第三章【壱】 宮間イクミ
「椎、いいものあげる」
「いいものってなあにー?」
まぶたの裏に映る景色はいつもきれいな水色で、水面に反射する光のようにキラキラと光っている。
あれはたしか、椎がまだ小さいころ。彼女の母が壊れる前のこと。
二人で海へ行ったのだ。
きれいなきれいな海を見て、母は椎をとある場所へ連れて行った。
「お母さん、どこへ行くの?」
「いいとこ」
母はそう言って笑った。
そしてかすかに覚えている水色の場所で、母は椎に言った。
「椎、いいものあげる」
「いいものってなあにー?」
椎の無邪気な声に、母は頭をなでてくれた。
「じゃーん」
それは、小さな木の箱だった。古ぼけていて、所々すくんで見える。
まだ小さかった椎は正直がっかりした。
「もっといいやつないの?」
「これがいいやつなの」
母は言った。
「これはね、椎。お守りなの」
「お守り?」
おうむ返しにたずねた椎は首をかしげる。
母はうなずいた。
「そう、お守り。椎がいつか、大切な人に出会えるための」
「よくわからないよぉ」
「今はわからなくてもいいの」
母は椎の髪をくしゃくしゃになでた。
「痛いよぉ」
「お母さんもね、もう死んじゃったお父さんにこれを渡されて言われたんだよ。これはうちに昔から伝わる人とのつながりを結ぶお守りです。あなたを見た瞬間から運命だって思いました。結婚してくださいって。―――いまどき運命なんてクサいって思ったけどね。結婚しちゃった」
父のことを語る母の顔は、いまでも覚えている。さみしそうだった。悲しそうだった。それでも幸せそうだった。それなのに、どこか恐怖で歪んでいた。
きっとこのころから母は壊れかけていたのだろう。椎の前では必死に隠そうとしていたけれど。
きっと母は気づいていなかっただろう。
椎も母と同じ恐怖を抱えていたのを隠していた。必死に。
***
「で、なんでここに霞がいるの」
椎は自分の隣を見て眉をひそめた。
「まさか私を守るためとかそういうこと言い出さないよね」
「成り行きだから仕方がない」
霞がしれっと言う。椎はソファに顔をうずめた。
「だからってなんで……」
霞が椎から目をそらした。
「まあ、正直な話、同じ敷地に長くとどまると―――特にアパートなんかは苦情が来るんだ。ゴミ出しの日にカラスの羽が大量に袋に入っていて不気味だとか、なんで家の中にカラスの羽が落ちているんだとか」
霞が目をそらしたままつぶやいた。
「そういうことで二日前にアパートを追い出された」
なるほど、一軒家の椎の家ならそういう苦情がくることはない。
「……って、そういう問題じゃないでしょ!」
椎はため息をついて顔を上げた。
「完全に自業自得だよ、それ」
母と二人で住んでいた一軒家。いま見えているのはまぎれもない自分の家の中だ。
そこに霞は堂々と居座っている。黒い翼ももう隠す必要はないと思っているのか、出したままである。
「だいたい住む家がないんだったら叶重さんのところに行けばいいのに。付き合いは私より長いんだからさ」
「叶重さんは……」
霞が何かを言いかけて、口をつぐんだ。
椎は口をとがらせる。
「なによ」
霞が小さく目をふせた。
「……あの人は、自分の家に他人を入れたがらない」
「潔癖症?」
霞がまじまじと椎を見つめる。
「あの人が潔癖症に見えるか?」
見えません。
「俺もそう思う」
霞がため息をついて、椎に近づいた。
「もうひとつ言っておくと、俺は普段、人間界側で行動している。向こう側にも居場所はあるが、あまり好きではないんだ。だから」
霞が椎の前で止まった。無表情の顔を上げる。
「しばらくの間、住む場所を提供してほしい」
真面目に言われた。
椎は床をにらむ。
卑怯だ。卑怯すぎる。
考えているふりをして唇をかむ。
そんなふうに言われたら、断れるわけがない。
椎はこくんとうなずいた。
「……いいよ、うん」
「ありがとう」
霞が深々と頭を下げた。
椎はやりにくそうに目をそらす。
「……奥に使ってない部屋があるから、そこ使って」
「わかった」
すんなりと霞は引き下がった。
椎は大きなため息をつくと、天井を見あげた。
「……どうしよう、これから……」
***
「でさ、その人と同居することになっちゃったの、私」
「うそでしょ?」
「ホントだってば。亜季、信じてない?」
「まっさかぁ」
亜季と呼ばれた学生が、手を振って笑う。
黒のセーラー服を短くして、広がる髪をポニーテールにしている彼女は、どこにでもいる明るい高校生に見える。
椎は彼女を見て息を吐いた。
亜季とは数か月前に知り合った。公園で昼寝をしていた椎に亜季が声をかけてきたのが最初である。それからというもの椎がこの公園に来ると亜季が鞄を手にして待っていた。
「亜季。いつもこの公園にくるけど友達とは一緒に遊ばないの?」
以前亜季にこう聞いたことがある。彼女はこたえた。
「友達は学校だけの関係だよ。なんでわざわざ学校が終わったあとまでつきあわないといけないの。面倒でしょ」
「……」
じつは椎も中学生時代にそう思っていた。
「……ねえ、椎」
亜季の声に椎は振り返った。
「わたし、お兄ちゃんがいるんだけどさあ……って、前話したっけ」
「お兄さんがいるのはきいたよ」
「うーん……」
亜季が頭をかいた。
「悩み事?」
「うん、まあ……」
会話に歯切れがない。
椎は亜季の肩に手を置いた。
「いいよ、何でも話してよ。私も愚痴聞いてもらったし」
「……うん」
亜季がベンチにもたれかかった。
「その……。お兄ちゃんはもう何年も家に帰ってなくて。それで、今度お兄ちゃんの誕生日なんだけどね、家を出てから五年になるからたまには帰ってほしくて……」
―――なるほど。
椎はうなずいた。つまり、亜季の兄を説得すればいいのだ。
「お兄さんの場所はわかるの?」
「うん。親には内緒にしておいてくれって言われたけど」
亜季がうなずく。
「そっかあ……」
椎はきいた。
「どの辺?」
「えっと……」
亜季は近くに落ちていた木の棒を拾うと、地面になにやら書き始めた。
「このあたりに大通りがあって……」
「うんうん」
二人の足元に簡単な地図ができあがっていく。
亜季がピタッと手を止めた。
「この辺」
「……うそ」
椎は顔を上げた。
「うちのすぐ近くだ……」
心の中でもう一言付け足す。―――『FIRE』からも離れていない。
「それで、お兄さんの名前はなんていうの?」
「名前?」
亜季がベンチから身を起こす。
椎の顔を見てまばたきをした。
「宮間イクミ、だけど」
***
「宮間さん!」
午後四時半。
ここはアイリッシュパブ『FIRE』の事務室。
椎は叫んだ。
「下の名前、教えてもらえませんか」
「え、……ああ」
鞄から店の制服を取り出していた宮間は、椎の迫力に気圧されてうなずいた。
「えっと……」
「はやく!」
「あ、はい」
宮間がつぶやく。
「宮間……イクミ……って言います」
椎は宮間の腕をつかんだ。
「宮間さん、失礼します!」
「え、うそ……」
開店三十分前。
宮間は椎にトイレの中へと拉致された。
「……っていうかここ女子トイレ……なん…だけど……」
「私は男子じゃないですから」
椎はさらっと言った。
宮間があきらめたようにうなだれる。
「あの……とりあえず、手を放して」
「あ、すいません」
椎はつかんでいた手を放した。
そのまま宮間を個室に連れ込むと、鍵をしめる。せまい。
「それで、何の用?」
宮間がたずねた。椎から目をそらしている。
椎は個室の壁に手をついた。
「宮間さん」
「……はい」
「妹いますよね」
「え?」
宮間が顔を上げた。
「いるよ。いるけど……それがどうしたの?」
「妹の名前って、ひょっとして、宮間亜季って言います?」
「うん」
宮間がうなずく。
椎は目をつぶった。
「……宮間さん」
目を開ける。宮間の目を見る。
「今度の誕生日、家に帰ってもらえませんか」
「……椎ちゃん、それ」
宮間が顔を上げた。
「亜季から言われた?」
椎はうなずく。
宮間が大きく息を吐く。
「……ごめん、家にはもう勘当されてるから。帰る気はない」
「でも亜季は」
「亜季には悪いと思ってるよ」
宮間が椎から目をそらした。
「でも家には帰らない」
「どうして」
「人に触れると声が聞こえてくるんだ」
―――え?
椎は宮間を見た。
宮間はうつむいていた。
「頭がおかしいと思ってくれてかまわないよ。でも、精神科だっていろいろまわって何回も行ったのに効果なんかありはしなかった」
続ける。
「家族にこんな状態で会うわけにはいかないよ。これは病気じゃないかもしれないけれど、やっぱり病気かもしれない。それをわかって親は僕を勘当したし、僕だって家を出た」
ガチャ。
音がした。宮間が後ろ手でトイレの鍵を開けた。
一歩後ろに下がって個室から出る。
「ごめん、せっかく誘ってくれたのに。亜季にはあやまっておいてくれないか」
「でも!」
椎はしっかりと顔を上げて、宮間を見据えた。
「でも、そういう能力を活用する道だってあると思います。宮間さん」
「……あの、椎ちゃん、これは病気で」
「病気じゃないと思います、私」
「え?」
宮間の体が固まった。
椎は宮間の手を握った。宮間が動揺したように身じろぎする。
椎は宮間の目を覗き込んだ。
「くわしくは言えませんけど、私このあいだ、人生一生分の驚きを使い果たしたんです。だからちょっとくらいじゃ驚かないし、きっとそれは病気じゃないです。だって宮間さんがその声を聞いているのは事実なんですから。今だって何か聞こえるんでしょ?」
「……」
宮間はうつむいた。
「でも……」
「宮間さん」
「うん?」
宮間がこちらを見る。
椎は首をかたむけた。
「あの、イクミって、どうやって書くんですか?漢字」
「漢字?」
さりげなく椎から離れて、宮間が眉をひそめた。
「育てるに実るって書いて育実。……なんで?」
「なんとなく訊いてみただけです」
椎は笑った。困ったような顔をされた。