自分を慰めるための対話
こんばんは。
奴は今日もやってきた。
私がグラスを拭いている間、何もせずカウンターに身を委ねている奴は、暢気な顔をして寝ている。
ここが店である感覚も、常識も、全く無縁のものといった表情で。
「お客さん、毎回こんなんじゃ困りますよ?
月曜日になるとすぐこれだ。 もうちょっとしゃっきりしなさんな」
私が諭そうとするも、全くもって聞く耳持たず、ただ眠っているだけ。
この行動が、どうにも威圧的で。
私は二の句が継げず、また一つ、新しいグラスを拭くだけだった。
「どうして…… 生きているんだろうなぁ」
ふと、奴はこう呟いた。
「起きて、くだらない事して、退屈な付き合いをして、無駄な努力を重ねる事に、意味が見つからねぇんだよ……」
生きて無い方がマシだ、と奴は言う。
死んでいれば、きっと無駄な事に頭を使わない。
たったそれだけの理由であっても、どうしても生は受け入れがたい物らしい。
「どうしてもなぁ、焦るんだよ。 どれだけ頑張っていても、どれだけ遊んでいても
結びついている物があまりにもおぼろげ過ぎて、崩れそうで。
そう考えているうちに、もう逃げ場のない不安に囲まれちまってるんだ」
何も反応せずとも、奴は続ける。
行き場のない感情が求めた先は、孤独からの逃避だった。
「だから、生きている理由さえあれば、頑張れると思うんだ。
何も生きる意味が無いのに、惰性で過ごせだなんて言うのなら、それは無茶ってもんだろう?」
ふいに、奴が顔をあげた。
幾多も奴の姿を見ていようとも、顔を見たのは初めてであった。
そして、私は驚愕した。 これは全くもって必然であり、必ずどこかで遭遇しなければならなかった不条理だと思う。
奴…… いや、彼は。
どこから見ても好青年でありながら、中にどす黒い感情を孕んだ悪魔そのものであった。
これは、人なのか?
違う、言うなれば人自身。 もっと言ってしまえば"自分自身"に最も近い存在。
私があまりにも日常離れした事実に言葉を失っていると、
醜い顔を近づけながら彼はまた話す。
「なぁ。 お前もそう思うだろう?
こんな意味のない生なら、どうにでもなったって構わないと」
更に顔を近づけてくる。 それはもう吐息が顔にかかる位に。
「な、そうだろう? "表面さん"よぉ」
理性を飛び越え、感覚が訴える。
これは紛れもなく"自分"なのだと。
形容できない恐怖が私を支配する、埋め尽くす。 払しょくする方法は、おそらく無い。
彼はもう、なぁ? としか言えないただの偶像にしか過ぎなかった。
狂気に満ちた空間に支配された私は、もう足元が崩れるのを待つだけの身となってしまったかに思える。
しかし。
「理由って、そんなに大事なものですか?」
そう聞いてみると、あからさまに彼は不機嫌な顔をして
「あぁ? そりゃ大事に決まっているだろうがぁ。
何故かってぇ。 そんなの自分に聞いてみろよぉ」
こう吐き捨てて、私が近くに置いていた水を口に含むと
何の前触れもなく、突然私の顔に吹きかけてきた。
鮮烈な衝撃と疑いに満ちた光景に、意識が飛びそうになる。
寸前で現実に引き戻した後、一つの結論が芽生えた。
彼は、魔物である。
ならば、殺してしまって構わない。
彼は、魔物であり敵である。
同情の余地など欠片も存在はしない。
たとえ"自分自身"であっても、この考えに揺るぎは生まれないし、生まれてはならない。
「理由が無くても、目的が無くても、人は生きる。
惰性なんかじゃない、恐怖に怯えているんじゃない。 ただ単純に明日を見たいからだ」
「努力は認識するものじゃない、結果を求めるんじゃない。
過程に全てが込められているのであって、結果は別の問題だ。
人に見せるのは結果でいい。 自分に見せるのは過程であれ」
こんなの、簡単な理由じゃないか。
生きればいい。 明日が見れるのならば。
明日に目標なんかある訳がない。 だけれど、目標が見つかるかもしれない。
そうやって、過ごすのだ。
これは惰性じゃない、りっぱな理由じゃないか。
私が黙ったまま彼を見つめると、唾を吐き捨てながら
ふらつく足取りで店を去っていった。
去り際の台詞を一切残さず、非常に淡白な最期であった。
ふと、気がつく。
ドアの端に子供が一人、隠れている事に。
私は近寄り、優しく微笑みかけて、そして
「今晩は」
私は中へと招き入れた。
こういった投げっぱなしは大嫌いなのですが
勝手がよく判らなかったもので
このお蔵入りしていた文章に犠牲になってもらいました。