入学当日.1
学術国家オート。そこは純粋に学問を究めたいと願う者にとって、正に聖地とも言うべき場所。
野心と熱意を抱いた探究者たちは、更なる深みを目指してこの国へと集まってくる。
オートが統括する研究機関に留学する際、求められる条件は2つだけ。
1、宗教・思想の自由は認められるが、司法制度はオート固有のものに従うこと。
2、出身国の階級制度による身分差別、および経済格差による差別意識を持つ者は入国を禁ず。
留学生らは入国管理局で、この誓約書にサインした時点で晴れてオートの市民権を得るのである。
季節は水。全ての始まりを意味するこの季節に、各研究機関の入学式が行われる。
オート南方の都市アイヒに存在する、歴史ある学術研究所「コセキ総合大学」でも、期待に顔を輝かせた新入生たちが無事に入学式を終えたところだった。
大学内での生活は基本的に生徒たちの自主性に任されている。大学側からどの講義を受けるか強要されることもないし、どの研究室であっても出入り自由だ。
新入生のある者は入学式を終えてすぐ、興味のある分野の講義に顔を出した。またある者は翌日から気合を入れて学問に取り組むために、早めに下宿に戻って休むことにした。
そして今。大学内の静まり返った廊下に佇んで、途方に暮れている新入生がいた。
「……どこだここは」
明るい茶色の髪をした少年は、やや童顔のその顔に困惑の表情を浮かべて呟いた。
彼は名をセイショウという。他国からの留学生だ。
コセキ総合大学の建物は、長い歴史を経て非常に味わい深い趣をたたえている。セイショウが今いる廊下も高い高いガラス張りの天井に魔法がかけられており、上空から降り注ぐ日光が七色に揺らめいていた。
大学内の探検をしていたセイショウは、その神秘的な光景に口をポカンと開けたまま上を見上げて歩き続け……気づけば人の気配が全くない場所へと入り込んでしまったのだ。
彼は今、大学の案内所で地図をもらってこなかったことを激しく後悔していた。
殺風景な壁には出入り口も窓もなく、今居る場所のヒントになりそうなものは見当たらない。
通りすがりの人間を捕まえようにも、仔ブタ1匹通らない。
「……とりあえず座ろう」
こみ上げてくる不安感から現実逃避するため、セイショウは壁にもたれかかるとズルズルと床に座り込んだ。
ふーっと勢いの良い溜息をつく。しばらく休んで気力を回復したら、何か良い案が浮かぶかもしれない。少なくとも、また歩き出すための体力は回復できる。
両ひざを立て、その上に手を乗せたセイショウは、自分のつま先で七色の光が水面のように揺らめいているのを、見るとはなしにボーッと眺めていた。
不意にその光が消え、周囲が暗闇に包まれる。
(なんだ?)
首を捻じ曲げて上空を見上げたセイショウは、驚きに目を見開いた。
何かフワフワとした白い毛に覆われた2匹の巨大な生物が、ゆったりと天井近くを飛んでいる。
セイショウは慌ててその影から抜け出ると、改めて彼らの全身を目にして「うわぁ……」と声を上げた。
縦に並んだ2匹の謎の生き物は、滑るように空中を横切って行く。風にたなびく長い毛は、日の光を浴びて銀色に輝いていた。
その雄大さと美しさだけでも十分に感動的だったが、セイショウが目を瞠ったのは、また別のものが持つ美しさだった。
後方を飛んでいる生き物は、背中に人を乗せていた。高度が高いのでハッキリとは分からないが、どうやら女性であるらしい。
その人物は長い長いストロベリーブロンドの髪を束ねもせず、風になびかせるがままにしていた。
光輝く銀色と赤毛のコントラストに、思わず感嘆の声を上げてしまったのだ。
その場に立ち尽くしたまま、じっと彼らの様子を見つめるセイショウ。
すると彼の視線に気づいたのか、謎の生き物の背中に乗っていた女性が下を見下ろし、自分を見上げている少年の存在に気がついた。
彼女の顔に「しまった」という表情が浮かぶ。
地上に居るセイショウからは顔の動きを確認することは出来なかったが、それでも女性のまとう雰囲気が変わったことは分かった。
彼女が何やら合図をすると、2匹の生物は動きを止め、空中に静止した。
「……」
女性の視線が自分に注がれているのを感じ、身動きせずにじっと見つめ返すセイショウ。
だがそのまま3分も経つと、さすがに居心地が悪くなってくる。
何か声をかけた方がいいのだろうか、とセイショウが迷い始めた頃だった。
彼と同じように身じろぎもしなかった女性が、急に身を屈めて自分の乗っていた生き物の身体を撫でた。
それに応えるように謎の生物がゆっくりと動き始め――――。
「うえぇええええっ?!」
一直線にセイショウに向かって急降下してきた!
何が起こっているか分からないものの、このままでは確実に衝突する。
セイショウは悲鳴を上げると、身を翻して走り出した。
だが生き物は空中を泳ぐスピードをアップさせて、ぐんぐんと彼との距離を縮めて行く。
必死に走りながら肩越しに振り返ったセイショウは、自分のすぐ後ろで大きく広げられた生き物の口の中に鋭い牙が並んでいるのを見て、真っ青になった。
今まで以上に身体を前傾させると、限界まで足の回転数を上げ、迫りくる恐怖から逃れようとする。
だがその努力も空しく。
「うわっ、うわっ、わあああああああっ!」
ばくりと咥えられたセイショウは、そのまま上空へと連れ去られた。
目が回りそうなほどの急激な高度の変化と、全身に感じる風圧。そして肉食獣並みの牙を持つ生物に咥えられているという恐怖。
彼が気を失うまで、長い時間はかからなかった。