16)温かい泉
「吾輩は猫である。僕は水と相性が悪いようだ」
ザレフグラフの街には、人族用の風呂が二カ所ある。
お金を払えば誰でも入れるそうだが、当然、動物は入れない。
マリオンとルイーズ様は、普段は井戸から水を汲んで、それを火にかけて温め、湯気の立つ布で体を拭いている。毎日ではないけれど、週に二、三度は街の風呂にも行く。
薬に使う水も、料理や飲み物に使う水も、みんな一度、蒸留して不純物を取ってから使っている。
マリオンは面倒だと言いながらも、きちんとやっている。
「そのほうが体にいいのよ」と言う。
僕はというと、風呂は嫌いじゃないけど、好きでもない。
湯は気持ちいいけれど、水そのものは少し苦手だ。
体毛が濡れると重くなるし、何より、自分の匂いが消えるのが、あまり好きじゃない。
だから、マリオンが大きなタライにお湯を張ってくれるときも、僕はそっと縁に前足をかけて、そっと温度を確かめてから入る。
シモーヌは迷いなくジャポンと湯の中に滑り込む。
ルイーズ様とマリオンは僕たちを洗ってくれる。
ルイーズ様に洗ってもらうと、僕は何だか、くすぐったく感じるが、シモーヌは気持ちよさそうにしている。
僕はマリオンの手の方が優しくて、フワフワしていて良いと思う。
マリオンは僕に「ほら、もう少しだけね」と声を掛けてくれる。
悪くない時間だ。
タライから出て水気を拭きとられ、風にあたりながら毛を乾かすと、少しずつ、僕だけの匂いが戻ってくる。
僕は匂いが洗い流されなくて良かったと毎回、安堵する。
初夏になり窓辺はポカポカと暖かい。
日差しが柔らかくて、毛の奥までジンワリと届いてくる。
ここは僕のお気に入りの場所だ。
今日も窓辺で外を眺めていると、お店の作業台から薬草をすり潰す音が聞こえてきた。
ルイーズ様とマリオンが薬を作りながら話している。
「ねえ、マリオン。『温かい水が出る泉』に行こうかと思ってるの」
「いいですねぇ。気持ち良さそうですし」
僕の耳がピクリと動いた。
旅行。
温かい水の出る泉。
話を聞いていると、どうやら、街から馬車で一日くらいのところに、温かい水が湧き続けている泉があるらしい。
そこには宿もあって大きな風呂に入れるという。
そこ湯はシュワシュワと泡が出るらしい。
美肌とか、疲労回復とか、冷え性にいいとかで評判なのだとルイーズ様が楽しそうに話している。
僕は、美肌には興味がないけれど、シュワシュワの湯に入ると毛並みが良くなるのなら入ってみたいと思う。
ルイーズ様とマリオンは女性だし、最近は畑仕事も多いから、日焼けとか疲れとか、そういうのがあるのかもと思った。
「シュワシュワのお湯で肌がツルツルになるみたいよ」
「へぇ。肩こりにも良さそうですよね」
何て、二人で盛り上がっている。
そして二人はお風呂から料理の話に変わった。
宿は山の中にあるから、山菜料理が美味しいのだとか。
初夏の山の恵みは格別らしく、ルイーズ様もマリオンも目を輝かせている。
僕は、カリカリがあれば、それで満足だ。
山菜がどうとか、苦味がどうとか良く分からない。
でも二人が楽しそうなら、それでいいと思う。
まだ薄暗い早朝、ザレフグラフの街の馬車停から僕たちの乗った乗合馬車は、ガタゴトと心地よい音を立てながら街道を進んで行った。
僕はマリオンの側にある籠の中で揺られ、シモーヌは座って景色を眺めている。
街道の途中で何度か休憩があり、馬が草を食べたり、人間たちが休憩する間、僕たちも水を飲んだりして待っている。
そして夕方、ようやく、目的の『温かい水の出る泉』に着いた。
泉の周囲には数軒の大きな宿が建っていた。
どれも木造なのだが、街の宿よりもズッと立派に見える。
その中の一つ、『憩いの宿イズミ』 と書かれた看板の宿へ、ルイーズ様とマリオンは入っていった。
ロビーに入ると、広い空間に仄かに木の匂いが漂っていた。
壁には大きなクマやオオカミの置物が飾られていて、僕よりずっと大きくて強そうだ。
本物なら負けそうだ。
ルイーズ様が受付で宿帳に名前を書いている間、僕とマリオン、シモーヌはロビーのソファーに大人しく座っていた。
程なくして宿の人が部屋へ案内してくれた。
その部屋は、思ってた以上に広かった。
ベッドが二つ、テーブルにソファー。
そして部屋の隅には、動物用だろうか、柔らかそうな敷物が敷かれ、仕切られたスペースがあった。
そして、部屋の壁際には大きなタライも置いてあった。
部屋の近くまで泉の湯が引かれているらしく、そこからお湯を汲んで入れて、動物も入れるらしい。
「じゃあ、先に行ってくるわね」
マリオンとルイーズ様が二人で大浴場へ向かった。
僕とシモーヌは、お留守番だ。
二人が風呂に入っている間、僕らは特別やることもなく、長旅の疲れもあって柔らかい敷物の上に身を沈めた。
風呂の湯気が漂ってくるような、そんな気配がして、僕はいつの間にか眠りに落ちていった。
しばらくすると部屋の扉が開く音がして、暖かい湯気と共にルイーズ様とマリオンが戻ってきた。
二人とも頬を薄く赤く染め、髪からは微かに湯の香りがする。
とても気持ち良さそうで何だか輝いて見えた。
「お待たせ、アル。シモーヌ」
マリオンが部屋の隅に置かれた大きなタライへ湯を入れてくれた。
いい匂いがする湯で、シュワシュワと湯に泡が混ざっている。
シモーヌは、いつものように前足を入れ湯加減を確かめるとタライの中に体を沈めた。
シモーヌが息を吐き気持ち良さそうに浸かっている。
僕は意を決して前足を入れる。
「あ、熱つっ!?」
一瞬、そう思ったけれど、思ったほどでは無かった。
ゆっくりタライに入り、体を沈めると、フワッと緊張が解けていくようだった。
湯のシュワシュワが体毛を越して肌に触れ、プチプチする感じがとても気持ちがいい。
タライの縁に顎を乗せ、僕は気持ちよさを感じながら目を細めた。
僕たちがタライに浸かっていると、部屋の扉が『コンコン』と叩かれ、宿の人が夕食を運んできた。
夕食は部屋で食べるようだ。
テーブルいっぱいに料理が並べられる。
山菜の天ぷら、川魚の煮付け、山で採れたキノコ焼き、そして、お酒の入った瓶が数本、置かれた。
「すご~い!」
「美味しそうだな!」
ルイーズ様とマリオンはまるで子どもみたいに喜んでいる。
箸を持つ手が止まらないらしく、料理を口に入れては「美味しい!」と声をあげている。
二人の笑顔を見るだけで、僕はなんだか幸せだ。
ルイーズ様は、夕食の料理を嬉しそうに頬張りながら、お酒のカップに手を伸ばした。
マリオンも酒杯を手にしている。
僕はタライの中からマリオンを見上げる。
カップの半分ほどしか飲んでいないのにマリオンの頬は真っ赤になっていた。
あんなに赤くなって大丈夫なのだろうか?飲みすぎると、明日は大変だと思うけど。
ルイーズ様は水でも飲んでいるかのような勢いで、カップをカパカパと空けていた。
僕は、二人の賑やかな声を聞きながら、湯が気持ちよくて、まぶたがだんだんと重くなってきた。
どうやら、僕は夢を見ているらしい。
僕は広い水の中を、まるで魚にでもなったみたいに軽やかに泳いでいた。
横を見れば、大きな魚や小さな魚が、ヒラヒラ、クルクルと楽しそうに踊りながら泳いでいる。
魚たちの踊りがあまりにも楽しそうなので僕も真似してみる。
クルンと回ろうとして、僕は回れずにジタバタ。
難しい。
僕を見て魚たちは笑っているように見え、何だか僕も楽しい。
そんな時だった。
僕の目の前に『カリカリ』が漂ってきたのだ。
大きくて、金色に揺れて、とても美味しそうなカリカリ。
僕の周りにいる魚たちは口々に言った。
「だめ!危ないからそれは食べちゃだめ!」
「近づくな!」
僕は美味しそうなカリカリにパクリと食いついてしまった。
その瞬間、カリカリに付いていた釣り針に引っ張られ、僕の体はものすごい勢いで水面へ引き上げられる。
アッという間に空中へ放り出され、僕は板の上で、ピチャピチャと跳ねていた。
そこで、目が覚めた。
僕はタライの外の床の上で必死にバタバタしていた。
「プッ!ププッ!」
「アル、何してんの?」
「夢でも見てたの?」
ルイーズ様もマリオンも、そして、シモーヌまでも僕を見て大笑いしている。
僕は濡れた体を震わせながら、俯き、赤面した。
僕は、どうも、水と相性が悪いようだ。




