第三章【参】 本
真っ黒い、それでいて滑らかな質感。黒と白のコントラストは懐かしくもあり悲しくもなる。暗い部屋のわずかな光を反射して、それは光っている。
半分物置と化している部屋。奥のほうに埋もれるようにして、大きなグランドピアノがそこにはあった。
何年も放置されていたはずなのに、その鍵盤はほこりひとつかぶっていない。
「……こんなところにあったなんて」
霞は息を吐いた。
鍵盤にゆっくりと手をかける。
トーン。
軽く弾むような、耳に心地よい滑らかな音。
「懐かしいな」
すうっと息を吸い込み―――。
大きく鍵盤を叩いた。指先から、ピアノ全体から、激しい音楽が流れだす。
そのまま流れに任せて、霞はピアノを弾き続けた。
時には優しく、時には急速に、また時には物悲しく。
美しい調べが流れていく。
何食わぬ顔で、指先だけが感情を語っていく。
***
「……」
朝起きて、リビングに入ると霞がいた。
「……」
眠い目をこすってもう一度前を見る。
リビングに霞がいる。
「……あれ……?」
「昨日からここに住むことになったんだ。寝ぼけているのか?」
「……そうみたい」
椎は息を吐いた。
机の上に目をやる。トーストにハムエッグ。簡単な朝食だが、椎の作ったものではない。
椎は霞を見た。
「朝ごはん、作っておいたから」
霞がなんでもないことのようにつぶやく。
「……ありがとう」
他に言う言葉が見つからず、椎はとりあえず礼を言った。
「霞は朝ごはんすませたの?」
「ああ」
霞がうなずいた。
「椎の起きてくるのが遅かったんだ。俺は六時に起きたのに」
「うそ」
椎は壁に掛けられた時計に目をやる。午前九時。
「三時間も何してたの」
「ん?」
霞が片目だけで椎を見た。
「二回ほど散歩に行った。でもかなり時間があまったから本を読んでいた」
「本?」
椎は首をかしげた。
椎は文字を見ていると眠くなる人種で、本など買ったこともないし、当然この家に本など置いてあるはずがない。
椎の家に本がないということは、その本は霞のものだということになる。
「……霞、本なんて持ってたの?」
「お前とは違って読書はわりと好きなんだ」
霞が上着の内ポケットから文庫本を取り出した。
「ふうん」
椎はちらりとそれを見て、机の前に座った。
「いただきます」
しっかりと手を合わせてトーストにかぶりつく。
「……いくら本に興味がなくても『ふうん』はないだろ」
霞の不満げな声がうしろから聞こえてくる。
椎は口の中のものを飲み込んでから、反論した。
「だって本当に興味ないんだもん」
「中卒でもせめてなにか勉強しようとか思わないのか」
「本は勉強とは違うよ……って、中学のときに読書が好きだった子からきいた」
「……あのな」
「じゃあさ」
椎は振り返った。霞と目が合う。
「その本見せてよ」
霞が視線を持っていた本に落とした。
「これを、か?」
「それを、よ」
霞の静かな目の光が、わずかに揺らいだ。わずかな揺らぎだったが、それは明らかな動揺だった。
椎は目を細めた。
「ふうん」
口元には小さな笑み。
「見せられないような内容なんだ」
「いや、そういうことじゃ……」
「じゃあ見せてよ」
うっと霞が押し黙る。
椎は椅子の背もたれに腕を乗せて、霞を見た。
「エッチな内容?」
「それはない」
霞が即答する。
「じゃあいいでしょ」
椎は霞の手の中から本を抜き取った。
「あっ」
油断していた霞が小さく声を上げる。
椎はにやにやと笑いながら本を開いた。
「ちょっ……」
「……あれ」
椎はその中身を見て、拍子抜けしたように目を丸くした。
本の中身を指でなぞりながら、つぶやく。
「これ、楽譜だ……」
「どうでもいい内容だっただろう」
ひょいっと椎の手から楽譜が抜き取られる。
「霞!」
椎は非難の声をあげた。
霞は椎に背を向けると、楽譜を内ポケットにしまった。
「……楽譜なんて文字のある本よりも興味ないんじゃないか」
「そんなことないって」
椎の霞から背を向けると、朝食の続きを食べ始めた。
「霞が楽譜読めるなんてびっくりしたの」
「椎は読めるのか」
「ぜんぜん」
椎は笑った。
「ピアニストになるわけでもないのにピアノなんか習っても意味ないって、お母さんが」
「……そうか」
椎はハムエッグを口に運んだ。
「お母さんいわく、生きていくことに必要じゃないことは大人になってからやれ、だって。親から完全に自立して、それではじめて自分の好きなことをするの。そうしたほうが絶対楽しいって。今思うとけっこうめちゃくちゃなこと言ってるよね。要は習い事とかにあまり金を使わせるなってことでしょ、それ」
「そうだな」
霞が楽譜のページをめくる。
「お前の母親は、どんな人だった?」
「え?」
椎は最期の一口をお茶で流し込むと、律儀に手を合わせてから振り返った。
「どんなって?」
「……いや、忘れてくれ」
「いい人だったよ」
ぴくり。霞の肩が動いた。
椎は続ける。
「普通のお母さんだった。子供思いの、いいお母さんってやつだと思う。明るくて、優しくて。私も特に反抗する気はなかったな。苦労してるのはわかってたし。そうそう、それでね」
椎は棚から、小さな箱を取り出した。
「これ……」
霞がつぶやく。椎はうなずいた。
「うん、霞が拾ってくれたやつ」
小さな箱。古ぼけていて、ところどころくすんでいて、それでも椎の宝物。
「私が小さいときにね、お母さんがくれたの。いつか私が大切な人に出会えた時に、その人を守れるようにって」
「守る……」
霞が静かに目を伏せた。
「誰かを守る力……か」
その横顔がかすかに微笑んでいる気がして、椎はあわてて目をそらした。
「えっと……。じゃあ私、自分の部屋で内職してくるから!」
逃げるようにリビングから出る。
―――霞にもいたのかな。
内職のダンボール箱を引っ張り出して、椎はベッドに腰掛けた。
―――大切な人。守りたいと思える人。
窓の外に目をやる。
自分がどうしてリビングから逃げ出してきたのかわからなかった。ただ、霞の横顔が微笑んだように見えた。とたんに動悸が激しくなった。
いたとしたら誰だろう。親友、仲間、家族、恋人、並べ立てればきりがない。
「恋人……」
椎はふとつぶやいた。言葉が苦い味となって舌にまとわりつく。
椎は顔をしかめた。
恋人。
椎にはきっと縁のないものだ。街中でナンパはされるが、椎のことを本気で思ってくれる人などきっといない。いるはずがない。
『お前を死なせない』
一瞬頭によぎった、霞の言葉。
『俺が責任を持って守る。約束する』
動悸が激しくなる。体が震える。息が苦しい。
椎は布団に顔をうずめた。わけがわからなかった。
椎にとって大切な人。それは、それは?
この高まった動悸を抑える方法を、椎は知らない。
***
「ツキフジ」
名を呼ぶ声がして、ツキフジと呼ばれた彼は振り返った。
「なに、ミノウ」
「今のところスグルに動きは見られない。……霞はツキフジを見つけに来るだろうか」
「さあねえ」
クツクツとツキフジは笑った。
何年もの時を経た大樹にもたれかかり、目を閉じる。
「いいな……見つけられるものまたスリルがあっていいと思う。まあ、いざとなれば、彼に頼めばいいしね」
「彼、とは」
「ソウ」
その名前にミノウは顔をしかめた。
声を押し殺しながら、低くうめく。
「またソウか。お前以外にそいつの姿を見たやつはいない。ほかの連中はお前がソウなんじゃないかとも言っている。ソウなんて本当は実在しないのではないかと」
「言いたい奴には勝手に言わせておけばいいさ」
ツキフジは大きく手を広げた。
「ソウは影だよ。俺の影。闇の部分。あいつはどんな状況でも、頼めばやってくれる。だからこその影じゃないか、え?」
その仰々しい態度にミノウが息を吐く。
「ツキフジ」
「なに」
「何を考えている」
その言葉にツキフジは首をかしげて見せた。
「べつに、なにも」
ツキフジは空を仰いだ。大きな木々の隙間から、光が漏れる。目を細める。
「ただね、楽しみたいんだよ。俺は」
木々がツキフジの声に応えるように、ざわめくように、大きく揺れた。