淘汰
「続けましょうか」
内藤は水を一口飲み、静かにグラスを置いた。
客の話し声やBGM、食器の触れ合う小さな音が
部屋のドア越しにくぐもって聞こえていた。
内藤は私を見つめたまま、何も言わない。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
なぜ私は席を立たなかったのか。
その理由を、まだ自分で説明できなかった。
「……」
返事に窮していると、内藤は続けた。
「篠原さん、トーマス・マルサスっていう人物ご存じですよね」
「あぁ、あの人口論の?」
「そうです。さすがです」
内藤はさらに水を一口飲んで続けた。
「彼は18世紀末にこの理論を発表しました。200年以上前です」
「……」
「今さら言うまでもないですが、人口は幾何級数的に増加するのに対して、
食糧は算術級数的にしか増加しない、っていうあれです」
「……」
「いずれ人類は深刻な食糧不足に見舞われると……」
私は、彼の言おうとすることを察した。
これは陰謀論界隈でよく言われていることだ。
見えない政府が地球の人口を削減しようと画策していると……
私はそういう根も葉もない理論に対しては本能的に嫌悪感を抱く質だ。
内藤の話がそっちの方面に進むような予感がして、思わず口をはさんだ。
「その考え方は今では否定されてますよね。
人類が生み出したいろいろなイノベーションによって
食糧の増産も人口の増加に見合って進んでいると。
確か、マルサスの罠って言われて……」
「おっしゃるとおりです。
だけど、肝心の数々のイノベーションは、結局のところ
地球の資源を消費して実現しているものですよね。
たとえばエネルギーとか」
「……」
「篠原さんは1900年の世界人口がどのくらいだったご存じですか?」
現在の半分くらいと踏んで、
「40億人くらいかな……」と呟いた。
「16億人です」
内藤がすかさず答えた。
「では、現在の人口は?」
「80億超だと思います」
「はいっ、正解です」
内藤は、おどけたように明るく答えた。
「120年で約5倍ですね」
「……」
「特に1960年は約30億人、それが
――現在はこのとおりです」
「……」
「これに一人当たりのカロリー摂取量の増加が拍車をかけています。
つまり総カロリー摂取量に換算すると、1960年以降で約4倍です」
「篠原さんがおっしゃるとおり、イノベーションによって
供給量は人口増加にそれなりに追随しているように見えます」
内藤はここで息をついた。
「……だけど、この状態が今後10年、20年続くと考えてみてください。
そのときも追随し続けていられるでしょうか?」
私は、内藤のこの熱心な語り口を眺めながらぼんやりと思った。
――なぜそんな質問を私にぶつけてくるのか?
いや、これは質問ではない。私を査定するための試金石なのではないか、
という考えが頭をよぎった。
口に乾きを覚えた私はグラスの水を一気に飲み干し、論駁を試みた。
「だけど……
人口の増加ってあまり実感がわかないですよね。
日本ではむしろ人口減少が問題になってるじゃないですか。
ヨーロッパでも、ドイツとかイタリアとか……」
「私が話しているのは国単位ではありません。
人類という種の単位の話なんですよ」
「……」
「人口が減少している国では――しかも、そういう国にかぎって
一人当たりのエネルギーやカロリー消費量が桁違いに多いと来ている。
結局は、地球資源を食い荒らしているっていう意味では
変わらないんです」
「じゃあ内藤さん、あなたは地球人の数を減らすべきだって
本気でお考えなんですか?」
こう言い放った後、このような陰謀論の議論に入り込むどころか、
声が強くなってしまったことが、研究者の端くれとして恥ずかしかった。
「いえ、私は問題を提起しているだけです」
「じゃあ、なぜこの場にそのような問題を持ち出されたのですか?」
「問題は人口増加そのものではありません。
それを口実に何かを始めようとしている連中が問題なんです」
「ずいぶん内情にお詳しいんですね。
まるで仲間内の批判をしてるみたいな言い方で……」
「いいえ、私はダーウィニズムの支持者です。
つまり、自然淘汰論者です」
「ということは生存競争に任せればいいと……」
「そういうことです。
あぶれる人間はそのまま退場するしかないんですよ。
いや、退場というより自然淘汰ですね」
「それってすごく冷酷に聞こえますが……」
「じゃあ篠原さんはどう考えますか?
現在の状況は、分配で解決できるステージを、
すでに超えていると思いませんか?」
「……」
「確かに自然淘汰は残酷ですが、公平です。
だけど計画的淘汰は残酷で、しかも恣意的です」
私は心の奥に生まれつつあった疑念を
内藤にぶつけてみた。
「あなたのおっしゃる連中は、この先、
自分達の資源を確保するために
全人類を間引き始めるということですか?」
内藤は、グラスについた水滴を指でなぞり、
小さく首を振った。
「篠原さん、あなたはまだ『誰が選別しているか』を
取り違えている……」
今回、内藤は「淘汰」という言葉を持ち出しました。
自然に起こるものと、設計されるもの。
その境界は、私たちが思っているほど明確ではないのかもしれません。
篠原はまだ全体像をつかんでいません。
けれど、彼の中で何かが静かに揺らぎ始めています。




