第三章【四】 喫茶店にて
「亜季」
椎は公園のベンチに腰かけている亜季を見て手を振った。
「ごめん、待った?」
「ううん、……っていうのは少しウソかも。ちょっと待った」
椎は亜季の隣に腰掛ける。
「今日はいつもより十五分くらい遅かったかな」
隣で亜季が、制服についたほこりを払っていた。椎は視線を一瞬亜季に向けて、ふっと微笑む。木枯らしが地面の砂を舞い上げていた。
「ねえ、椎」
亜季がつぶやいた。
「おなかすいた」
「へ?」
「どっか食べに行かない?」
そう言いながら、亜季が立ち上がる。
椎は公園にある時計に目をやった。午後三時。バイトまでまだ時間はある。
椎は苦笑を漏らした。
「亜季、お金持ってるの?」
「お金?」
ちょっと待ってとつぶやいて、亜季が通学かばんの中をあさり始めた。
「えっと……たしかこのあたりに……っと」
なかなか見つからない。椎は鞄の中を覗き込む。
「……」
鞄の中には教科書やら参考書やら筆箱やらポーチやらといろいろなものが入っていて、ちょっと大変なことになっていた。
「……見つかりそう?」
「ちょっと待って……あった!」
亜季が鞄の中からピンク色の可愛らしい財布を取り出す。
「ほら、ちゃんとあったでしょ」
「そんな自慢げにいわれても……」
「椎はお金持ってるの?」
亜季の問いかけに、椎はうなずいた。
「一応社会人ですから」
「かっこいー」
亜季がぱちぱちと拍手をする。
椎は笑って立ち上がった。
「どこ食べに行く?」
すると亜季が待ってましたとばかりに胸をたたいた。
「わたし、この近くの安くておいしい店知ってるんだ」
「え、私にも紹介してよ」
「今から行くんでしょ」
「そうだった」
椎は頭をかいた。亜季が苦笑を漏らした。
「こんなお店あったんだ」
椎はこじんまりした店内を見渡した。
そこは喫茶店で、その店内はどことなく『FIRE』に似ている。親近感を覚えて、椎はふっと笑った。
「わたしもね、最近知ったんだ」
亜季が椎のあとからつぶやいた。
「しかもね、意外と安いの。それにおいしいんだよね」
窓際の席が空いていたので、そこに座る。窓の近くだ。外はよく晴れていてお出かけ日和だった。すぐそばに大きな道路が走っていてたくさんの車が走っていくのがよく見える。
「注文なににする?」
亜季が注文票を広げて椎を見た。
椎は首をかしげる。
「亜季のおすすめは?」
「わたしのおすすめ?」
亜季がおうむ返しに聞き返して、眉をひそめた。「……うーん」少し悩むような仕草をして、それからひとつのメニューを指さす。
「これ」
「ん?」
そこに載っている写真を見て、
「……可愛い」
椎は思わずつぶやいた。
「マフィン?これ」
「そうだよ。値段も安いでしょ」
椎はメニューを覗き込んだ。まばたきをする。
「……ひゃ、百円……」
「三つセットになってるの。一個一個は小さいけど、他と比べたらかなり安いはずだよ」
「うん、安い」しかも選べる三種類。お得感満載だ。
「あ、すいませーん」
亜季が店員を呼んで、マフィンを注文する。椎は接待の仕方を見習おうと、店員を最後まで見つめていた。店員は無視を決め込んでいたようだが、奥に引っ込んでからは眉をひそめて椎を見ていた。
「……椎のバイト先って、喫茶店だっけ?」
マフィンが来るのを待っている間、亜季がそう尋ねてきた。その声が心なしか引いている。椎は気にしないで答えた。
「ううん、パブ」
「パブってお酒飲む店?」
「……まあ、大きく言えばそうなるけど。でもうちでは食事も出してるよ」
「ねえ、椎」
亜季は椎の目を覗き込んだ。
「お兄ちゃんもそこで働いてるの?」
「え?」
椎は一瞬表情を硬くした。
「……どうして?」
「どうしてって……」
そのときちょうどマフィンが運ばれてきた。
小さめのマフィンが皿に三つ乗っている。それぞれ種類が違い、可愛らしい飾りまでついていた。
「わあ」
亜季がさきに受け取り、そのあとに椎が受け取る。
「いただきます」
二人で手を合わせた。
「高校は楽しい?」
「ん、まあまあ。特に問題なくやってるよ」
マフィンを口に運ぶ。
「あ、おいしい」
「でしょ?今度また一緒に行こうよ」
「行く行く」
女子トークとでもいうのだろうか、中学生のとき椎はそういう類のものがまったくといっていいほどできなかった。たとえばどこのバンドが今流行りだとか、ひとつ上の先輩が同級生の誰かと付き合っているだとか、正直言ってどうでもよかった。
冷めているといってしまえばそれまでかもしれない。ただ、まわりから離れ過ぎず、そうかといって近づき過ぎず、それが中学生のころの椎だった。
亜季と会ってからは、不思議とそういうことを思わなくなった。それはきっと。
―――それはきっと、亜季がはじめてだったから。
亜季がはじめて。はじめての―――。
「あなた、いつもここにいるよね。帰り道で見かけるから、気になってたんだ」
スカートの丈をいまどきに短くした黒いセーラー服。活発な笑顔。広がる黒髪をポニーテールでまとめている見知らぬ少女。
はじめて亜季と会った時の印象は、こんな感じだった。
椎はいつも決まった時間に公園へ来ていた。その日はちょうど日差しの暖かい日で、公園の景色を眺めているうちに椎はうとうとと寝てしまったのだ。
亜季が話しかけてきたのはそんな日だった。
「……見たところわたしと同じ年に見えるけど……、サボリ?」
「サボリ……ッ、高校行ってないだけなの!」
そう言って思わず立ち上がった椎に、亜季は言った。
「そっかあ。じゃあ仕方ないね」
「……」
怒る気力もそがれてしまった。
そのまま黙ってしまった椎に亜季がつぶやいた。
「ねえ、ひとつ訊いていい?」
「なに?」
「名前、教えて」
椎は少しばかりためらった。椎の母は世間を騒がせた殺人鬼。椎は母と瓜二つだったから。
いままでにも名前を教えた瞬間に身に覚えのない悪態をつかれて嫌な思いをしたことがたくさんあった。だから椎はためらったのだ。
でも、それでも。この名前は母からもらった大切なもの。だから。
椎はつぶやいた。
「木暮、椎」
「やっぱり!」
突然の亜季の声に、椎はびくっと肩を震わせた。
「な、なに?」
「あなた、木暮ひよりの娘?そうでしょ」
「……」
椎はうつむいた。唇をかむ。体が震える。
それは肯定の意味を含んでいた。
しかし―――。
「ねえ、椎。あなたすごいよ、すごい!」
「へ?」
椎は顔を上げた。そこには亜季の満面の笑みがあった。
「すごいすごい!椎、すごいよ!」
散々すごいすごいを連発したあと、亜季ははっきりとこう言った。
「だって、それって有名人の娘ってことでしょ!」
「……」
椎は呆然と口を開いて、絶句した。
それはもう、あきれを通り越して、感心すらしていた。
そういう考え方もあるのかと。殺人鬼の娘と蔑む前に、そういう反応もあったのかと。
それと同時にうれしさまでこみ上げてきた。
だって、亜季が初めてだったから。
母ひよりが殺人鬼だと知ってもなお、そのままでいてくれたのは、亜季がはじめてだったから。
だから椎は、出会って数か月の亜季という人間に、心を許すことができたのだ。
椎はふと昔のことを思い出して、微笑んだ。
それを亜季が変なものでもみるような目つきでながめる。
「……椎がにやついてる……」
「な……、失礼な。ちょっと昔のことを思い出しただけなの」
「ふうん。ならいいけど」
亜季のマフィンを口に運ぶ手を見ながら椎はふいに風が吹いたのを見た。
「あ……」
小さくつぶやく。
「……宮間さん……」
どくん、と心臓が波打つ。
いけない、この風は。
街の視界を奪う風。木枯らしが街を抜ける。風が空へと舞う。呼吸がはやくなる。
黒白の視界。その向こうにトラックが見える。
まるで自分だけがこの出来事に気付いているかのように、頭の中がぼんやりしている。声が出ない。亜季、窓の外、窓の―――。
亜季、早く気付いて。お願い。
亜季がゆっくりと窓の外を見た。
「お兄ちゃん!―――」
それはスローモーションのように見えた。ゆっくりと、本当にゆっくりと時が流れる何かを叫んだ気がする。誰かが絶叫した気がする。大げさに大きく聞こえる声。猛スピードで突っ込んでくるトラック。叫んでいる。誰かが、だれかが。
ダレガ?
その声たちをかき消すように、トラックのクラクションが鳴り響いた。