休み明け.2
白目を剝いたベルが後ろに倒れ込む。
「姫!」
「きゃ~っ!」
カイとメーイが悲鳴を上げる中、セイショウは考える前に飛び出していた。だが何かに足を取られ、「なあっ!?」と声を上げながらつんのめる。
ベルの身体を支えるために伸ばしていた腕は、セイショウが受け身をとるために使われた。両手が床に叩きつけられて「びたん!」と大きな音を立て、どれだけ勢いよく倒れ込んだのかが分かる。鼻先は床すれすれの所にあった。
どっと冷や汗が噴き出たセイショウは、だがすぐに「ベル!」と慌てて顔を上げる。
彼の目の前で、意識を失ったベルがもふりーなの背中に横たわっていた。メーイが「ベルちゃぁ~ん」と泣きべそをかきながらその身体にすがりついている。
ほっとしたセイショウが自分の足を見下ろすと、足首にがっぷりと噛みついているもふもふと目が合った。
「……お前な……」
そこまで嫌か。僕がベルに触るのが。
牙は立てられていないので怪我はないが、その強力な顎でがっちりと固定されて、足はびくともしない。
「……」
もふもふは剣呑な目つきでセイショウを睨みつけている。だがセイショウも今回は引かないつもりだった。もふりーなが間に合わなければベルは頭を打っていただろう。
無言で睨み合う1人と1匹。だが突然、何かが風を切ってもふもふの顔面に当たり、彼は「ぎゃん!」と叫んでセイショウの足を離した。
セイショウが視線を戻すと、背中にベルを乗せたままのもふりーなが、「ふん!」と鼻息荒くもふもふを睨みつけていた。
もふりーなはその長いしっぽで、もふもふの顔を打ち据えたのだ。しかも的確に目元を狙っており、かなり痛かったのだろう、もふもふの目には涙が浮かんでいた。
彼は恨めしそうな顔でもふりーなを見つめていたが、彼女が尻尾を床に叩きつけながら「ぐるるる……」と低い声で唸ると、ふてくされたような顔でそっぽを向いた。
「……僕、神獣の夫婦喧嘩って初めて見たよ」
「もふもふって~尻に敷かれるタイプなんだね~」
「セイショウ君が来るまでは二匹とも仲が良かったのに……」
「僕は被害者です!」
カイの言葉にセイショウが抗議の声を上げる。
わけが分からないまま神獣に惚れられ、そのせいで夫婦の間に軋轢が生じようとそれは自分のせいではない。むしろ迷惑を被っているのはこちらの方だと声を大にして言いたい。
手の平がジンジンと痛んでいなければ、床を叩いて自分の主張を訴えているところだ。
「でも~。どんなに『向こうから誘ってきたんです!』って言っても~、間男に対する世間の目は冷たいよ~?」
「誰が間男ですか、メーイ!」
「人妻に手を出す時はもっと上手くやらなきゃダメだよ、セイショウ君」
「……カイ。訳知り顔でウインクされると殺意が沸きます」
好き勝手なことを述べる2人に、床に倒れた姿勢のまま反論していたセイショウだったが、そこでようやく自分の身体が自由になっていることを思い出した。
立ち上がって服の埃をはたき落としながら「……そんなことよりベルの様子は?」と呟くと、カイとメーイは「はっ!」と目を見開いてベルに顔を向けた。
「ベルちゃん~、ベルちゃん~」
カイとセイショウはベルに触れられないため、メーイが小さな手でぺちぺちとベルの顔を叩いた。
ベルの顔は真っ青になっており、伏せられた瞳はまつ毛1本ですらピクリとも動かない。
「どうしよう~……目が覚めないよ~……」
困り果てたメーイが呟いた、その言葉を言い終わらないうちに。
背後で様子を見ていたもふもふが、顎を空に向けて笛の音のような鋭い音を立てた。
それはセイショウが初めて聞く音だった。一体なんだろうと訝しがるセイショウの隣で、今度はカイの顔色がさっと変わる。
「わああ、もふもふ! 何てことを!」
「どうしたんですか? カイ」
「もふもふが緊急警報を……ああ、どうしよう、こんなところにアイツが来たら……」
オロオロと狼狽えるカイ。「アイツ?」とセイショウが聞き返そうとした時。
何か重いものが落ちたような音が聞こえ、振り向くとソルが床に膝をついていた。ちょうど高い所から飛び降りたような恰好だ。
ソルは顔を上げ、セイショウたちの顔を順番に見つめ――倒れているベルの所まで来ると、その視線はピタリと止まった。
「…………誰がやった?」
低い声で呟きながらソルが立ち上がる。同時にその背中から黒い靄が立ち上った。
魔力は放出される際に、色となって現れる。色は人によって様々だが、その者の生まれや性格には関係なく、何の法則性もなく先天的に決まっているというのが通説だ。
つまりソルの魔力が黒色なのは、別に彼が腹黒なせいではない。ないはずなのだが……。
(ここまでピッタリな色だと関連性を疑いたくなるよな……)
冷静にソルを観察していたセイショウは、こっそり心の中で呟いた。
立派な体躯でいかつい顔のソルが黒い靄を背負うと、それはもう物凄い迫力である。気の弱い者ならば、滲み出る威圧感で腰を抜かしてしまっただろう。
いつの間にかセイショウの背後にくっついていたカイが、生唾を飲みこんだ。ふと足元に気配を感じて視線を落とせば、メーイもセイショウの膝にしがみついている。
なぜ皆、自分のところに来るのだと思いながらも、まあ固まりたくなる気持ちも分かると納得しつつ、セイショウはソルの目を見つめて口を開いた。
「やったのはカイです」
「ちょっとセイショウ君!?」
慌てふためくカイに、ソルの視線が突き刺さる。
「……正確に言うと、カイの持っていた『それ』です」
背後でカイが発する「ひどいよセイショウ君、僕を売るなんて……!」という恨み言を聞き流しながら、セイショウは顎で机の上を示した。
ふたを開けたままの香水の缶が、その上に乗っている。
ソルが背負っていた靄がふっと消える。彼は無言のまま台に近づくと、香水を取り上げた。指でつまみ上げた缶を目の高さにまで上げ、光にかざすようにして眺めている。
「カイがベルにそれを差し出したら、気絶したんですよ」
「……まったく」
セイショウの説明を聞きながら、ソルは舌打ちをした。そしてぞんざいな手つきで缶のふたを取り上げて元通りに締めると、カイに放り投げる。
「ちょっと、高いんだよコレ!」と両手で受け止めながらカイが声を上げた。
その叫び声を無視してソルは振り返ると、ベルの側にしゃがみこんだ。
「おいコラ。起きろベル」
ベルの耳元で不機嫌そうな声をかけるソル。しかし彼女は、相変わらず深く昏倒したままだ。
「起きろテメェ」
ソルがベルの頬を引っ張る。随分と乱暴だが、もふもふはじっと静かにソルを見つめている。セイショウやカイと違い、ソルのことは信用しているのだろう。
何を基準に神獣が人間を判断しているのか知らないが、腹黒で悪評の高いソルよりも信用されていないと思うと、なんだか釈然としないセイショウだった。
しばらく頬を引っ張られたり叩かれたりしていたベルは、それでも目を覚まさなかった。
再び舌打ちするソル。彼はベルの腕を掴んでグイと抱き起すと――。
「いっ!?」
なんとベルの顎を掴んで強引に口を割らせると、そこに深く自分の舌を差し入れたのである。
あまりの光景に硬直するセイショウ、カイ、メーイ。
何が何だか分からないまま呆然と二人のキスシーンを眺めていたセイショウだったが、そのうちにふと、ソルの口からベルの口の中へ黒い靄が流れて込んでいるのに気がついた。
徐々にベルの頬に赤味が戻って来る。彼女の舌は無意識のうちにソルの方へと差し出され、それに絡みつくようにして靄がベルの体内へと引き込まれていく。
「……ん……」
セイショウたちが、ソルが何をしているか理解したものの、目のやりどころに困って居心地の悪い思いをたっぷりと味わった頃、やっとベルが目を開けた。
「……起きたか」
「ああ。すまない、ソル」
唇が触れるか触れないかの距離でソルと目が合ったベルは、瞬時に彼が何をしたのか理解したらしい。
いたって冷静な様子で迷惑をかけたとソルに詫びた。
「まったくだ! いくら巫女だからって、いい加減に慣れろ!」
一方、かなりの量の魔力を消費したはずなのに、ぴんぴんしているソルはベルを立ち上がらせると、雷を落とした。
ソルの行った治療法は、相手の体内に自分の魔力を行き渡らせて気脈の流れを活発化させてやる方法だ。非常に高度な技である上に、下手をすれば共倒れになってしまうほどの魔力を必要とするため、この魔法を使える人間は少ない。
さすが魔法戦士だとセイショウは素直に感心した。同時に、ソルの体力と精神力はどれだけ常人とかけ離れているのだろうと思ってしまったが。
しゅんとうなだれたベルは、大人しくソルの説教を聞いている。
ソルの話の内容と聞くとはなしに聞いていたセイショウは、どうやら彼がこの治療法を今までに何度も繰り返してきているらしいことを知った。
「ずるいよソル。あんな濃厚なキスを姫と何度もしてるなんて!」と声を上げたカイは、ソルに殴られそうな気配を感じると、慌ててセイショウの背中に隠れた。
「バカなことを言ってないで。カイ、その香水、しっかりフタをしといて下さいよ」
「ああ、うん」
セイショウが言うと、カイは素直に頷いて香水をポケットの奥深くにしまった。
どうやらこの香水には動物性の材料が使われていたらしい。この場に居る全員がそう察していた。だからこそベルが気絶したのだ。
巫女として生まれついた宿命らしいが、ベルは魔物・動物・神獣と意志の疎通が出来る。
それゆえに彼女は動物性の製品に拒絶反応を示す。
ベルにとって動物たちは、同じ言葉を交わすことのできる相手。彼等の性格も個性も把握できるから、その肉を食したり革製品を身につけることが出来ない。先ほどの香水のように、たとえ動物性のものが使われていると知らなくても、その気配を感じ取ってしまうのである。
ベルがカイを苦手とするわけも――彼の性格も原因の1つではあるが――料理には動物性の食材が多いことが最大の理由だ。カイもベルが部室に居る時は料理を控えている。
セイショウが同情の眼差しをベルに向けた。
彼女の体質をわが身に置き換えて考えてみれば、もし自分が動物たちと普通に会話が出来るならば、はたして彼等の肉を食べることが出来るだろうかと悩んでしまうからだ。
けれどソルに言わせると、ベルのそれは精神的な弱さのせいだという。
彼女が身を置くオルゴ教は、動物の殺生を禁ずるものではない。歴代の巫女は当然動物たちと意志の疎通が出来たけれど、普通に肉食も行っていた。だからこれは気の持ちようで乗り越えられる試練なのだというのがソルの主張だ。
彼はベルの弱点を克服させるために魔法生物研究会を造り、強引に彼女を部長に据えた。
人を疑うことを知らないベルは、ソルに口先三寸で丸め込まれ、かつ部長という責任ある職を与えられて無責任に逃げ出せる性格でもなかった。
そして今、無理やり入部させられた挙句、体質が改善しないからと言ってソルに怒られていた。
(気の毒な話だ……)
ソルの説教が終わったら一服した方が良いだろうなと判断して、セイショウは鞄の中身をあさった。確か叔母が持たせてくれた薬草がまだ残っていたはずだ。
乾燥してなお青々とした色を失わないその薬草は、煎じて飲むと気分を落ち着かせる効果があった。
セイショウが目当てのものを探り当て、引っ張り出そうとした時、大きめの紙包みが鞄から滑り落ちた。
「セイショウ君、これなあに~?」
近くに居たメーイがそれを拾い上げる。床に落ちた時に紐がゆるんだらしく、包み紙が大きくめくれていた。
これを元に戻すには、一度ほどいて包みなおすしかない。
恐らくメーイもそう思ったのだろう。紐をほどいて包み紙を広げ始めた。
「メーイ、ダメです!」
気づいたセイショウが止めに入るも、時すでに遅し。
中にあったものをメーイが取り出して広げていた。
こちらの騒ぎを聞きつけたソルとベルが振り向いて、メーイの手の中のものを目にし――ベルは再び気を失った。