強奪―2
夜も更けた頃。
カイネとローグは再び大神殿を訪れていた。
あの後、人混みの中で漏れ聞こえてきたことから察すると、歌を謳った少女がやはり『神の娘』シィンだった。説教をしたのは、神官長のキンクス。今の大神殿は、この二人で成り立っているようなものと思われた。
あの歌声と、説教と。
どちらがより重要なのかは、明白だった。
大神殿の外側は昼間のうちに見て回っていて、忍び込めそうなところも見つけてある。侵入者や襲撃者の存在など考えてみたこともないのか、豪華な建物にこっそりと入り込むのは、意外に簡単そうだった。
「よし、行くぞ」
まずは、カイネが両手を組んで作った足場を取っ掛かりにして、ローグが塀の上に登る。そうしておいて、彼が垂らした縄を伝ってカイネも後に続いた。
神殿の中は、呆れるほどに警備が薄かった。
カイネたちも警戒しながら歩いているとは言え、全く人の姿を見かけないというのは、どういうことなのか。
だが、彼らの疑問も解かるが、神殿側としてはまさか神の領域を侵す者がいようとは微塵も考えていないのだ。無防備なのも、当然と言えば当然のことだった。
とにもかくにも、カイネたちは誰にも見咎められることなく奥へ奥へと進む。
やがて二人は、一際大きな扉を持つ部屋へと辿り着いた。そこには、他の部屋にはなかったもの――張り番がいる。
「よし、アレを出せ」
カイネは張り番から目を離すことなく、声を押し殺してローグに指示を出す。彼は腰に下げた巾着を探ると、小瓶を二つ取り出した。カイネとローグはしっかりと布で口と鼻を覆うと、その瓶の中身を混ぜ合わせる。と、そこから微かに煙が上がり、次第に辺りに立ち込めていく。
隠れ里の薬師特製の眠り薬は、程なくして張り番を前後不覚に陥らせた。
カイネは目でローグに合図を送ると、先に立って歩き出す。
扉に鍵はかかっておらず、その大きさからは予想外にすんなりと、軋み一つ立てずに開かれた。スルリと身を滑り込ませ、すぐに閉める。
部屋は二間の続きになっていて、奥の方に大きな寝台が見えた。
そこにいるのは、神官長か、それとも――。
外への警戒にローグは入り口付近に残し、足音を忍ばせて、カイネは寝台に近付く。見えてきたのは、夜の闇の中でも仄かに光を放って見える、月の色の髪。
『神の娘』だ。
覗き込んでみると、その寝顔はあどけない少女のもので、とうてい、あの狂おしい歌を謳った存在と同じものとは思えなかった。
よほど深い眠りの底にいるのか、彼女はピクリともしない。
――本当に、生身の者なのか?
ふとそんな疑念が沸いたカイネは、無意識のうちに手を伸ばし、気付いた時にはその頬に触れていた。と、彼女の睫毛が、微かに震え、ゆっくりと目蓋が上がる。
しまった、とカイネの中に焦りが生じたが、少女は声を発することもなく、ぼんやりとした眼差しを彼に向けるだけだった。そして、再び、その目を閉じる。
確かに、彼女はカイネの姿を見た筈だった。
呆気に取られるほどの警戒心の無さに、カイネは眉をひそめてしまう。彼にとっては好都合だが、これほどまでに無防備でいいものなのだろうか。それが『神の娘』故なのか、それとも他の要因がある為なのかは判らないが、取り敢えず、彼はすべきことを済ましてしまうことにした。
背負った鞄から縄と布を取り出し、まずはそっと猿轡を噛ませる。
それでも、目覚めない。
次いで、縄で両手両足を縛り上げた。
が、やはり懇々と眠り続けている。
怪訝に思いながらもその身体を肩に担ぎ上げた。遠目で小さく華奢に見えたその肢体は、やはり、軽かった。
*
最初に異変に気付いたのは、当然のことながら護衛騎士であるラスだった。
朝、いつものようにシィンの下に赴いて、扉の前で眠り込んでいる張り番に眉をひそめる。今まで、こんなことはなかった筈だ。軽くゆすってみたが、目覚めそうになかった。胸騒ぎを覚えつつ奥の部屋に行き、そして、冷たくなった空の寝台に仰天した。
前日、確かこの手で彼女を寝台に横たえたのだ。それなのに、今、そこはもぬけの殻で、完全に冷え切っている。
入口に戻って眠りこけている張り番を今度こそ叩き起こし、キンクスの下へと走らせた。
いつもは静謐なこの神殿の最奥が、にわかに騒がしくなる。
「いったい、何事だ」
姿を現したキンクスは、ざわめきに不快そうに眉をひそめると、ラスに問うてくる。
「それが……シィン様が……」
何と答えてよいのか判らず、ラスは口ごもる。
埒が明かない護衛騎士にしびれを切らして、キンクスはラスを押しのけるようにして寝台に歩み寄った。
「『神の娘』は?」
ひやりとした、声。
室内の空気がピリッと音を立てたかのようだった。その一瞬で、部屋の中はシンと静まり返る。
「朝、自分が来た時には、もうおられませんでした」
一つ息を呑み込んでラスがそう答えると、キンクスは微かに唇を引き結んだ。もとより無表情なその顔が、より一層、内心を読みづらいものになる。
再び彼が口を開くまでには、しばしの時を要した。やがて発せられた言葉に、一同にざわめきが走る。
「『神の娘』は、神々の元へ帰られたのだ」
どよめく皆を睥睨して、キンクスは続ける。
「そうだろう? こんなふうに何の形跡も残さずに消え去るなど、神の力でしか為し得まい」
「しかし! しかし……何者かが侵入して連れ去ったということは……」
緊張を押し破ってのラスの進言に、神官長は冷ややかなまなざしを向けた。
「この神殿が無頼の者に侵され、その上、まさか、『神の娘』が人ごときに害されるとでも?」
「え、あ、いえ……」
それは、神の力を疑うことだ。ラスは返事をできずに口ごもる。
「シィンは、己の意志で消えたのだ。彼女がその気になれば、いずれ帰ってこよう。我々にできるのは、その時を待つのみだ。それまで、儀式も私一人で執り行う。皆には、シィンは神の下で祈りを捧げることになったと言っておこう」
キンクスは淡々とそう告げると、まるで何事もなかったかのように部屋から出て行ってしまう。まるで、シィンがいなくなったことなど、取るに足らないことかのように。
残された神官たちは、それぞれに顔を見合わせながらも、キンクスの言葉にさして疑問を抱いていないのは明らかだった。
――そういうものなのだろうか。
確かに、シィンは『神の娘』だ。だが、6年間を共に過ごし、彼女が特異な力を見せたことはなかった――あの素晴らしい歌声を除いては。むしろ、いつも茫洋としていて、侵入者に襲われても、何の抵抗もせず連れて行かれてしまいそうな気がする。
キンクスの後を追おうかどうしようかと迷っているラスの視界の隅に、先んじて部屋を出ていく一人の神官の姿が映った。確か、名はナムといったか、キンクスの腹心の筈だった。
少し迷った後、彼がキンクスに何か言うのならば、とラスも急ぎ足で追い掛ける。
意外に彼らは距離を稼いでしまったのか、部屋を出てすぐの廊下には、どちらの姿も見受けられなかった。
早く追いつかなければ、とラスも小走りで廊下を行く。
と。
少し先の廊下を曲がった先から、押し殺した低い声が聞こえてくる。感覚が鋭敏なラスでなければ、気付かなかっただろう。まるで人に聞かれることをはばかるようなその囁きに、自ずとラスの足も鈍る。角に身を潜め、耳を澄ませた。
「何度も言わせるな。あれは自らの意志で神の元へ帰ったのだ」
「しかし、蛮族どもが……」
「かどわかしたとでも? 奴らが襲うのは辺境の村が精々だ。ここまでは近付けまい」
「捜索隊だけも、出してみては――」
「くどい。そんなことをすれば、むしろ神殿の権威が失墜する。民は神の力に疑問を抱くだろう。この件は終わりだ。――いずれにせよ、あの頻度で儀式を行っていれば、そうもたなかっただろう。皆の前で醜態を晒すよりも、人知を超えた力で姿を消したとする方が、遥かにいい」
そして、遠ざかっていく足音。
たった今耳にしたあの会話は、いったいどういうことなのか。
ラスは身を強張らせて必死に考えた。その結果は、どう進めても、変わらない。
――キンクスは、シィンが消えたことを、憂えるどころかむしろ歓迎しているのだということは。
『もたない』とは、どういう意味だ。
それすらも、すぐに答えは出た。
儀式の度に、泥のように眠り込んでいたシィン。目覚めた後も、ぼんやりとして。
頻繁に儀式が行われるようになった最近では、目に見えて反応は鈍く、元々華奢だった身体は更に肉が薄くなり、明らかに衰えが見えていた。
ラスはそれに気付いていたが、気に留めなかったのだ。神を降ろすということは、そういうものだろう、と受け止めて。だが、『神の娘』であるシィンにとって、それが害になるとは思っていなかった。
だが、しかし。
今の二人のやり取りを振り返るに、短期間で儀式を繰り返すことがシィンにとって良くないことを、知っていたとしか思えない。
その瞬間、ラスの中には彼らに対する疑念が芽生えた。
真偽を明らかにするには、シィンを見つけ出さねばならない。
この時の彼からは、もう、彼女が神の元に帰ったなどという戯言を信じる気持ちは消え失せていた。
――シィン付きの護衛騎士ラスの姿が大神殿の中から消えたのは、その翌日の事である。




