入学当日.2
(ああ、夢だったんだ……)
浮上してきた意識の底で、セイショウはぼんやりと思った。
突然、怪物に襲われて連れ去られる夢を見るなんて、まったくどうかしている。突拍子もない夢を見るのは、別に珍しいことではないけれど。
目を閉じたまま苦笑して、寝返りを打つ。フカフカとした心地よい寝具が、セイショウの体重を受け止めて柔らかく沈んだ。
「……?」
その感触に違和感を覚え、セイショウは手で寝具を撫でまわした。
手触りが滑らかで、温かく弾力がある。おかしい。こんな上質な寝具のある下宿に滞在できるほど、自分に財力は無い。おまけに、何だか上下しているような……?
このまま安眠に身を委ねていたいという欲求を抑え込み、目を開けたセイショウは、声にならない悲鳴を上げた。
自分を連れ去った怪物の顔が、どアップで視界に飛び込んできたのだ。瞬間的に身体中の毛穴から冷や汗が吹き出し、もちろん眠気など跡形もなく吹き飛んでいた。
じっと見つめてくる黒い巨大な瞳から目をそらすこともできないまま、セイショウは自分の置かれている状況を理解した。なんと彼は、この巨大な生物の腹を枕にして眠っていたのだ。そして怪物は、首を巡らせてセイショウを見つめながら、穏やかに呼吸をしていた。
(一体なぜこんなことに?!)
滝のような汗をだらだらと流しながら、緊張で身を固くするセイショウ。
すると怪物は、目を細めて「くるるる……」と小さな音で喉を鳴らした。
「ああ、気がついたのか?」
声とともに、ひんやりする手がセイショウの頬に当てられた。かがみこんで彼の様子を伺っているのは、あのストロベリーブロンドの髪の女性だ。
彼女の長い髪が垂れ下がり、怪物からの視線を遮ってくれたことに、思わず安堵のため息をつくセイショウ。女性は掌を彼の額に移動させて、表情を曇らせた。
「寝汗をかいているな……無理もない。今日は暑いからな」
(ちがぁーう!)
断じて違う。寝汗じゃない、冷や汗だ。と言うかこの状況を説明してくれ!
心の中で色々と突っ込みを入れるセイショウだが、心配そうなペールブルーの瞳に見下ろされると、口に出すことは出来なかった。
「今日はそんなに暑くないぜ?」
背後から聞こえた男の声に、女性はセイショウの側にかがみこんだまま声の主を振り返った。
セイショウも目だけ動かしてそちらを見る。がっしりとした身体つきの男が、長い脚を組んで椅子に座っていた。口調も表情も、どこか皮肉っぽい雰囲気をたたえた男だ。
「そうか?」
「ああ。だがそのまま、もふもふの腹の上に居たら暑くなるだろうけどな」
「それはそうだ」
女性は男の言葉に頷くと、セイショウに手を差し出した。
(もふもふ?)
疑問に思いながらも、その手を借りて身体を起こすセイショウ。向かい合って立ってみると、女性はセイショウよりも背が高く、見下ろされる形になった。
「ありがとうございます。あの……」
何がどうなっているのか知りたい。けれど、どうやって話を切り出せば良いのだろうか。
(この怪物に僕を襲わせませんでしたか? ……まさかね)
セイショウが悩んでいると、女性は彼の手を握ったままニッコリと笑った。
「私はベル・クインだ。よろしく」
「あ、はあ。よろしく」
「俺はソル。狩猟担当だ。よろしくな、セイショウ」
「え。なんで僕の名前……」
なにやら不可解な単語があったような気がするが、それよりも、この男が自分の名前を知っていることの方が気になる。
「ああ。ちょっと借りたぜ。入部届に名前を書くためにな」
ぽーんとソルが投げてよこしたものは、今日もらったばかりの学生証だった。慌ててそれをキャッチするセイショウ。
「入部届?」
ソルは椅子から立ち上がると、怪訝な顔のセイショウの目の前で、持っていた羊皮紙を広げて見せた。セイショウは一番上に書かれた大きな文字を、声に出して読む。
「魔法生物研究会……」
「そう。今日からお前は新入部員だ」
「はあ?」
要領の得ない顔で、セイショウがソルを見上げる。
「僕、入部するなんて一言も言ってませんけど」
「仕方ねーんだよ。もふもふがお前のこと気にいっちまったから」
がりがりと頭をかきながら、面倒くさそうにソルが言った。その傍らに立つベルが、真面目な顔で頷きながら口を開く。
「正確に言うと、もふりーなの方だ」
「あの、何ですか? もふもふ……もふりーな?」
セイショウがそう言うと、返事をするかのように、甲高い「きゅるるるっ」という声が聞こえた。振り向くと先ほどの獣が、仰向けになって床に身体をこすりつけている。
「見ろ。もふりーなもあんなに喜んでいる」
「俺には見分けがつかねーんだよ」
嬉しそうに指をさすベルに、ソルが呆れたような顔を向けて言った。
察する所、あれが「もふりーな」という生き物らしい。この2人の会話から、どうやら自分がこの獣に気に入られたらしいことが分かるが、だからと言ってなぜ入部につながるのだろう。
「ああ、悪い悪い」
何か言いたそうなセイショウの顔に気づいたソルが、軽い口調で謝りながら向き直った。
「あー……要するにだな、ここに居るベルが」クイっと親指でベルを指す。「もふもふ達に乗ってる所を見られるのは、非常にマズイことなんだ。で、秘密を守ってもらうために、この部に入ってもらおうっつーわけ」
ベルも頷きながら説明に加わる。
「最初はもふもふに頼んで、君の記憶を消そうとしたのだ。しかし、もふりーなが反対してな。いきなり君の捕獲に走ったのだ。……私の命令をもふりーなが聞かないなんて、初めてのことだった。君はよほど気に入られたらしいな」
口調は穏やかだが、ショックを受けたことを隠しきれていない。微笑みを浮かべてはいるが、「記憶を消そうとした」の辺りで、目が不穏に光ったのを見逃さなかったセイショウは、思わず逃げ腰になった。
「しっかし恐怖のあまり失禁しなくて良かったぜ。野郎のズボンなんて脱がしたくないからな」
にやりと口の端を歪めて、からかうようにソルが言った。むっとするセイショウだったが、話をはぐらかれそうになっていることに気づいて、慌てて自分を落ち着かせる。
「それだったら別に入部しなくても……僕、誰にも言いませんよ」
「『憂いの種を1つでも残しておけば、いつの間にか成長した蔓に絞め殺される』。兵法の基本だな」
あごの無精ひげを撫でながら、ソルが古典を引用した。その意外な知性にセイショウは驚きの声を上げる。
「あんた……ひょっとして学生だったのかっ?!」
「何だそれは。俺を何だと思ってた。つーかお前、いきなりキャラが変わったな! それが本性か!」
「ただのチンピラか、金で雇われた傭兵だと思ってたよ!」
「てめぇ、魔法戦士様を捕まえて失敬な!」
「魔法戦士ぃ?!」
セイショウの声が裏返った。
魔法戦士と言えば知性と教養、そして魔力を兼ね備えた存在だ。肉弾戦で戦うことはなく、知力と魔法で戦況を覆す頭脳派戦士。つまりインテリジェンス中のインテリジェンス。
しかし目の前の男は、がちがちの「肉体労働!」な身体つき。粗野で乱暴な口調といい、どう見ても胡散臭い外見といい、傭兵にしか見えない。
セイショウの中で魔法戦士に対するイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
がっくりと肩を落としたセイショウの背中を、まあまあとベルが慰めるように撫でる。
「そう気を落とすな。信じられないだろうが、確かにソルは魔法戦士だ。それも優秀な。……信じられないだろうが」
「おいこら。何で2回繰り返した」
ソルの睨みつける視線を無視して、ベルは話を続ける。
「私たちは君を信用していないわけじゃないんだが……もふもふが、どうしても君を目の届くところに置いておきたいというのだ」
「もふもふが……?」
顔を上げたセイショウに、ベルが頷いた。
ちらりと視線を背後にやると、白い毛の獣はすやすやと気持ち良さそうに眠っている。
「あれはもふりーなだ。実は、もふりーながあまりにも君を気に入ったものだから……その……もふもふが嫉妬してな。もふりーなはもふりーなで君を手放したくないと言うし、もふもふは君を監視したいと言うし……」
言いにくそうに続けられた言葉に、セイショウは頭を抱えて脱力した。
獣に気に入られて、更に嫉妬までされる僕って一体……。
(監視なんかしなくたって、獣相手に何をするって言うんだ!)
「まあ、そんな経緯なんだが。私たちとしては仲間が増えるのは大歓迎だ。君が入部してくれたら嬉しいよ」
にこり、と微笑むベル。だがセイショウは、その笑顔に騙されはしなかった。
「……そもそも貴女があんな迂闊に飛び回ってたせいじゃないですか」
びし、とベルの笑顔が凍りつく。
「その通りだ。普段から気をつけるように言ってるんだがな。こいつ、移動が面倒くさいとか言って聞きゃしねぇんだ」
ソルがベルの頭を、拳でこづいた。
「し……しかし! 今まではちゃんと目撃者の記憶を消していたのだから、問題ないだろう」
「……で? 今回、例外が発生して面倒くさい事態になったわけだ」
「うっ……」
顎を上げたソルに見下ろされ、言葉につまるベル。
彼女を初めて見た時は人間離れした神々しさまで感じたものだが、こうして地上で改めて見ると、意外と子供っぽい人だなとセイショウは思った。
ソルは明らかにベルをいじめて遊んでいる。2人の間に漂う雰囲気から察するに、こんなやり取りは日常茶飯事なんだろう。
「言っときますけど、僕、クラブ活動なんかしている暇ないですよ。学費も生活費も稼がなきゃいけないんですから」
このままでは自分の存在を忘れ去られそうだと思ったセイショウが、憮然とした表情でソルに言った。
1年分の学費を貯めて留学してきたが、生活費は自分で稼がなければならない。もし1年後に、まだ勉強を続けたいという気になった時のために、そこから先の学費も備えておかねばならないだろう。叔母を頼ればポンと全ての費用を出してくれるだろうが、それだけはしたくなかった。
コセキへの留学が認められた時から、勉強とバイト以外はしない覚悟だ。たとえ謎の生物に好かれたからと言って、それは変わらない。
「そんなわけで入部はお断りします」
「金になるぞ、うちの部は」
ぺこりと頭を下げて、さっさと戸口に向かって歩き出したセイショウは、ぼそりとソルが呟いた一言を聞いて動きを止めた。
「そんじょそこらのバイトじゃ稼げないぐらいの金が手に入るんだがなぁ。しかも、どんな仕事よりも効率的に稼げるぞ。学費も生活費もすぐ貯まる」
首だけ巡らせて、ソルを凝視するセイショウ。ソルは何気なさを装って彼に近づくと、1冊のノートを広げた。
「ちなみにこれが、昨年のこの部の収益だ」
「……!」
そこに書かれた金額に、目を瞠るセイショウ。この部に何人の部員が居るか知らないけれど、全員で分けたとしても、かなりの金額になることは間違いなかった。
「で、どうする? お前の入部届はまだここにある」
「……性格悪いですね」
フフンと笑うソルを上目使いで睨みつけた後、セイショウは苦々しげな顔で視線を逸らせてため息をついた。
「……分かりました。入部しますよ」