まどろみ
大神殿の奥にある執務室。
神官長であるキンクスは、腹心の上級神官であるナムからの報告に、その繊細な眉を微かにひそめた。
怜悧で線の細いその容貌は、女性と見まがう美しさだ。よく手入れされた艶やかな髪は、腰ほどまでも伸ばされている。
「これは、どういうことだ?」
鋭く冷ややかなその眼差しに射抜かれて、報告をもたらしたナムは身をすくませた。一度唾液を呑み込んで喉を潤した後、問われたことへ回答する。
「は、それが……ここのところ、どうやら蛮族の襲撃が増えているようなのです。村が丸々潰されてしまっては、貢物を出せる者もおらず……」
「蛮族、か……」
この国は、最高神アーシャルが住むという、悠久のアシャルヌ川に与えられる肥沃な大地で富み栄えている。時にアシャルヌ川の氾濫で水害を被ることはあったが、気候も穏やかで、人が住むには最高の場所だ。そんなこの地を狙う者どもが頻繁に出没するようになったのは、比較的最近のことである。
「下賤の輩にこの地を侵されるとは、何とも嘆かわしい」
「は、神のご威光も恐れぬ不届き者で」
キンクスの射抜くような目から逃れるように、ナムは頭を垂れる。神殿に身を置く者にとって、神官長であるキンクスは、神と同等に――いや、もしかすると神以上に、恐れるべき相手かもしれない。彼の不興を買っていつの間にか姿を消していった者の数は、両手の指を使っても足りない筈だ。
人目を引く容姿故か、若くして神官長の座に就いたキンクスは、民の気持ちを捉えて放さない。更に、彼が神殿に連れてきた『神の娘』が巫女として儀式を行うようになってからは、その地位は不動のものとなっていた。
『神の娘』。
ナムは、その類稀なる存在に思いを馳せる。キンクスがその赤子を大神殿に連れてきた時のことを、彼は未だに鮮明に覚えていた。
月の色の髪、夜明けを迎える空の色の瞳。
その色から想起された月の女神の名を取って『シィン』と名付けられた乳飲み子は、16年が経った今、まさに夜空に浮かぶ月のような娘へと成長している。六年前から彼女を『巫女』として始めた儀式は、神殿が人心を籠絡するのに、これ以上はないというほどの威力を発揮してくれた。
だが、最近になって、そこに不協和音が忍び込み始めているのだ。
蛮族ども。
ナムは、忌々しげに内心で吐き捨てる。
神の力を恐れぬ不届き者どもが僻地の村々を襲うようになったのは、ここ数年のことだった。いずれ奴らには神罰が下るに違いないのだが、まだ、その時は訪れていないようだ。増える一方であった貢物の量は、徐々に減りつつあった。
そんな腹立たしい物思いにふけっていたナムは、自分に呼びかけるキンクスの声に気付いてハッと我に返る。
「は、何でしょうか」
「儀式の用意をするように。明日、執り行う」
「え、しかし……」
「何か?」
「その……」
サラリとした視線を向けられ、ナムは口ごもる。遥かに格上の者に対して意見をしても良いものだろうかと迷いながらも、意を決して先を続ける。
「その、一昨日も、儀式を行ないました。あれを使うのは、少なくとも5日はあけるようにと、薬師から言われているかと……」
「シィンは神の子だ。人の子とは違う」
「それは――」
そうなのだろうか。
ナムは口ごもる。だが、確かに、月の女神の化身でもあるシィンは、自分達とは違うのかもしれない。神官長であるキンクスがそう言うのならば、きっと、正しいのだ。
「……承知しました。では、明日にでも」
そうかしこまったナムに、キンクスは鷹揚に頷きを返す。その様は、彼はこの世の全てを承知しているのだと信じさせるに充分な、泰然とした態度だった。
「早速、支度に取り掛かるよう、他の者にも伝えます」
ナムは頭を下げて、執務室を後にする。入室前、野蛮な輩どもに侵されつつある脅威にかき乱されていた彼の心は、今は穏やかに凪いでいた。この国は、キンクスとシィンに任せておけば、大丈夫なのだ。二人がいる限り、最高神アーシャルの加護は約束されたものなのだから。
*
ナムが出て行くのを見送ったキンクスは、しばし考えにふけった後、執務室を出た。
美しい装飾が施された壁に囲まれた廊下を歩きながら、現状に思いを馳せる。
キンクスが神官になったのは16年前、彼が19歳の時だ。その頃住んでいた村は、しばしば北からの蛮族の襲撃に脅かされていた。襲われるたびに村から逃げ、ほとぼりが冷めた頃に戻り、散々に荒らされた村を立て直す。その繰り返しだった。
いつかはそんな生活から逃れたいと子どもの頃から切望していた彼の前に、その赤ん坊が現れたのだ。
恐らく、中原で安穏としている連中は見たことがないであろう『色』を持った子が。
キンクスは好機を逃さなかった。
その子が欲しいと言った彼に、母親はあっさりと赤ん坊を渡した。見るのもごめんだ、と言わんばかりの態度で。
それも当然だ。その『色』は決して祝福された者の証などではないのだから。
赤ん坊を連れたキンクスは、大神殿へと赴いた。
思ったとおり、その子を見たときの神殿の連中の感動具合と言ったら、まるで神そのものを目の前にしたかのようだった。
『神の子』をもたらしたキンクスは即座に上級神官の地位を与えられ、持ち前の才覚を存分に発揮した彼は、十年の時をかけて神官長という最高の地位まで昇り詰めた。『神の子』が予想以上に役に立ってくれたということもある。
そう、あの子があれほどまでに民の心を掴んでくれたのは、嬉しい誤算だった。
大神殿の最奥、一際豪奢な扉の前に立ち、キンクスはひっそりと笑む。
蛮族どもは、どこまでも付きまとってくる。くたびれた僻地の故郷から、遠く離れたこの輝かしい大神殿の中までも、その影はまとわりついてくるのだ。だが、あくまでも、それは『影』止まり。今ここに立つ彼には、手が出せる筈がない――手は出させない。ようやく手に入れたこの場所を、キンクスは何人にも侵させるつもりはなかった。
キンクスは両手を上げて、重い扉を押し開く。
と、隙間から、微かな旋律が漏れ聞こえてきた。
それに言葉はなく、歌っているというよりも少女という楽器を奏でているかのようだ。
キンクスが室内に足を踏み入れると、振り返ったのはシィン付きの護衛であるラスだった。生真面目な彼は、キンクスに向けて堅苦しく頭を下げる。
一方で、窓から外を眺めながら思いつくままに曲を口ずさんでいる少女は、彼が入ってきたことに全く気付いていないようだった。
「シィン」
少女の名を呼ぶ。が、ピクリともしない。
「シィン?」
もう一度、少し声を大きくして、呼ぶ。
と、歌声がふつりと止み、ゆるりと彼女が振り返った。
「神官長様」
焦点の定まらない眼差しが、それでもキンクスに向けられて、彼女はやんわりと微笑んだ。ぼう、としたその風情は、どこか違う世界を見ているかのようだ。
「気分はどうだい?」
歩み寄り、その頬に手を添える。
「わたし……? ……はい、良いです」
たとえ死にかけていようとも、彼女は『悪い』とは言わないだろう。恐らく、今の自分の状態が『良い』のか『悪い』のかの判断もつかないに違いない。幼い頃の、コロコロと良く笑い、このせまい部屋の中に留めておくのが一苦労だった彼女の姿は、跡形もなかった。見事に仕上がった、『人形』だ。
――そう、これは、私だけの大事な可愛い人形だ。
あるいは、籠の中に閉じ込められて飛ぶことを忘れてしまった小鳥だろうか。羽を切られたわけでもないのに、自分に翼があることを忘れた、小鳥。
微笑んだキンクスにつられるように、少女も笑みを深くする。
「明日、儀式をしようと思う」
視界の隅でラスが微かに身じろぎするのが見て取れたが、キンクスは構わずにシィンの反応を待つ。彼女は少し不思議そうに首をかしげてキンクスを見上げてきた。
「明日……?」
「そうだ。できるだろう?」
「はい……できます」
彼女は、『否』とは言わない――言える頭を持っていない。
だからこそ、愛しいのだ。
「いい子だね。儀式を……お前の歌を、民は待ち望んでいるよ。彼らに祝福をもたらす為に、しっかりと謳いなさい」
「はい、頑張ります」
キンクスの激励に、シィンは幼い子どものようにコクリと頷いた。そんな彼女を、彼は慈しむように目を細めて見下ろす。
傍から見れば、その様は、慈愛に満ちた父と彼を敬愛する娘のようだっただろう。
キンクスはもう一度片手を伸ばしてシィンの頬を撫でてやる。
「じゃあ、今日はよく休んで、明日に備えなさい。あまり喉を使ってはいけないよ」
「……はい」
遠回しに歌うことを禁じられ、シィンは一瞬口ごもったが、すぐに頷いた。
そんな彼女に、キンクスは満足そうに笑顔を向ける。
「お前の身体は、お前だけのものではないのだから、決して損ねることがあってはならないよ」
――そう、彼女の全ては、この私のものなのだ。彼女を慈しむのも……彼女を傷つけるのも、私以外の者であってはならない。
シィンは月、そして、キンクスは太陽だ。
月は太陽なくしては輝かない。
シィンも、キンクスの下でしか、存在してはならないのだ。
ほっそりとした彼女の頬から手を放し、キンクスは直立不動の姿勢を崩さないラスへと顔を向ける。
「では、神の子のことを頼んだぞ。しっかり守るように」
「は」
6年間変わらぬ態度の護衛騎士は、いつものようにかっちりと腰を曲げて一礼を返してくる。
そうして、キンクスは、この豪奢な鳥籠を後にした。
*
大きな扉が閉まり、部屋の中に漲っていた威圧感が消え失せる。神官長が放つ他を圧する空気は、呼吸をすることもはばかられるような気を起こさせるのだ。
ラスは密かに息をつくと、キンクスを見送っていた視線をシィンへと戻した。
見るたびに、その姿には感嘆を覚える。
彼女は、年を重ねるごとにその美しさを増していき、まさに月の女神の化身そのものになった。
だが、同時に、どこか不安を禁じ得なくなったのは、いつ頃からだろうか。
ラスが護衛を命じられた頃のシィンは、例えるならば満月の様だった。もっと、強い光を放っていたような気がする。今の彼女は同じ月でも新月を迎えつつある三日月のようで、知らないうちに消え失せてしまっているのではないかと思わせるのだ。
そんな不吉な物思いを振り切るように小さく頭を振ると、ラスはシィンの前にひざまずいた。
「シィン様、よろしいのですか?」
「何が?」
茫洋とした眼差しで、彼女が問い返す。
「儀式です。一昨日、したばかりでしょう? シィン様は、いつも儀式の後はお辛そうです。それなのに、こんなにすぐにまたやるなんて」
シィンを案じる想いと、彼女にこんなふうに無体を強いることへの憤りと。最近の彼女は儀式の後に2、3日眠り込んでしまうこともあり、ラスは心配でならなかった。
眉間にしわを寄せた彼に、シィンはやんわりと微笑む。
「それが、わたしの為すべきこと、よ? わたしがここに在るのは、民の為に神への祈りを捧げる為。それを奪われたら、わたしは存在できないわ」
「そんなこと……!」
思わず、声を荒げそうになり、自制する。ラスにとっては、そんなことはなかった。ただ、シィンが健やかにあること、それだけで充分なのだ。きっと、他の民もそう思うに違いない。
きつく拳を握り締めたラスへ、聞き分けのない子どもに向ける笑みを浮かべながら、シィンが説く。
「わたしは神の子。神をこの身に降ろす為に生を受けたの」
淡々と、抑揚のない物言いで、そう断言する。
それは、シィンの口から、シィンの声で発せられた言葉。
だが、本当に、彼女自身のものなのだろうか。
シィンが神の子であることは、真実だ。ラスもそれは疑わない。けれども、彼女の口からこぼれる言葉は、本当に彼女自身のものなのだろうかと、ふと疑念に駆られる時がある。
不意に、かすかに耳に届けられる、小さな歌声。
それは窓の外へと視線を流したシィンから、響いてくる。
神官長に禁じられても禁じられても、抑えきれないその歌声。
ラスには、それだけが本当の彼女のような気が、した。




