休み明け.1
今日も部室のテーブルについて羽ペンを動かしながら、セイショウは先日の香水の話をカイにしていた。
「あ~そうなんだよねぇ。僕の周りの女の子たちも全員使ってるよ、あれ」
エプロンで手を拭いながら近づいてきたカイは、「ほら」とポケットから何かを取り出した。
料理人としての経験が刻まれたカイの手は、身体の他の部分に比べてそこだけがゴツゴツしていて荒々しい。その意外と大きい手の平に、ちょこんと小さな缶が乗っていた。
缶の表面には飾り文字で『シェ・イヴ』の刻印が入っている。
「思ってたより小さいですね」
「これで結構な値段するんだよ。1シールー」
「いっ……!」
教えられた価格は、低所得層の1か月分の生活費とほぼ同額だった。
セイショウはカイの手の中を呆然と見つめた。こんなものに1シールーも払うなんて考えられない。
そんな彼の様子を見ながらカイは苦笑した。
「美肌効果の即効性は高いし、少量で済むからお得らしいよ。……でも女の子の執念ってすごいよねぇ」
缶をポケットにしまいながら、カイが「料理の香りを邪魔するから、僕はあんまり香水って好きじゃないんだけどね」と肩をすくめた。
「じゃあ何で持ってるんですか?」
「それはそれ、これはこれ。女の子にプレゼントすると喜ばれるからねー。まとめ買いしてあるんだよ」
ウインクをして人差し指を振るカイ。
セイショウが、呆れるべきなのかそのマメさに感心すべきなのか悩んでいると、カイは胸をはって「姫とメーイの分もばっちりゲットしてあるよ」と続けた。
「ベルはともかく……幼女まで守備範囲に入ってるんですか」
「それは失礼だよセイショウ君。メーイはああ見えて僕より年上なんだからね。でも下心があって買ったわけじゃないよ。元気になるかなって思って」
それを聞いてセイショウは「ああ……」と呟いた。
あの盗難事件以来すっかりメーイは気落ちしてしまっている。たまに見かけると、いつも猫耳と肩を落として、とぼとぼと歩いていた。
恋愛対象外の女性であってもカイは気配りを忘れない。育ちの良さもあるのだろうが、セイショウはそんな彼を少しだけ尊敬していた。
もっともその気持ちは、カイが「これを受けっとった姫が予想外に感動したら……! それでデートに行くことになったら、コースはどうしようかなぁ?」と期待に胸を膨らませながら妄想の世界に突入していくことで、たちまち引っ込んでしまうのだが。
それにしても、何度もベルにプレゼント攻撃をしかけては受取拒否されているというのにカイはめげない。それどころか都合の良い妄想デートまでできるなんて、どこまでポジティブシンキングな男なのか。
「カイ。僕はあなたのその、諦めを知らないチャレンジ精神を凄いと思います」
「甘いよセイショウ君。諦めたらそこで終わりじゃない? 諦められるってことは本気じゃないってことなんだよ。姫に僕が本気だってことを伝えるためにも攻め続けなきゃね」
半ば皮肉を込めたつもりのセイショウの言葉に、真面目な顔でカイが返答する。
「他人に自分の想いを伝えるのって大変なんだよ。自分が思っていることの半分も伝わらないことが多い。だからすごくエネルギーが要る。それを面倒くさがってるようじゃ、それなりの恋しかできないよ」
カイの言葉がセイショウの胸につきん、と刺さる。
セイショウが故郷で働いていた頃、彼の下には数人の部下がいた。決して多い人数ではなかったのだが、彼等は皆、自分の意見を他人に――セイショウに――訴えることをしようとしなかった。
カイの言った通り、自分の想いや意見を伝えるのはエネルギーが要る。彼等はそのエネルギーを費やすことよりも、楽な道を歩むタイプだったのだ。
意見をぶつけあうことよりも、言われたことに従う方を選ぶ。すると必然的に彼等の意識は「仕事をやらされている」という方向へと向かう。
セイショウは部下たちを、自分で考え、創意工夫できるような人材に育てたかった。そのために彼なりの手を尽くしたつもりだったのだが……。
過去の暗い記憶を思い出し、セイショウは眉間に皺を寄せて黙り込んだ。あの事件のことは忘れられない。心の傷は一生消えないだろう。
急に沈痛な顔つきになってしまったセイショウに、カイが声をかけようとした時だった。
部室のドアがキィ……と小さな音を立てて開いた。
振り向くとメーイが居た。チラリと2人を見て「こんにちは~……」と言ったきり、すぐに視線を落として部屋の中へと入って来る。
彼女は壁際の椅子によじ登ると、ポポに餌をやり始めた。
その背中を見つめるセイショウとカイの耳に、小さなため息の音が聞こえて来る。
「そうだ、メーイ。君にプレゼントがあるんだよ」
カイは少しわざとらしいぐらいに明るい声を上げた。
「プレゼント……?」と振り返るメーイに近づき、「はい」と例の香水を手渡す。
「あ、シェ・イヴの香水~……」
メーイも妙齢の女性だ。さすがに今話題の香水ぐらいは知っているらしい。
「どうしたのこれ~……?」
「人気があるみたいだから、メーイにもどうかなって思ったんだよ」
「……ありがとう~。心配かけちゃってごめんね~。手に入れるの大変だったでしょ~? これ高いし~……ありがとう~」
メーイは力のない、泣き出しそうな笑顔でカイに礼を述べた。
気を使おうとして逆に気を使われてしまったカイは、「しまった、失敗した……!」という顔で視線を逸らす。
なんとなく気まずい空気に包まれた2人を眺めながら、セイショウは「メーイ、こっちに来て下さい」と優しく声をかけた。
のろのろと近づいてきたメーイの手を取ると、セイショウは鞄から小さなチューブを取り出す。
「それは~?」
「手荒れの薬です。この前の授業で作ったんですよ」
セイショウは中身を自分の手の平に出すと、おもむろにメーイの小さな手にそれを塗り始めた。その手つきは優しく丁寧で、爪と皮膚の境目にまでじっくりと薬をなじませる。
「魔物の世話で手が荒れることが多いですからね」
ずっと手を取られたまま、丹念に薬を塗られて頬を染めるメーイ。
もじもじと恥ずかしがる彼女に気づいていないのか涼しい顔で作業を続けるセイショウを見て、カイが「セイショウ君って天然ジゴロだよねぇ」と呟いた。
「何か言いましたか?」
「これから君は僕のライバルだよ、セイショウ君」
「ワケの分からないことを……。それよりこの薬、カイにもあげましょうか?」
「えっまさか僕の手にも塗ってくれるつもりかい!?」
「なんで男の手なんか握らなきゃならないんですか。自分でやって下さい」
「……君は本当に天然なのかい? それとも稀代の女たらしかい?」
「言ってる意味が分かりません」
セイショウとカイの遣り取りを聞いているうちに、メーイの顔には思わず笑顔が浮かんでいた。
「はい、塗れましたよ」
ようやく解放された両手をしげしげと見つめるメーイ。
しっとりすべすべになった手を撫でながら上目使いでセイショウを見ると、彼はにっこりと微笑みながら彼女を見つめていた。
「あ、ありがとう~……」
真っ赤になった顔を隠すように俯き、小声で呟くメーイに「どういたしまして」とセイショウは応える。その光景を見下ろしながらカイが、やれやれと言わんばかりに首を振った。
「おや。3人ともここに居たか」
2匹の神獣を従えたベルが、珍しく扉から入ってきた。とたんに「姫!」とカイの顔に嬉しそうな表情が浮かぶ。
彼を見たベルは一瞬顔を引きつらせたものの、そのままテーブルの側へと近寄ってきた。ただし腰を下ろしたのはカイから一番離れた椅子だ。
「どうだメーイ。あれ以来、魔物が盗まれたりはしていないか?」
「う、うん~。ちゃんと皆いるよ~」
「そうか。私も神獣に頼んで見回りを強化しているが、ソルの方もどうやら色々と調べているらしい。いずれ盗まれたテンテンも見つかるだろう」
そう言ってベルは慰めるようにメーイの頭を撫でた。彼女の頭の上の猫耳が、ベルの手の動きに合わせてピルピルと震える。
神獣たちはその様子を見て羨ましくなったらしい。ぐいと顎を上げると、自分たちも撫でてくれと無言で訴えた。
ただしもふもふが鼻をこすりつけたのはベルの手で、もふりーなが鼻をこすりつけたのはセイショウの手だったのだが。
「……」
すっかり慣れてしまったもふもふの視線を感じながら、セイショウがもふりーなを撫でてやると、彼女は嬉しそうに喉を鳴らした。
なんだかメーイまでもがこっちを見ているような感じがするのは気のせいだろうか?
ベルがもふもふを撫でながらセイショウに微笑む。
「君は本当に不思議な男だな。人も神獣も惹きつける。もしかしたら魔物も惹きつけるかもしれない」
「別に意図してやっているわけではないですが」
セイショウが不本意そうに言うと、ベルはコロコロと笑った。
その様子に危機感を覚えたカイが、2人の間に肩を割り込むようにして、ぐっと身を乗り出した。
「姫! 僕のプレゼントを受け取ってくれるかい?」
「ぷ、プレゼント?」
カイの唐突な自己アピールに身を引きながらベルが言う。
何かに思い当たりサッと表情を変えた彼女に、カイは「違うよ、料理じゃない」と慌てながら香水を取り出した。
「これだよ、姫」
ふたを開けて、目の前に突き付けられたクリームを見てベルは――――いきなり気絶した。