれども。椎がいるあの家へ。彼女を巻き込んでしまう前に帰らなければいけない。守ると約束したのだから。

 霞は油断していた。スグルのところから抜けてきたという安心感と、ここに守るべき対象―――椎がいないという安堵で。

 だから、うしろに迫った影に、気づくことができなかった。


「ガッ………!」


 突然の衝撃。

 視界が揺らぐ。空から地面へ。霞は倒れた。

 体が熱い。無理やり開けた視界に、ぼんやりとした影が映った。

「……ツキ……フジ」

 ツキフジがそこにいる。口元にわずかな笑みを浮かべながら。三日月のように細く笑った目は、楽しげに霞を見ている。

「おとなしく寝ていろよ。……これは、ソウのためでもあるんだから」

「な……に……」

 舌がうまくまわらない。視界に闇がかかる。まだだ。まだだめだ。目の前にツキフジがいるのに。体に力が入らない。

 それをみてツキフジが笑った。

「運が悪かったら死ぬかな。まあ、死ぬなよ。死なれたら俺も困るんだから。せいぜい死なない程度にくたばってな」

 ツキフジが霞の体を蹴飛ばす。カランと音を立てて、写真が落ちた。

「あ……」

 ツキフジはそれに気づいていないようだった。

 視界が暗くなっていく。闇に包まれる。ただ、熱い。


 霞は意識を失った。


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