17)花粉と薬
「吾輩は猫である。花粉には強いが、温かな日差しには弱いのである」
初夏の日差しは、だんだんと力を増してきている。
窓辺に寝そべる僕の背には、柔らかな陽光がたっぷり降り注いでいて、とても気持ちがいい。
外を見ると、澄み切った青空のあちこちに、黄色い靄のようなものがフワフワと漂っていた。
風に乗って、どこからか運ばれてきているらしい。
今日は良い昼寝日和だなと、目を細めた。
その時。
「クッ、ションッ!」
「ズズズ-」
静かな店内に、やけに元気な音が響いた。
振り向くと、マリオンとルイーズ様が揃って大変そうな顔をしている。
マリオンは鼻を押さえ、ルイーズ様はハンカチが手放せない様子だ。
どうやら2人は花粉にやられているらしい。
「クション!」
「ハァ・・・ズズ--」
僕は、五月蠅いなと、思わなくもない。
でも、僕は窓辺を譲るつもりもないので、黙って我慢することにした。
去年のマリオンは、こんなことはなかったはずだ。
なのに今年は、すっかり花粉に負けている。
ルイーズ様は、去年も一昨年も、その前も、たぶん毎年、この調子だった気がする。
僕とシモーヌは、特に何ともない。
クシャミも出ないし、鼻もスッキリしている。
ネコは鼻呼吸なんだし、鼻が詰まるなんて、考えただけでも嫌だ。
もし鼻が使えなくなったら、それはもう、一大事だ。
僕はそうならない幸運に感謝しつつ、再び窓辺で体を丸めた。
背中は温かく、店内では「クッション!」という音が響いている。
朝の掃除が終わると、ルイーズ様とマリオンは、そろって顔の前でゴソゴソと手を動かし始めた。
そして、鼻と口を覆うように、布を当てる。
「マスク、ですね」
マリオンが少し誇らしげに言う。
ルイーズ様も頷きながら、耳の後ろで紐を結んでいた。
仕事中にクシャミをしたり、鼻をかんだりするのは、さすがにお客様に失礼になる。
使っているのは、なるべく目の細かい布。
白や淡い色の布に、さりげなく刺繍が入っていたりして、中々オシャレだ。どうやら2人の自作らしい。
しかし、しばらくすると、
「クッション」
「ズズ--」
と、小さく押し殺した音が聞こえてくる。
マスク無しで豪快にクシャミをするよりは、ズッとましだと思う。
お客様も安心するだろうし、店の雰囲気も壊れないと思いたい。
花粉の季節はまだ続きそうだが、工夫で乗り切ってもらいたいものだ。
その日の夕方、ルイーズ様はいつもより少し疲れた顔で店に戻ってきた。
週に一度の、商業ギルドでの会合の日だ。
「おかえりなさい、師匠」
マリオンが声を掛けると、ルイーズ様は椅子に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「ふぅ・・・ただいま。今日はね、中々、大変だったよ」
僕はマリオンの傍のカウンターの上から、その様子を眺めていた。
ルイーズ様の話によると、商業ギルドの一室に近隣で薬師や医師をしている人たちが十人ほど集まり、病気や薬の情報交換をしているようだ。
普段なら静かな集まりなのだが、今日は「クッション」「ズズ--」という音が多かったそうだ。
案の定、会合に集まった人の多くが、花粉にやられて辛そうだったらしい。
「そこでね、花粉に効きそうな薬の話が出たんだ」
ルイーズ様はそう言って、水を一口飲んだ。
ある医師が言うには、「ハナサキ草」という草の花びらを乾燥させ、粉末にした薬が、花粉の症状を少し抑える効果を示したという。
完全に治まるわけではないが、クシャミや鼻水が軽くなるらしい。
「少しでも楽になるなら、いい話ですね」
マリオンはそう言ったが、ルイーズ様は首を横に振った。
「問題はそこからさ。ハナサキ草はね、他の雑草とそっくりで、見分けるには経験がいるんだ。集めたつもりでも、ほとんど雑草だった、なんてこともあるらしい」
さらに、症状の重い人にはハナサキ草の薬を処方し、軽い人はマスクをして花粉を吸い込まないように指導する、という話にもなったそうだ。
だが、肝心のハナサキ草は、商業ギルドにも在庫がほとんど無く、大量に薬を作るのは難しい状況らしい。
「それでね、薬の実験を続けるには、結局、採取に行くしかないって話になった」
そう言って、ルイーズ様は苦笑いした。
薬師を代表してルイーズ様、医師を代表してトーマスという人が、採取に向かうことになったそうだ。
商業ギルドでは、冒険者からの報告を元に、薬草の採取場所を地図にまとめて管理しているらしく、近隣の地図にはハナサキ草が採れた場所が二カ所あったようだ。
「街の近くではあるんだけどね、二カ所回るとなると、二泊は野宿になるな」
その言葉を聞いて、マリオンは少し不安そうな顔をした。
外で寝るのは嫌いじゃないけれど、花粉の多い場所は、できれば遠慮したいよね。
「ま、行くしかないけどね」
ルイーズ様はそう言って立ち上がり、いつもの調子で笑った。
早朝の商業ギルド前は、まだ薄暗く、街も完全には目を覚ましていなかった。
そんな中、ポツンと荷馬車が一台止まっている。馬車の脇では、冒険者風の者が三人と、背が高くて痩せた男が一人、静かな声で話をしながら待っていた。
ルイーズ様とマリオンは、その四人に近づき、挨拶を交わした。
どうやら、今回の薬草採取に向かう全員が揃ったようだ。
冒険者が三人、そして医師のトーマス氏、僕たちが四人だ。
背の高い痩せた男がトーマス氏らしい。白衣ではなく、旅用の簡素な服装をしているが、雰囲気はどこか知的だった。
挨拶が一段落したところで、冒険者の一人が、僕とシモーヌを見て、少し戸惑ったように言う。
「ネコも連れて行くんですか?大丈夫ですか?」
僕の尻尾がピクリと動いた。
魔女の使い魔を、ただの家ネコと一緒にするなと言いたい。
ルイーズ様は穏やかに微笑んで答える。
「大丈夫ですよ。魔女の使い魔ですから」
しかし、その冒険者は首を傾げたままだった。
どうやら「魔女」という言葉自体に、あまり実感がないらしい。
最近は魔女の数も減っていると言う。若い冒険者が、魔女や使い魔を見たことがなくても、不思議ではない。
それにしても、冒険者の中に一人、魔法使いがいるのに、魔女を知らないというのは、少し不思議な気もした。
僕がそんなことを考えている間に荷物が荷馬車に積み込まれていく。
箱や寝袋、道具類が次々と載せられ、準備は整ったようだ。
僕とシモーヌも荷台にひょいっと乗り込む。
御者役の冒険者の脇に、トーマス氏が座り、地図を見ながら行き先を指示している。
荷台の前方には冒険者が二人乗り、周囲を警戒するようだ。
僕たちは、荷台の後ろの方。
僕はマリオンのすぐ傍に座り、揺れに備える。
出発するとすぐに、荷馬車はガタゴトと音を立てて走り出した。
旅馬車のような快適さはない。揺れるし、振動も直接伝わってくる。
僕はマリオンの足元に体を寄せた。
僕はマリオンの気配にち着き、多少揺れても、ここなら我慢できそうだと思った。
何度か休憩を挟み、馬を休ませながら進んだ馬車は、昼を少し過ぎた頃、最初の採取場所に到着した。
水辺に近く、草が柔らかく生い茂る場所だ。ここが、ハナサキ草が見つかったという場所らしい。
馬車が止まると、冒険者の三人はすぐに散開し、周囲へ目配せを始めた。
慣れた動きだ。森の気配や、草の揺れ、音にまで注意を払っているのが分かる。
一方で、医師のトーマス氏、ルイーズ様、マリオンは、記録にあった場所へ向かい、しゃがみ込んで採取を始めた。
僕とシモーヌは、その三人の周囲をゆっくり回りながら警戒する。
魔獣や危険な生き物が近づかないか、耳を澄ませて見回るのは、僕たちの役目だ。
少し離れた場所から、マリオンの声が聞こえてきた。
「師匠。少しですが、ハナサキ草らしい花が咲いています」
「そうだね。早速、摘もうか」
どうやら、目的の薬草が見つかったらしい。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。
陽が傾き始め、空が赤く染まり出す頃まで、三人の採取は続いた。
「大分、採取できたね。ここでこれだけ採れるなら、次の場所も期待できそうだね」
トーマス氏はそう言って、嬉しそうにルイーズ様とマリオンに話しかけている。
カゴの中には、確かに花びらがそれなりの量、集まっていた。
その時、冒険者の一人がルイーズ様に声をかける。
「今日は、少し先にある広場でキャンプしますので移動します」
ルイーズ様は頷き、マリオンとトーマス氏、そして僕たちも馬車に乗り込んだ。
少し走ると、木々に囲まれた広場が見えてきた。
地面には焚火の跡があり、何度も人が使ってきた場所だと分かる。冒険者や商人の野営地なのだろう。
馬車が止まると、冒険者たちは手慣れた様子で動き始めた。
地面を均して焚火の場所を作る者、水を汲みに行く者。無駄のない分担だ。
冒険者たちは焚火の周りで眠り、僕たちは馬車の荷台で休むらしい。
やがて、焚火にナベが掛けられ、湯が沸き始める。
干し肉と野菜を入れたスープの匂いが漂ってきた。街で買ってきたパンと一緒に、それが夕食のようだ。
「ネコは、何を食べるんですか?」
冒険者の一人が、気になったのか、ルイーズ様に聞いた。
「ネコの食事は準備してきたから要らないよ」
ルイーズ様はそう言って、カリカリの入った袋を軽く持ち上げて見せた。
ほどなくして、皆で焚火を囲んで夕食が始まる。
僕とシモーヌの前には、カリカリと水の器が並べられた。
外で食べるカリカリも、美味しい。焚火のパチパチという音を聞きながら僕はそう思った。
夕食が終わると、焚火の周りでは冒険者たちとルイーズ様、マリオン、トーマス氏が、穏やかに談笑を始めた。
焚火の火は小さくなり、赤い光が皆の顔をやわらかく照らしている。
僕はカリカリでお腹が満たされ、急に眠気がやってきた。
マリオンの膝の上に飛び乗り、丸くなる。マリオンは何も言わず、僕の背をゆっくり撫でてくれた。
僕の意識はすぐに遠のいた。
どれくらい眠っただろうか。
夜も深まった頃、僕は目を覚ました。
気づくと、僕は馬車の荷台、マリオンの脇で眠っていた。
焚火は小さくなり、見張りの冒険者だけが起きている時間帯らしい。
僕はジッと耳を澄ます。
風が木々を揺らす音。
見張りの冒険者が小声で交わす会話。
そして、広場の端、森の中で感じる獣の気配。一つではなく、三つ。
しかも、近い。
僕は静かに荷台から飛び降り、焚火の側へ歩いた。
「どうした?眠れないのか?」
見張りの冒険者が、僕に気づいて声をかけてくる。
僕はその冒険者をチラリと見てから、森の方へ顔を向けた。
「お前、嫌われてるんじゃね?」
もう一人の冒険者が、冗談めかしてそう言った。
森の中に殺気がある。
僕が見つめる暗がりの向こうに、獣の気配が動いている。
これは様子見じゃないな、襲う気だと思う。
僕は冒険者を振り返り、「来るぞ!」と伝えたつもりだった。
でも、彼らの耳には、きっと「ニャーン」としか聞こえなかっただろう。
その直後だった。
森の闇から、オオカミのような四足の獣が姿を現した。
低く唸りながら、三匹が距離を詰めてくる。
冒険者たちが、はっと息を呑む気配が伝わってきた。
僕は迷わず、獣の前に躍り出た。
空を駆け、一匹目の頭部に前足で一撃を叩き込む。
反動を利用して宙で身を翻し、二匹目の横腹に蹴りを入れた。
獣たちが体勢を崩す。
三匹目には、僕が動くと同時にシモーヌが馬車から飛び降りて、夜の闇を裂くような速さで接近し、目にも止まらぬ一撃を叩き込んだ。
僕たちにできるのは、最初の一撃を塞ぎ、獣を遠ざけることまでだ。
とどめは、冒険者の仕事だ。
冒険者たちは直ぐに立て直し剣を構えた。
初撃を阻まれ、混乱した獣に、鋭い剣が突き刺さる。
一匹は倒れ、残る二匹も傷を負い、森の奥へと逃げていった。
安全が確保されたのを確認すると、僕とシモーヌは何事もなかったように馬車の荷台へ戻り、体を丸めた。
僕が眠りに落ちる直前、冒険者たちの小さな会話が耳に届いた。
「何だ?あのネコは?流石は魔女猫なのか?」
「変なネコだよな・・・」
僕は、聞こえないふりをして、しっぽを少しだけ揺らした。
二日目の朝は、雲一つない快晴だった。
空気は澄んでいて気持ちがいいが、ルイーズ様とマリオンは、鼻の奥がムズムズすると言っている。
朝食を終えると、二人は用意していたハナサキ草の薬を飲み、マスクを付けた。
トーマス氏はというと、花粉の症状はそこまで重くないらしく、薬は飲まずにマスクだけを付けている。
一方、冒険者の三人は、
「花粉?ああ、そんな季節か」
といった具合で、特に気にした様子もない。
どうやらこの三人は鼻も喉も問題無いらしい。
やがて馬車は、二カ所目の採取場所を目指して走り出した。
昨夜、襲ってきた獣はすでに解体され、今日の食料になるそうだ。
野営の達人というのは、何でも無駄にしないようだ。
馬車の荷台では、冒険者とルイーズ様が話をしている。
その会話は、昨夜の出来事から始まった。
「・・・で、昨夜のネコの動きは何だったんですか?」
「え?何かありました?」
そんなやり取りから、僕とシモーヌが何をしたのか、話が進んでいく。
僕は荷台の隅に座り、尻尾を揺らしながら、聞くともなしに聞いていた。
「いやぁ、あの動きは普通のネコじゃないですよ」
「魔女猫って、あんなに凄いんですね!」
感嘆の声が上がる。
当然だ。
僕は誇らしげに、少しだけ大きく尻尾を振った。
それから二時間ほど馬車に揺られただろうか。
二カ所目の採取場所に到着した。
トーマス氏、ルイーズ様、マリオンは馬車を降り、ハナサキ草を探して草むらへ入っていく。
僕とシモーヌも、間を置かずに三人の後を追った。
この場所は、水辺こそあるものの、最初の所とは様子が違う。
探してみると、ハナサキ草は一カ所目よりもずっと少ない。
結果、採取はあっという間に終わった。
「ここは少なかったですね」
マリオンが少し残念そうに言う。
「最初の所でたくさん採れてるからね。これだけあれば、ある程度の薬は作れるんじゃないかな」
ルイーズ様は、そう言ってマリオンを安心させた。
採取を終えた僕たちは、街へ戻るために再び馬車を走らせた。
今日は途中で一泊し、その後に帰路につく予定だ。
ガタゴトと揺れる馬車の上で、僕は風を感じながら目を細めた。
二日目も、特に何事も起こらないまま、ゆっくりと夜になっていった。
空が茜色から深い紺へと変わっていくのを、僕は焚火のそばで眺めていた。
夕飯は豪快だった。
焚火の上に鉄の網を乗せ、昨夜の獣肉をジュウジュウと焼いている。
脂が落ちて火がはぜる音が、やけに刺激的だ。
その脇では、申し訳程度に草原で採ってきた野草も一緒に焼かれていた。
「酒があれば最高なんだがなぁ」
冒険者の一人がそう言うと、
「その通りだ。酒を持ってくるべきだった」
と、酒好きのルイーズ様が本気で悔しそうに項垂れた。
その様子を見て、僕は少しだけ尻尾を揺らす。
六人は談笑しながら肉を頬張っている。
僕とシモーヌはマリオンの傍らで、いつものカリカリを食べていた。
肉も悪くないと思うが、栄養バランスが完璧なカリカリはやはり最高だ。
六人もカリカリを食べればいいのに、と僕は本気で思った。
やがて夕飯と談笑が終わり、寝る時間になった。
トーマス氏、ルイーズ様、マリオンは馬車の荷台に上り、横になって眠る準備に入る。
僕とシモーヌも、その三人のそばで丸くなった。
夜中、ふと目が覚めた。
周囲に異変はない。
冒険者たちが交代で見張りをしている気配も感じる。
問題なしと判断して、僕は再び眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ますと、ルイーズ様とマリオンは既に起きて朝食を食べていた。
同類だと思っていたシモーヌも、何食わぬ顔でカリカリを食べている。
つまりは僕が一番寝坊したということだ。
僕は荷台から飛び降り、マリオンに向かって「おはよう」と言う。
マリオンも「おはよう」と笑って返し、僕の分のカリカリを用意してくれた。
朝食が済み、出発の準備をしていると、妙な気配を感じた。
僕が周囲を見回した、その時。馬が不安そうに鳴いた。
御者の冒険者が馬を宥めるが、どうにも落ち着かない。
僕はマリオンに何かいることを伝え、警戒に入る。
次の瞬間、森の中から姿を現したのは、少し小ぶりだが間違いなくクマだった。
クマは僕たちをエサだと認識したらしく、まっすぐ馬車に向かってくる。
冒険者たちは馬車の前で構えた。
僕とシモーヌは、初撃を放つために駆け出す。
空を駆け、僕よりも大きなクマの左右から同時に蹴りを入れた。
クマはよろけて転がったが、致命的なダメージにはならない。
そこへ冒険者の魔法使いが、石の礫を飛ばす。
頭部に直撃し、クマがふらついた瞬間、剣を持った二人の冒険者が一気に間合いを詰め、何度も攻撃を加え、ついに止めを刺した。
クマを解体して肉を確保し、馬が落ち着いたのを確認してから、馬車は街へ向けて走り出した。
前に乗った冒険者三人の会話が聞こえてくる。
「やっぱり、あのネコ達は変だよな」
「うん。そう思う」
「まぁ、今日も肉が手に入ったし、いいんじゃね」
失礼な!
僕もシモーヌも、ただの普通のネコだ。
そう心の中で反論しながら、僕は尻尾をゆらりと振り、温かな日差しの中、ガタゴト揺れる馬車に身を預けた。




