第一話 [発火]の球
私はうつ伏せになっていた。かなりの間こうしていたせいか、頭と固い長机に潰されていた両腕がバチバチと痛んでいる。四限開始の鐘が鳴ってから約四十分が経っていた。一年来の親友である祥子の合流を待つために、私は大学の空き教室で暇を潰していた。授業中ということもあり、耳に入る音は換気扇と自分の心音だけだった。五月らしい気温で、クーラーがついていないこの部屋で薄手の長袖で快適に過ごせていた。
とにかく私は暇だった。さっき出たレポートや、明日提出の課題を早々に片づけてしまえばいいのに行動に移すことができなかった。にもかかわらずこの退屈さを抑えてはいられないなどという矛盾が、頭の中で勝手にせめぎ合っている。こんなだらしない状態の私は、「うぅ…」といううめき声に似た何かを発することしかできないでいた。
「あんた、何やってんのよ」
後ろからとてつもなく不愛想な声が聞こえた。勢いよく振り返ると扉に片肘を立てて佇む祥子の姿があった。大きい肩掛けバッグをもう片方の腕で左右にふらつかせていて、いかにも今来たような雰囲気を醸し出していた。
「なにって……見れば分かるじゃん。暇してたの。祥子が遅れるってメールしてきたからやることなくてさ。だからこうしてぐだーって」
私は机に伸びて見せた。すると祥子は小さくため息をついた。
「課題とかやることいっぱいあるでしょうに」
「やる気でないんだもん仕方ないでしょ。そっちこそどこほっつき歩いてたのさ」
「私は先生に呼ばれてずっと話してた」
祥子は大体のことが人並み以上にできる。勉強はこうして先生に呼ばれるほどに、運動も見た目は細くて苦手そうなのにそつなくこなして見せる。本人曰くテクニックらしい。こういうのは体の動かし方が上手いのだろうという勝手な想像があった。かくいう私はどうなのかというと、運動以外は平均以下。勉強は祥子に教えてもらわなければろくに分からない。運動も女性にしては筋肉質な体格に恵まれているだけというどこか危うい長所だった。
「二年が始まったばっかりなのに、そんなていたらくで良いの? 去年はそうやって単位落としかけてたよね」
実際ぐうの音も出ない。去年は一年だったが勉強もろくにせず、自分でも遊びすぎていたという自覚はあった。おかげでバイトがはかどってお金も貯まり、念願の有名枕専門店のかなりいいほうの抱き枕を自室に迎え入れることができた。が、月を重ねるごとにバイトより勉強のほうが大事だったと実感、学期末には祥子との地獄の十六時間勉強耐久を行うまでしてなんとか単位を守ることに成功したのだった。
私は顔を上げて机に肘をついた。そして以前として扉の進路上に立つ祥子に目一杯の不貞腐れ顔をしてやった。彼女からはなんのレスポンスも返ってこなかった。私はさらに頬を膨らまして異を唱えた。
「ほんと祥子はいつ勉強してるの。私と同じような生活してるはずだけど」
「私は授業の中で理解してるの。いつもぐーすか寝てるあんたと違ってね。本当にもったいない」
「眠いでしょ? なら寝るじゃん」
祥子はこれでもかとため息をついた。そして遂に体に悪そうな体制を止めた。教室に入ってくるかと思えばそのまま踵を返し、廊下の方へと歩いていった。
「……知らないからね。私、真面目じゃない人には手を貸さないから」
「ごめんってば、ちゃんとするからさあ。だから次も助けてよ。この通り!」
私は椅子から立たずに祥子の方に向いて手を合わせた。すると祥子は三度目をすることなく、分かったから、と呟いてカバンを床に置いて隣の椅子に座った。椅子は丸く床に固定されていないためどこでも好きに移動できる。祥子は周りにある邪魔な椅子を手でどけた。
私はその反応を確認すると、自分のリュックサックから青色をしたプラスチックのファイルを取り出した。中には数学のプリントが白紙のままで大量に入っている。私がサボりにサボった結果の産物だった。そして三ページめくってそれを祥子に見せた。
「じゃあここ教えて?」
祥子は言葉の通り頭を抱えた。
最後に時計を見たのは四時だった。三限が終わったのが三時十分。そこから時間を潰して、祥子に数学を教えて貰う前に携帯を開いたのがそれだ。そして今、窓の外は暗くなりかけていた。少し暖かくなり、日の長さが延びてきたのは体感としてあった。だから最近は完全に暗くなるのは七時手前とかその辺り。となると六時は越えていることになるが、私は依然として一枚のプリントの前で打ちひしがれていた。
「あーもう、だから高校数学からやり直せとあれほど」
「……分かってるよ。でも理解できないんだってば」
祥子は一通り何でもできた。勉強、スポーツ、ゲームだって人並み以上にこなして見せる。だからこうして私の分からない範囲を祥子に教えて貰うのはよくある光景だった。
「季乃はやればできるのに何でしないのさ。私、あんたの事は高く買ってるんだからね? 一年の付き合いだけど、その辺りの事はしっかり理解してるつもりなの。ハマった物には熱意を注いで努力する、やりたいことを真剣にする、真を曲げない、何でも前向き、たまに頑固。こんなにも良い所があるのになぜ勉強には向かないの? しかも興味云々という段階でもない。完全に遠ざけに行ってる。まったくもう、はぁ……それだけにあんたのこれは」
私はおもむろに立ち上がり、他の椅子を一つ引いた。そして何もない窓方面の空間に向かって蹴り上げた。
「やっかましいんだよー!」
背もたれのない軽い素材でできた丸椅子は天井スレスレの地点まで上昇し、弧を描きながら床へと落下した。その後もガタガタと辺りを暴れ、最後には窓のすぐ下にまで転がっていった。
「もう無理、帰る! こんなに長いこと説教されると思ってなかった! 結構の間教えて貰ってたけど、そのほとんどは祥子が私のことネチネチ責めてただけだよね? うるさいの、ただ答えを教えてくれるだけでいいの!」
「えっと……それは悪かったけどさ」
鼻息を荒くして、私は机の上を整理し始めた。そして全てをリュックに乱雑に詰め込んで、扉の方へと向かう。床を強く踏んで、祥子にもこの怒りが伝わるように歩いた。
五歩程歩いた頃、足に何かがぶつかった。鬱陶しさを覚えた私は、その正体を確認することなくまた蹴り上げた。ちなみにこれは小学生の頃に公園でやっていたキックベースの要領だ。私はよくホームラン王として恐れられており、あの頃は良かったと今でも思い返す程輝かしい栄光だった。
椅子ほどとまではいかなかったが、これも机二個分は上がった。そのときにこれが祥子のバックだったと気がついた。そして一つ思い出す。これは最近買い変えたものであると。貯めた給料で買った、少し良いやつだそうだ。私はファッションに興味はないためその良さは分からなかったが、このバックを初めて身につけて来たとき、祥子は満面の笑みだった。
そして更にもう一つ頭によぎった。祥子はバッグの中身を見られることを極端に嫌がると。前に一度だけ祥子がトイレで離席している時、いたずら心で中を覗こうとしたことがある。するとハンカチを忘れ、取りに戻ってきた祥子に気付かれてものすごい剣幕で叱責された。以降このようなことがないように細心の注意を払う程に、恐ろしく、面倒だった。
その瞬間はまるでスロー再生のように思えた。ゆっくりと上がっていくピカピカのバッグ、そして物が溢れ出てくるその光景を、私は遅くなった時の中でまじまじと見つめていた。ピンク色のステンレスの水筒、よく見る黒と赤の筆箱、一つ前の機種のガラケー。
それ以外にも湯水のように空中に広がっていったが、その中で一際私の目を引いたのは白の布の塊だった。地面に落ちた瞬間、ゴッと鈍い音が空き教室中に響き渡り、純白のベールが開かれた。中から出てきたのは茶色がかった球体だった。掌より少し大きいくらいのサイズで、音から察するにかなりの質量を有している。順番で言えば最後の方に出てきたため、深くの所にしまっていたのだろう。
私はそっと手を伸ばした。少し前まであった罪悪感がさっぱりなくなるほどの好奇心が私を動かしていた。すると祥子が慌てた様子で近づいてきた。
「それに触ったらだめ!」
祥子は思ったより速く、私と祥子の手は同時に球に触れた。
するとその球はチリッと音を発したかと思うと、一気に炎を上げ、熱を帯びた赤い容貌に変化した。何の前触れもなかった。ただ二人で触れただけ。おそらくスイッチやボタンといったものはない。それだけにこの反応は意外だった。
「あっつ!」
と、手を引こうとしたができなかった。今下に落としてしまえば、火災が起きてしまうかもしれないからだ。壁は鉄筋コンクリートで作られているが、床は木造だった。更に下にはさっきの白の衣が広がっているため、火の周りも早いだろう。私は辺りを見渡して、水場がないかを探した。しかし目に入るものはなく、また近くのトイレなどもすぐには到着しない距離だった。
「止まれ! 止まれ! 止まれ!」
祥子は顔をしかめながら何度もこう言った。普段の彼女からは想像のつかない必死さだった。私には祥子がどうしてこの火を消そうとしないで、ずっと止まれと繰り返しているのか理解できなかった。始めに私のように周囲の確認をするべきではないか。
が、考えている時間もない。この間にも私たちの肉は焼かれている。私は祥子を突飛ばし、球を奪った。少し強くしすぎてしまったのか、思いのほか後ろへやってしまった。私は球を左手に持ち、走り出した。窓だった。教室一面に何個も並んでいる窓。その内の一つを開け、投げた。下を確認している場合ではなかった。
ごうごうと燃える火の球が、ほの暗い空を照らした。流れ星かのように宙を一直線で突き進む光景は、両の手がこうなっていても、不覚ながら綺麗だなと思ってしまった。
火は段々と勢いを弱め、地面に着く頃には茶色へと戻っていた。少し恐ろしかったのが、そこが庭だったこと。低木がいくつも植わっていて、もしそのまま落ちてしまっていたらここら一帯が火事になっていただろう。
高鳴る胸を野放しにして、私は、確かにあれに興味を抱いていた。
「……あれは何?」
最初に口を開いたのは私だった。焼けただれた手と祥子の顔を交互に見ている。祥子は明らかに落ち込んでいた。かなり濃密な一年だったため、この程度の表情の変化は容易に読み取ることができた。また、その祥子は私の顔を一切見ることなく、私よりも焼け跡が小さい手を見つめいてた。
「……私にも分からない。家の近くの公園で拾った、本当にそれだけの、泥団子みたいなもの。ただ一つ言えることがあるとすれば私が触れば燃えるということだけ」
「だからか、とはならないよ? え、正直めっちゃ混乱してるんだけど」
祥子は何も答えず、一点をぼんやりと見ていただけだった。
私は思わず笑ってしまった。
「……よく考えると、これめっちゃ面白いよね」
「何よ急に」
「だって超常現象に巻き込まれるとか、普通に生活してたらまずあり得ない事だし……なんか面白いなって」
マジか、という顔をしていた。これも祥子が初めて見せる表情だった。
そして私の頭に、ある突拍子もない提案が浮かんできた。
「これさ、私たちで調べない?」
「……またあんた変なこと言って」
「良いじゃんか。丁度なんとなく暇してたところでさ。祥子だって分からないままじゃ怖いでしょ」
だとしても、祥子はそのまま続けようとしたが口ごもった。私のたまの頑固さを理解してくれていたのなら嬉しいなと思う。
「はぁ、分かった。そこまで言うならやるよ。ただし、この事は秘密にしててよね。私にだって思うところはあるんだからさ」
私はガッツポーズした。平凡な日常が一変していく感覚、こんなのを味わったのは祥子と出会った時以来だった。そして、私が求めていたもの、退屈からの解放が何より嬉しかった。
「じゃあ早速図書館にでも」
そう言いかけた時、祥子は窓に赤くなった指で差した。
「まず取りに行くの。そして今日は解散。疲れたし、手当てもしないといけないでしょ。あんたの行動力には目を張るものがあるけどね。それでもまずは自分の身を大切にしないとすぐに駄目になって」
私は今度は何も引っ掻けないようにして扉へと向かった。もちろん、少し大袈裟に音を鳴らしながら歩いた。
「分かったから、帰るから! ほら行くよ!」
祥子は今日一番のため息と共に歩き始めた。
「リュック忘れてるからね」




