再会
「シィン様、覚悟はよろしいですか?」
アシャルノウンの町を一望する丘の上で、馬上で腕の中にいるシィンにそう声をかける。彼女の目は、整然と建物が並ぶ街並みと、その中心に鎮座する巨大な大神殿に注がれていた。
ラスには、彼女が危険を冒す理由が見いだせない。
もしもシィンが「やっぱり止める。ここから逃げ出したい」と一言こぼしてくれたなら、即座に踵を返してどこか遠くに連れ去ってやれるのに。
彼女はこれまで、過剰な責務を果たしてきたのだし、更なる重責を負わせるのは間違っていると思っていた。
だが、当のシィンは、そんな彼の思惑を一蹴する。
「いつでもいいよ。早く行かなくちゃ、みんなが来ちゃう」
肩越しに振り返った強い決意を秘めた眼差しが、真っ直ぐにラスを射抜く。
小さく息をつくと、ラスは手綱を引いて、馬首を巡らせた。
*
忽然と姿を消した『神の娘』シィンの突然の帰還に、大神殿の中は喜びで沸き返っていた。
「よくぞ……よくぞ戻られた!」
「ごめんなさい。心配かけました」
シィンは群がる神官たちに笑みを向けながら、目ではキンクスの姿を探す。彼は、黒山の向こうに、いた。いつものように、穏やかで冷ややかな笑みを浮かべて。
キンクスが足を進めると、自ずと人山が動き、道ができる。それは、彼が神そのものであるかのようであった。
「お帰り、必ず戻ってくると、信じていたよ」
シィンの前に立ったキンクスは、彼女を見下ろして柔らかく微笑む。かつては、その笑みを、シィンは慈愛に満ちたものだと思っていた。だが、あの里で本物の笑顔に出会ってからは、キンクスのその目の中に温もりは存在していないことが判るようになってしまったのだ。
「お話があります――二人きりで」
注がれる眼差しを真っ直ぐに受け止め、シィンは顔を上げてそう告げる。キンクスが神殿そのものなのだ。彼を説得しなければ、神殿は動かない。
毅然とした彼女の態度に、キンクスが微かに目を見張るのが見て取れた。そして、一瞬よぎった、苦々しげな光も。だが、不穏な色は即座に一掃して、彼は鷹揚に頷いた。
「いいとも。私も色々訊きたいからね」
そうして先に立って歩き出したキンクスの後に、シィンが、そしてラスが続く。
大神殿の中は、以前と変わらず美しい。だが、外の世界に触れ、この美しさの下に隠されているものを知ってしまった彼女には、きらびやかな装飾も、磨き抜かれた白壁も、全てが色褪せて見えた。
やがて三人はキンクスの執務室に着く。先にキンクスが部屋に入り、そしてシィン。ラスが続こうとしたところで、シィンが戸口で振り返った。
「ラスはここで待っていてね」
「しかし……」
ちらりと部屋の中で待つキンクスに視線を走らせて心配そうな眼差しを向けてくるラスに、シィンは彼を安心させるように笑って見せる。ラスが傍に居てくれれば心強いが、その分、無意識のうちに頼ってしまいそうな気がした。キンクスを説き伏せるには、ほんのわずかな弱さも見せてはならないのに。
「お願い」
更に言葉を重ねられ、ラスはいかにも気が進まなそうに頷く。
「わかりました。でも、ここに立っていますから、何かあればすぐに呼んでください」
あの会話を耳にしてしまったラスには、この神官長が見た目通りの仁徳者だとは思えなくなっているのだ。いや、むしろ、シィンにとっては危険な存在であると認識していた。
「ふふ、ありがとう」
シィンはそう笑うと、スッと手を伸ばして彼の頬に触れる。
「じゃあね、待っててね」
そうして、扉を閉ざす。
一度大きく深呼吸をして、シィンはキンクスに向き直った。
「それで、話とは?」
穏やかな、いつもと全く変わらぬ口調で、キンクスが水を向ける。シィンは数歩彼に近付いて、口を開いた。
「神官長様は、アーシャル様を信じておられるのですよね?」
脈絡のない彼女の問いに、キンクスは怪訝そうに眉根を寄せ、そして答えた。
「――無論。何故、そんなことを?」
彼の返事は、表面的に捉えるならば、肯定だった。けれども、答えの前に置かれた微かな『間』に、シィンには何かが含まれているように思われてならない。
「わたしは、アーシャル様のお力を信じていました。わたしが祈りを捧げることで、アーシャル様がその御手を伸ばされ、みんなが幸せになれるのだと」
「その通りだ。違うか?」
くるみ込むような、キンクスのその声、その眼差し。
以前なら、シィンも容易にそれを受け入れていただろう。
だが、今の彼女は首を振る。
「いいえ。わたしはここから出て、外の世界を目にしてきました。神殿から離れて暮らす人たちの事を。その人たちは、アーシャル様のお力にすがらず、自分たちの力だけで、ちゃんと暮らしています……この町の人たちよりも、生き生きと。わたしたちは、アーシャル様のお力を頼りにし過ぎているのではないでしょうか? アーシャル様が必要ない、というのではありません。心の支えとして、やっぱりアーシャル様はなくてはならない存在です。でも、もっと、人の力を信じて、わたしたち自身の力で生きるようにするべきだと思うのです」
拙い言葉で、シィンは懸命に言い募る。キンクスはそんな彼女を、うっすらと笑みを刻んだまま、ヒタと見つめている。
「じきに、わたしが出会った人たちがここにやってきます。彼らは、自分たちの手で、未来を創っていこうと考えている人たちです。決して、神殿に仇なそうというわけではありません。根本にあるものは、わたしたち、神殿で祈る者と同じこと。ただ、みんなを幸せにしたい、みんなで幸せになりたい、ということ。彼らと話し合って、より良く生きる為の道を、共に歩んで行きたいのです」
胸の中に溜め込んでいたものを全て吐露し、シィンは口をつぐむ。キンクスはというと、何かを考え込むかのように、軽く目を伏せていた。
応じてくれるのだろうか。
――みんなの幸せを願っている彼なら、きっと、良い道を選んでくれる筈だ。彼らと話し、その現状を知って、きっと、みんなの為になる道を選ぼうとしてくれる。
シィンは、そう信じていた。
だが。
耳に忍び込んできたその声に、眉根を寄せる。それは、笑い声――優しさや温もりは微塵も感じさせない、嘲笑だ。
キンクスが、伏せていた顔を上げる。その目に浮かぶものに、思わずシィンは後ずさった。
「随分、余計な知恵をつけてきたものだな。まったく……時を費やして最高の人形に仕上げてきたというのに」
冷ややかに投げつけられた、言葉。その響きに、シィンの背筋にぞくりと震えが走る。
「神官長、様……?」
「『皆』の幸福など、知らんよ。私が欲しいのは、『私の』幸福だ」
一瞬、シィンには、目の前に立つ人物がいったい誰なのか、判らなくなった。確かに、姿かたちは長い間崇拝し、慕ってきたキンクスのもの。だが、その中身は、いったい何者なのだろうか。
言葉のないシィンに、キンクスはうんざりした口調を隠さずに、続ける。
「人は皆、己の幸福のみを望んでいるものだよ。しかも、安易にな。だからこそ、くだらん神などにもすがる。私が神の力を信じているかだと? 無論、そんな筈があるわけがなかろう。神がいったい何をしてくれるというのだ?」
「でも……でも、神官長様は、あんなに祈ってらっしゃったではないですか!」
「埒もない言葉を並べるだけで手に入るからな、私の幸福は。甘く耳に心地よい口上を並べるだけで、皆私に心酔し、私を豊かにしてくれる。お前とて、そうだろう?」
「え?」
唐突に話を振られて、シィンは戸惑う。話の脈絡が掴めなかった。
心の揺れが現れている彼女の目を見つめながら、キンクスは楽しそうに、嘲る。
「お前も、自身の幸福の為に祈りを捧げていたに過ぎん。そうだろう? お前が祈れば、皆がお前を崇拝する。お前はそれで、己に価値を見いだせる」
ぐらりと揺れたシィンの腕を、蛇のような素早さで伸びたキンクスの手が捉える。そして、彼女の耳元で囁いた。
「お前自身に価値はない。『神の娘』などと、口にするたび、笑いたくなるのを堪えるのが一苦労だったよ。『神の娘』? バカらしい――お前は、蛮族との間でできた、ただの人の子だ。お前の母親は、喜んでお前を私に渡したよ」
突如もたらされたその事実に、シィンは目を見張る。果たしてそれが真実なのかどうかは判らない。けれども、その時キンクスの目にあったのは、獲物をいたぶる猫のような色だった。
「ラ――!」
身をよじり、声を上げてラスを呼ぼうとしたその口を、キンクスの手が覆った。しなやかな形にそぐわない力で、彼女の鼻も口も閉ざしてしまう。
「『神の娘』の最後の仕事だ。その身を神に捧げてもらおう。何、怖がることはない。本当に殺したりはせぬよ。今まで通り――いや、神殿の更に奥深くで、生かしてやろう。そうして、私の子を産めばよい。美しく、愚かな人形を。その子を、新たな『神の子』としよう」
息苦しさに遠のく意識の中、シィンの目に最後に映ったのは、心底から愉しそうな、キンクスの笑みだった。
*
自分の名を呼ぶシィンの声が聞こえたような気がして、ラスは寄り掛かっていた壁から身を起こした。耳を澄ましてみたが、何も聞こえない。
気の所為だったのだろうか。
そう思おうとしたが、胸騒ぎは強くなる一方だ。
ラスは意を決して扉に手をかける。神殿の扉には鍵などついておらず、執務室もその例外ではなかった。
開いた隙間からも、物音は何も聞こえてこない――話し声さえも。
一気に押し開けたラスに、キンクスが振り向いた。その腕には、力を失ったシィンの身体がある。
「神官長!?」
咄嗟に駆け寄ろうとしたラスの目の前で、キンクスは、空いている方の手をシィンの首に添えた。
「止まれ」
「何を……」
「この細首。私の力でも簡単に捻れそうだな」
ラスには、即座には、そのセリフの意味するところを理解することができなかった。
「!」
その意図を察した瞬間、音を立てて血の気が引く。
ただの神官、一気に距離を詰めてしまえば、シィンを傷つけることなく助けることができるだろう。何の訓練もしていない人間が、そんなに簡単に人を殺せるわけがない。そう思っても、ラスは動けなかった。目の前に立つ優しげな男を、「普通なら」という言葉に当てはめてはいけないような気がしてならなかったからだ。
キンクスから発せられる異様な威圧感に気圧されて、ラスは一歩も動くことができずにいる。
ギリ、と奥歯を噛み締めたラスに、キンクスはいかにも優しげに微笑みかける。
「ご苦労なことだな。こんな人形ごときに構わず、私を斬ってしまえばいいのに」
その言葉とともに、いつの間に合図をしたのか、十数人の衛兵が部屋になだれ込んでくる。
「その男は護衛騎士でありながら『神の娘』を唆した者だ。捕らえて、そうだな、『神の娘』の部屋にでも閉じ込めておけ」
言い捨てると、キンクスはシィンの身体を抱え上げて部屋から出て行ってしまう。
自分は、あの男をおかしいと思っていた筈なのに、何故、シィンの傍を離れてしまったのか。
数名の男に床に押し付けられ、為す術もなくその後ろ姿を見送るだけのラスは、己の浅はかさに臍を噛む他なかった。