第三章【弐】 写真
「チーズピザ追加でお願いします!」
椎が厨房に向かって声を出す。
叶重がバーカウンターで目を細めた。
「せいが出るねえ」
「のんきなこと言ってたら駄目じゃない」
カウンターに座っている女性が笑う。
「店長でしょ、一応」
「一応は余分だよ」
叶重が苦笑で言葉を返す。
その肩をうしろから霞が叩いた。
「しゃべってないで仕事してください」
「お客さんと話すのも仕事のうちだってば」
霞がため息をつく。
「サボリの口実ですね」
「物は言いようだよ、霞君」
霞は小さく首を振って、厨房の中へ入っていった。
女性がにやにやと笑いながら、その後ろ姿を見送る。
「また一段と格好よくなったんじゃない?」
「え?」
「彼」
女性が霞の消えた厨房を見やる。
「いつも笑わないから何考えてるかわかんないけど。でもそれがあの子には合うのよ。浮世離れした美しさってやつ?」
叶重が眉をひそめる。
「常連だからってうちの霞君はあげないよ」
「あら、嫉妬?」
女性が笑った。叶重がため息をつく。
「男には嫉妬しないよ」
「わからないじゃない」
叶重はもう一度息を吐くと、ミントの葉をとってジュースと軽くつぶしながら混ぜはじめた。混ぜ終えると、ワインセラーから何種類かボトルをとりだしてグラスに注ぐ。最期に氷を加えると、上にハーブをのせた。
「はい」
それを目の前の女性に差し出す。
「頼んでないわよ?」
「知ってる」
女性がグラスを持ち上げる。
「チョコレートモヒート?」
「うん」
叶重がうなずいた。
「苦手だった?」
「まさか」
女性はグラスを明りに透かしながら微笑んだ。
「そうねえ……」
グラス越しに叶重を見やる。
「おいしかったらお金払ってあげる」
「それはどうも」
叶重が肩をすくめる。
女性がグラスを口につけた。
「……あら」
つぶやく。
「おいしい」
「特製だからね」
グラスをカウンターに置いて、女性はため息をついた。
「仕方ないから払ってあげるわ、お金」
「ありがとう」
女性がふとカウンターの上に置かれた写真に目を止めた。
「店長さん」
「うん?」
「……これは、なに?」
そこには叶重と霞、それにもう一人、髪の長い女性が写っていた。
「ああ、これ?」
叶重が写真を覗き込む。
「けっこう昔に撮ったやつなんだけどね。捨てちゃいけない気がして、取ってあるんだ」
「彼女は?」
女性が写真に写っている女の人を指さす。
「このひと?」
女性がうなずく。
「それがねえ……」
叶重が困ったように微笑んで、明りを仰いだ。
「誰か、わからないんだ」
「お待たせいたしました、チーズピザでございば……痛ッ、舌噛んだあ……」
マニュアル通りの言葉を言おうとして、椎は口を押えた。そのあとも慌てて皿を机に置いて、ガシャンと盛大な音を立てる。
「す、すいません……」
椎は真っ赤になってうつむいた。
くすくすと笑う声がした。目の前の客が笑っていた。
「いいよいいよ。気にすることはないから」
すこしくぐもったような声。帽子は目深にかぶり、まだ秋だというのに厚手のコートをはおっている。顔は帽子に隠れてよく見えない。
客が顔を上げる。
「ありがとう。ついでに頼みたいことがあるんだけど」
椎は気を取り直して、営業スマイルで応えた。
「なんでしょうか」
「霞っていう子がここで働いてると思うんだ」
椎はスッと目を細めた。
客の帽子に暗い影が差す。
ぴくっと椎の肩が動いた。ゆっくりと深呼吸をする。
「確かに働いておりますが……いかがされましたか?」
客は帽子をかぶりなおした。
「彼に伝言をお願いしたいんだ」
椎は少し考えて、うなずいた。
「わかりました」
帽子の下で客が笑ったのが見えた。
客が小さくつぶやく。
「じゃあお願いするけど―――」
「じゃあ私、そろそろ行くわ」
女性が立ち上がった。
叶重がグラスを磨く手を止めて、顔を上げる。
「また来てね」
「仕事の合間にでも。―――もう少し丁寧な頼み方はできないわけ?」
女性が笑って片手を振る。
「さあ、君は常連さんだから」
叶重が肩をすくめた。
女性が店を出て行った。カラン、と扉につけた鈴が鳴った。
女性が帰ったあと、叶重は写真を見ていた。
何も言わずに、ただ、じっと見ていた。
思い出せない女性の写ったその写真を。
ただその写真だけが、わずかに残る彼女の記憶。
きっと叶重は、そのことに気付かない。気づくことはない。
永久に。永遠に。ずっと。
霞は静かに息を吐いた。片手で耳をふさいで。
「……彼も被害者……か」
***
「……あれ、ない」
店も閉めて、片付けも終わったころだった。叶重がふと声を上げた。
「どうしたんですか」
霞が帰りの準備をする手を止めて叶重を見やる。
叶重が何かを探しながらこたえる。
「いや、ここに置いてあった写真がなくなってるな……と」
「写真?」
「うん、僕と霞君とあと……女の人が写ってるやつ」
霞が首をかしげた。
「そんな写真、持ち出す人なんていますか」
「……だよね」
叶重がため息をつく。
「でも、ないんだよ」
「大事なものだったんですか?」
椎が横から顔を出した。
叶重がうなずく。
「まあ、大事っていったら大事だね。……なんていうか、失くしちゃいけない気がするんだ。よくわからないけど」
「はあ」
椎もあいまいにうなずく。
「……常連の小野田さんと話してた時はあったし……だとしたらそのあと……かな」
叶重はぶつぶつとつぶやきながら、それきり黙ってしまった。
椎は霞を見る。
霞がカウンターの椅子に座った。椎の何か言いたげな目を見て、小さく息を吐く。
「放っておいたらそのうち見つかる」
「……」
そのとき厨房から宮間が出てきた。
「あ、宮間さん、あの」
「叶重さん」
宮間が叶重を呼んだ。
「背中にゴミがついてます」
「え、本当?」
「とりますから少しの間動かないでください」
そう言って宮間は叶重の背中に触れた。椎の隣で、霞がほんの少しだけ表情を歪めた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
「はい、とれました」
「ありがとう、宮間君」
「あの……」
宮間が小さくつぶやいた。
「最後に写真を見たのは、その女性……小野田さんが帰ったあと、じゃないですか?一人で見てましたよね、写真」
「え?ああ」
叶重がうなずいた。
「うん。たしか……そうだったね」
叶重が首をかしげる。
「でも……あのとき宮間君、厨房にいたよね」
「……たまたま見えたんです」
宮間が小さく笑った。
「厨房からバーカウンターって意外によく見えるんですよ」
それからあたりを見まわす。
「あの……写真が置いてあった場所、どこでしたか?」
「そこのカウンターの上だよ」
宮間は無言でカウンターの前に立つと、その上に手を置いた。
「宮間……さん?」
椎は小さく声をかける。返事はない。
しばらく無言のときが流れた。
壁にかけられた時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
秒針が一周目にさしかかったとき―――。
宮間が目を開けた。
「椎ちゃん」
「え?」
「ちょっとごめん」
宮間が椎の手を握った。
「ちょ……ッ」
「……椎ちゃん」
椎からゆっくりと手を放して、宮間が尋ねる。
「霞さん宛てに、なにか伝言をあずかってない?」
「え?あ」
椎はうなずいた。
「あずかって……ます」
―――でもなんでそんなこと……。
「いいところで悪いけど」
声がした。
「今日はもう帰ろうか」
つぶやいたのは叶重だった。
「でも、叶重さん」
「今日はもう遅いし、写真は明日でも探せるからいいよ」
叶重が三人に目配せする。
霞が息を吐いた。
「じゃあ、俺帰ります」
「あ、霞!待って」
椎はそのあとを追って外に出た。
「ちょっと霞!行かないでよ」
椎は走って霞に追いつく。
「今日の宮間は」
霞がつぶやいた。
「変だ。自分から力を使うなんて、おかしい。……椎、何か言ったのか」
「え?」
椎は霞を見た。
何を考えているのかわからない、いつもの無表情だった。
「……宮間君」
叶重が宮間に声をかけた。
「すごいね、君は。人の心でも読めるのかい?」
「……」
宮間がうつむく。何も言わない。
叶重は苦笑をもらした。
「すまないね、言いたくなかったら言わなくてもいいよ」
「いえ」
宮間が小さく笑った。
「いいんです。最悪ですよね、僕」
「……」
叶重は目を細めた。明りの消した薄暗い店内では宮間の表情はよくわからない。
「小さいころから頭がどうにかしていたんです。人に触ると、言葉が流れ込んできて。小さいなりにそれが人の心の声だってことはわかってたんです。でもある日、そんなことは正常な人間にはおきないと知りました。僕は」
宮間が唇をかむ。
「僕は、人の心に土足で踏み込む。人の過去を断りもなしに覗く。僕は最低な人間なんです。……って、父にそう言われました」
「宮間君」
叶重が宮間の肩に触れた。
「叶重さん?」
「何が見える」
叶重は静かに尋ねた。
「僕の中の、どんな心が見える?」
「……」
宮間は叶重から一歩離れた。
「叶重さんは……」
つぶやく。
「あなたの心は深いところまで見えません。表面の心情が流れ込んできて―――でもそれだけです。それ以上はなにも聞こえてこない」
「……そうかい」
叶重は微笑んだ。
「君はきっと、優しい子だから」
「え?」
宮間が顔を上げた。
「だから力を使うことに抵抗を感じるんだ。人の心を勝手に見てしまったときに罪悪感を覚える。でもそれじゃあ、いつかつぶれてしまうよ」
「そんなのどうすれば……」
「それは自分で考えなさい」
ぴしゃりと叶重が言った。
「いつまでも逃げてちゃいけない」
「……」
宮間が軽くこぶしをにぎりしめる。
叶重はそれを見てふっと目の力を抜いた。
「自分を信じて、宮間君」
「……叶重さん」
宮間が小さく笑った。ぽつりとこぼす。
「……クサいですよ、そのセリフ……」
「うるさいなあ……」
叶重はすねたようにそっぽを向いた。