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先輩の教え

作者: 藤田

「おまえは、俺みたいになるなよ」


その言葉が、すべての始まりだった。


大学のゼミ室の隅で、重たい声とともに語られたその一言に、僕は強く心を揺さぶられた。相手は伊坂さん。社会人10年目、30代半ばで今や部長候補。なのに、言葉の端々からにじむのは、成功者の自信ではなく、どこかしら悔恨の色だった。


伊坂さんは、失敗を恐れて安定を選び、やりたいことをすべて棚上げしてきたらしい。新卒で選んだ会社は安定していたが、彼の心は年々すり減っていったという。週末の旅行、資格の勉強、副業、転職のチャンス——すべて「今じゃない」と思って見送ってきた。そして気づいたときには、選択肢が目の前から消えていた。


「おまえは、“今じゃない”を信じすぎるな。あとから来る“今”なんて、だいたい来ねぇから」


伊坂さんのアドバイスを、僕は一字一句逃さずメモした。その日から、彼のアドバイスに対して、僕はすべて「はい」と答えるようにした。


「興味あるなら、やってみろ」

「迷ってるなら、行動しろ」

「人間関係が原因で悩む前に、自分の立ち位置を変えてみろ」


彼の言葉通りに、僕は動いた。


面倒そうだったけどサークルの幹事も引き受けた。

人脈作りが大事だと言われ、飲み会にも顔を出した。

迷っていた長期インターンにも参加し、やりたいことがなにか分かった。

親の期待を気にしていたけど、最終的には自分の意思で就職先も決めた。


「全部、伊坂さんが言ったからやったんです」と話すと、彼は笑った。


「それでよかったのか? 本当に?」


僕はしばらく考えて、首を縦に振った。


「はい。自分で考えたら、きっと迷って逃げてました。でも、信じたい先輩がいたから、決断できました」


伊坂さんは、「そうか」と言って窓の外を見た。


「じゃあ、俺の人生も、少しは無駄じゃなかったかもな」


そう言ったその表情が、初めて少しだけ晴れて見えた。


それから10年後。僕は今、自分の人生に、そこそこの満足を感じている。すべてが完璧なわけじゃない。でも、一つだけ確信がある。


あのとき、後悔の重みを引き受けて語ってくれた伊坂さんの言葉に、「はい」と言えた自分は、少しだけ誇らしい。




伊坂視点


大学のゼミ室に顔を出すのは、これで何度目だろう。

後輩の指導という名目で来てはいるが、本音を言えば、俺自身が“やり直せる場所”を探しているのかもしれない。


今日も、例の青年——藤野が来ていた。

真面目で、素直で、ちょっと不器用なやつだ。


俺が彼くらいの年齢だった頃、もっと時間があると思っていた。

「今じゃない」と言えば、逃げられると思っていた。


やりたいことはあった。人と違う生き方も憧れた。

けど、親に心配かけたくなかった。周りに置いて行かれるのが怖かった。

だから「まあ、いいか」で就職した。

「いつか」は来ると思っていた。でも、何年経っても“その日”はやってこなかった。


気づけば30を過ぎていた。やり直す勇気も、責任という名の鎖で失っていた。


そんな俺に、「後悔してますか?」と聞いてきたのが、藤野だった。


「当たり前だろ」と言いそうになったが、飲み込んだ。

それを言ってしまったら、すべてが終わってしまいそうだった。


だから代わりに言った。


「おまえは、俺みたいになるなよ」


あの一言は、俺の人生を悔いた言葉であり、彼への祈りだった。


それからの藤野は、本当に全部「はい」と言って行動していった。

俺のアドバイスを信じて、挑戦して、結果を出していった。


正直、怖かった。


俺の失敗を埋め合わせるように動くその姿が、どこか痛々しくもあり、

そして、羨ましかった。


彼が成長していくほどに、「自分が過去に戻れたら…」という妄想が、余計に苦しくなる。


でもある日、彼が言った。


「全部、伊坂さんの言葉があったから、僕は前に進めました」


そのとき、初めて、少しだけ報われた気がした。


俺の人生が間違いだったとは言わない。

でも、成功とも言えなかった。

だけどもし、俺の失敗が、誰かの人生を押す追い風になったのなら——


それで十分だ。


俺にはもう、多くを変える時間はないかもしれない。

けれど、彼にはある。

そしてきっと、彼の背中を見た誰かが、また一歩踏み出す。


そうやって、人の人生は受け継がれていくのかもしれない。


俺のように「後ろ姿」で語るしかできない人間にも、まだできることがあるのだ。


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