第一章・西辺の荒境
夜の帳は血に染まった幕のように、森の上に重く降りた。
遠方から規則正しい騎馬隊の音が、速度を落とすことなく森を貫いて迫ってくる。音は次第に大きくなり、まるで胸郭を叩く鈍器のようだった。
木々の影が巨獣の牙のように月光を噛み砕く。エルディスの軍馬が腐葉土に足を取られた瞬間、三本の矢が彼女の首当てをかすめ、矢羽根が起こす風音が首筋に氷の破片のような寒気を走らせた。
金髪の女騎士は全身血まみれで、マントはとっくにぼろ布と化し、左肩のチェインメイルの裂け目からはまだ血が滲んでいた。魂を失った馬に跨り、根の絡み合った森の中を狂奔する。
枯れ枝が折れる音が四方八方から迫り、頭上では弓弦が引き絞られる音が響く。数十騎の黒い影が毒蛇のように木陰を縫い、黒いマントを翻していた。
突然、眼前に小川が現れた。
「行け――!!」
女騎士の怒号と共に軍馬が強引に跳ね上がり、闇夜に弧を描いて対岸の泥地に着地すると、腐葉土と泥水が飛び散った。
「暁の女神の名において――どうかこの地から脱させてください!」
エルディスの祈りは新たな矢の雨に引き裂かれた。一本は馬の腹に刺さり、悲鳴と共に馬はよろめいて倒れた。もう一本はヘルメットをかすめ、鉄錆の味と冷や汗が腰まで流れ落ちた。
彼女は転がるようにブナの板根にぶつかり、黒い血を吐いた。それでも必死に立ち上がり、両手で湿った泥を掴むと、喘ぎながら密林の奥へ逃げ込んだ。一振りの彎刀が風音を立てて彼女が倒れた地面に突き刺さり、刀身に刻まれた呪文が瞬時に藍色の炎を噴いた。炎の光が刀を振るった黒マントの男を照らし出した――フードの下は縫い目のある顔、耳元まで裂けた口から二股に分かれた長い舌がのぞいていた。
やはりザクワの雑種か!
女騎士は黒マントが刀を構える隙に腰の長剣を抜き、相手の頭皮ごと髪の半分を剥ぎ取った。血の滝が頬を流れ落ちる。
反手で嚎叫する首を斬り落とす。刃が飛沫する血を切り裂き、正確に別の追撃者の喉元に楔打ちされる。
さらに多くの黒マントが霧の中から現れ、エルディスを取り囲んだ。彼らの変異した爪がマントを引き裂き、鱗と腐肉が絡み合った体躯、真っ黒な大口を覗かせる。
森の奥から鋭い口笛が響く――それは命令だった。
「首を持って行け......ルサ・レン総管に献上せよ......」
唸り声が背後に集まる。エルディスが振り返った刹那、一人の黒マントが血滴る彎刀を振り上げた。
彼女は手にした泥を撒き散らし、この隙に逃げようとする。
誰かが笑った。その声は軽く、深夜の呟きのようだが、彼女の神経の一本一本に染み込んでくる:
「逃げろよ、小さい獲物......私たちはみんな見ているぞ」
彼女は突然、音もなく現れた影にぶつかった――黒マントの騎手が眼前に立ち、左手に彎刀を掲げている。
目を見開く。まるで死そのものを見たように。
「ヒュー――!!」
青白い火の玉が夜空を引き裂き、血まみれの彼女の顔を照らした。
火球は夜空を横切り、背後にある巨木に命中し、周囲の黒マントたちを馬上から吹き飛ばす。
衝撃が地面を駆け抜け、その瞬間彼女の喉は引き裂かれるような痛みに襲われ、眼前が一瞬真っ暗になった――だが歯を食いしばり、倒れなかった。
炎の残り火が巨木から落下し、焦げ臭い匂いが広がる。いくつかの破損した死体が炭化した土壌で痙攣し、空気は焼けた鉄の腥さに満ちていた。
「敵が……!」
「南東方向!まだいる!」
「警戒!陣形を組め!!」
怒号が乱れ飛ぶ。黒マントたちは急いで馬首を返し、泥濘の中で蹄を滑らせ、弓弦がカラリと張られる。鋭い矢先が一斉に火球の飛来した方向に向けられた。
森にフクロウの低い鳴き声が反響する。
焦げた霧の奥から、一人の人影がゆっくりと歩み出てきた。
茶色の麻布のマント、汚れ、破れ、全身を覆い、左手を高く掲げ、指先から青白い光が漏れている。霧がその周囲で内側に陥没するように動き、まるで空気自体がその存在を避けているようだ。
それは震え上がるような、息を詰まらせる魔力の奔流だった。
「息が……できない……」隊列の最後尾の小柄な黒マントが半ば音を絞り出すと、胸郭が不気味な弧を描いて陥没した。肋骨が若枝の折れるような音を立て、暗赤色の血の泡が七穴からゆっくりと溢れ出る――透明な巨手が優しくこの肉体を揉んでいるかのようだった。
木の根が土中で痙攣し、水流が川に逆らい、樹皮が水晶の簇のような水泡を噴く。
全ての人々の神経末端が、痛覚を超えた恐怖を伝えていた――それは下等生物が食物連鎖の頂点捕食者に直面した時、遺伝子の奥底から迸る原始的な戦慄だった。
茶マントは指を軽く曲げた。
森の空気が完全に凝固する。
彼が魔法を行使しているのではなく、森全体の法則が絶対的な力に媚びを売っているのだ。
「魔物の気配?」エルディスが呟く。
一人の黒マントが喉仏を震わせ、必死に背中の矢筒に手を伸ばす。
「陣形を!急げ!あの魔物は術師だ――近づかせるな!」
数十人の黒マントが慌てて半月型に馬を並べ、中央へと収縮する。彼らの動きは鈍く硬直していた。馬は嘶きながら旋回する。
弓兵は膝で馬腹を締め、弓を引く。だが指が震えている。
「風向きが悪い……回避される!十五度高く!一斉射撃!」
指揮官の唇は白く、こめかみに青筋が浮かぶ。
向こうの人物が、動いた。
ゆっくり歩くのではなく、一瞬で地面から躍り上がり、矢のように放たれ、一歩踏み出したかと思うと、狂風が轟然と巻き起こり、木の葉が足元で逆巻き上がる。
「放て――!!!」
叫び声はほとんど悲鳴だった。
弓弦が一斉に鳴り、百本の矢が虚空を切り裂く。矢の雨が激しくその人影に降り注ぐ。
しかしその人物は身を低くし、足は地面に触れず、マントが風に翻る。矢が切り裂いたのは風と影だけ、一本たりとも彼に届かなかった。
「再び放て――!!!」
だがもう誰も弓を引けなかった。
それはもう、そこにいた。
空中から飛び降りたその瞬間、一瞬の影が矢雨を交錯させ、雷鳴のように墜落した。
第一列の弓兵三人が直接吹き飛ばされ、鉄剣がその右手から抜かれ、空中で悪夢のように漆黒の稲妻をまとう。それは炎の熱ではなく、魂を凍らせる寒気だった。
剣が一閃、三つの首が音もなく落ち、血の柱が数尺も噴き上がり、後ろの第二列の顔に降りかかる。
「下がれ、下がれ――!距離を取れ!」
「防げない――こいつは術師じゃない、こいつは――」
その剣がさらに一閃、一頭の軍馬の腹を斬り裂く。馬の腹が破れ、内臓が爆ぜた酒袋のように溢れ出て、馬上の騎手を生きたまま血溜まりに押し込んだ。
黒マントたちは恐怖のあまり後退するが、隊形はすでに乱れ、弓兵が逃げようとした時、一人が背中から斬られ、そのまま地面に釘付けにされ、脊椎が真っ二つになった。
「血に飢えた魔物だ……!撤退!!」
「急報を――ルサ・レンに直接来させろ――!」
悲鳴、号令、混乱した蹄音――全てが引き裂かれる。
全陣形がわずか数秒で崩壊した。
茶マントはすでに陣中に突入していた。
もはや走っているのではなく、斬殺の波間に遊泳している。その身は冥界の川の流れのように迅速で無情、剣鋒が向く度に一人の黒マントが嚎叫しながら倒れる。
剣で受けようとする者もいたが、その剣は彼らの武器にさえ触れようとしない――刃を避け、直接咽喉や眼窩や口腔を貫く。
剣の下で消える亡者は敵と呼ぶに値せず、家畜――屠殺場のように、血肉が飛散し、骨が爆ぜる。
血が泥地に糸を引くように流れ、切断された四肢が歪んで積み重なり、折れた馬の脚にはまだ主人の肩骨がぶら下がっている。
「……聖なる主よ、こいつがどうして我々の標的だ――こいつはそもそも――」
「振り返るな!見るな!!」
だが彼らはみな見てしまった。
その魔物は片手で息絶えた黒マントの死体を提げ、ゴミのようにまだ息のある別の者の上に叩きつける。足元で一踏み、二人の重なった死体から血が噴出し、地面はさながら切り開かれた馬の腹のようになった。
最後の数人の黒マントはすでに胆を潰し、弓を引くこともなく、馬を返して狂奔した。
だがその者は足を止め、剣を背中に収めると、左手を伸ばし、五本の指を握り合わせた。
大地が轟き、黒い裂け目がその足元から蛇のように地中へと這い、逃げる者たちを瞬時に追い越す。
数頭の軍馬が騎手ごと下から突き上げられ、空中に放り出された騎手の体は歪み、引き裂かれた人形のように幹に叩きつけられ、乾いた骨の折れる音を立てた。
最後の悲鳴が静寂の中に反響し、夜鳥の驚いて飛び立つ羽音と混ざる。
戦場は、静かになった。
唯一まだ息をしているのは、双方に見逃されたエルディスだった。彼女は全身を震わせながら、その人影がゆっくりと近づくのを見つめた。血がそのブーツの後ろに尾を引く。
エルディスは目を見開いた。その者は背後の炎に逆光し、顔はフードの中に隠れている。ただ灰色がかった銀色の光を放つ目がマントの中で幽かに燃えていた。
「撤退!!急げ――」
最後の一人が振り返って逃げようとしたが、その影はただ一瞬、瞬間移動のようにその背後に現れ、剣鋒が頭頂から脊椎まで一直線に斬り下ろす。
痙攣する両手が高く舞い上がり、すぐに地面に叩きつけられる。
周囲は死の静寂に包まれた。
死体が泥濘の地面に散乱し、濃霧の中にはただ血の匂いが立ち込めるだけだった。
その魔物はゆっくりと振り返り、まだ幹にもたれて息をしているエルディスに視線を落とした。剣先に滴る血は、まるで彼女の運命を決めようとしているかのようだった。
空気が再び凍りつく。
彼女は見た――その影がゆっくりと近づいてくるのを。
足取りは極めて遅いが、一歩一歩が振り子のように彼女の脊椎を叩く。
パン――
パン――
相手は彼女の面前で止まり、落とす影が彼女の顔全体を覆った。
そして――しゃがみ込んだ。
深海にいるかのように、魔力が彼女の神経と胸郭を圧迫する。エルディスはひどく震え、口から押し殺した嗚咽が漏れる。その影は手を上げ、ゆっくりとフードを後ろに払った。
灰色の髪がさらりと流れ、狐耳が月明かりの中で震える。それは若い少女の顔だったが、目には何の光もなく、ただ地獄の審判のような冷たさがあった。
「お前は誰だ?」その声は極めて軽いが、魔力を含み、潮のように押し寄せる。
エルディスの唇が震え、嘘をつこうとするが、自分が名前さえ隠せないことに気づく。
「私、私はエルディス・ステグノクト……ワヌビアン城……領主の娘……」
「ホフディン冬営地の連中が、なぜお前を捕まえようとした?」
「私、カタリ城督の命を受けて……使者としてホフディンに手紙を届けるためです」
狐耳の魔物は静かに彼女を見つめる。
「あなた……この森の主ではなかったのか……」エルディスが呟き、ついに涙が流れ出た。震えながら膝をつき、頭を下げ、震える声で哀願する。「お願いです……私を放ってください……彼らが、彼らが私を捕まえようとしたのです……私がここに侵入したわけでは……二度と戻りません……お願いです……」
彼女は自分が今騎士ではなく、泣く逃亡兵のようだと知っていた。だがあの魔物の殺戮を見てしまった……次の裂かれた人形になりたくない。
しかし、次の言葉はどんな剣よりも彼女を辱めた:
「お前は女騎士ではないのか?」狐耳の少女が問う。「騎士は他人に赦しを請わないと思っていたが」
エルディスは凍りつく。
「だが、お前が赦しを請う姿は悪くない」魔物は俯きながら言う、声は呪文のように柔らかい。
彼女の指が無意識に握り締められるが、涙はさらに激しく流れ落ちる。
「あなたは……彼らを殺した……私は……あなたがこの森を守る魔物だと……」
狐耳の少女は立ち上がり、背後の影が墓石のようだった。
「私はたまたま通りかかっただけ……」振り向き、灰色の髪が風に靡く。「それだけだ」
エルディスはかすかな勇気を振り絞り、震える声で問う:
「あなたは……いったい誰なのか……?」
その魔物は足を止め、ゆっくりと振り返る。
「なぜ教えねばならん?」
少女の影が木陰を通り、月明かりに背を長く引きながら、遠くの霧の中へと歩み去り、水に溶ける墨のように消えていった。
エルディスは呆然と地に座り、鎖帷子の裂け目から血がポタポタと足元の落ち葉に滴る。立ち上がろうとするが、左足の傷で再び膝をつく。しかし傷の痛みは、魔物が去り際に残した恐怖に比べれば取るに足らない。
あれは一体何だったのか?魔物なのか?もし血に飢えた魔物なら、なぜ彼女を見逃した?
だが今彼女が唯一理解していることは:
彼女はまだ生きている。
なぜ生かされたかはわからず、考えるのも恐ろしい。
彼女は必死に立ち上がり、半死の体で森の縁へと這うように進んだ。
朝霧が死臭を包んで森を通り過ぎる頃、彼女はようやくよろめきながら小川にたどり着いた。水面に映った自分の顔に戦慄する――乾いた血痂が金髪を錆色の塊に固めていた。死体から剥いだ布切れで傷を洗い、包んだ。
足取りはふらつき、何度も泥濘で滑り落ちたが、幸い濃霧の立ち込める林道を抜けられた。夜明け前、ようやく南の森の外にある交易路に手が届いた。
エルディスは石に座り、苦痛に耐えながら待った。
きしむ荷馬車がゆっくりと通り過ぎる。御者はテンの皮帽を被った中年男、荷台には麻袋と陶器が積まれ、醤油や酒や干し草の匂いがした。
「おい!娘さん?これは……なんてこった!」御者は彼女の姿を見て叫んだ。
エルディスは見栄など気にせず、ただ歯を食いしばり嗄れ声で言う。「三鎖城まで……三鎖城まで送ってください……お金はあります……」
御者は一瞬躊躇し、彼女の傷だらけの姿を見て、結局ため息をつき、荷台に乗せ、干し草の上に麻袋を敷いて寒さを防がせた。
「三鎖城ならいいが、もし誰かに追われているなら、俺に巻き添えだけは御免だ」
エルディスはただ目を閉じ、喘ぎながら横たわる。
車輪がきしみながら回る。
馬車は山道をゆっくりと進み、車輪が砕石と泥水を軋ませる。道の両側には密生した山林が迫る。
道中、エルディスはほとんど昏睡状態だった。傷口は車体の振動で粘り気のある血を滲ませ、衣服は皮膚に貼りついて薄い鉄板のように硬くなり、少しでも動くと焼けつくように痛んだ。
ある夕暮れ時、干し草煙草を吸いながら御者が指差して言った。
「着いたぞ、三鎖城――もし中から生きて出られるならの話だが」
エルディスは毛布の端をめくり、必死に起き上がる。
三鎖城は、両側の岩山の隙間に無理矢理押し込まれたように見えた。崖の間に挟まった都市は、古代の交易隘路に巣食う石の骨の隙間の寄生虫のようだ。入城路は刃物のように狭く、門番は色褪せた鎧をまとい、客を怠惰に見下ろす。
石壁は高いが、すでに時の侵食で青い斑点と亀裂だらけ。壁面にはびっしりと木造家屋が貼り付き、傾いた屋根、剥がれた瓦、風に揺れる布のれんが斜めに掛かる。
馬車が本通りに入った瞬間、喧噪が熱気と共に押し寄せる。
通りには五種類以上の匂いが充満していた――油煙、馬糞、鉄錆、火薬、アルコール……混ざり合って吐き気を催す悪臭となる。
呼び声があちこちで上がる。酒場の前で瓶を抱えて罵る酔漢、継ぎだらけの服で角で叫ぶ行商人、毛皮の襟巻をした二階の窓から手を振って誘う娼婦、「魔除けの札」を売る占いの老人。
馬車は混乱した本通りを抜け、車輪が濡れた紙と腐った果物の皮を轢く。ある子供が突然飛びついて荷台に掴まるが、御者に蹴り飛ばされ、罵りながら鞭で追い払われる。
エルディスは車内で、この都市の喘ぎを見つめる。
馬車が街角を曲がり、ようやくある宿の前に停まる。戸口には裂けた木の看板が掛かり、読みにくい文字で「大金鴨旅館」と書いてある。
「運が強ければいいが」御者は振り返って彼女を見る。「三鎖城に知り合いの医者はいるのか?」
エルディスは俯いて息を整え、歯を食いしばり、半身を引きずりながら馬車から降りる。
「探していただけますか」
御者は宿の者に呼びかけ、階段を上らせる。
「医者を連れてくる。生きてろ、命の借りはあるんだからな」
隊商が剥がれた城徽――三本の交差した青銅の大錠の浮き彫り――を軋ませる時、エルディスは枕に顔を埋める。
岩山の影が棺の蓋のように降りる。
彼女は宿の屋根裏部屋にいる。毎朝、薬師がマンドレイクと蜂蜜を煮込んだ薬鍋を運び、窓枠の銅盆にはいつも血のついた布が浸かる。あの斬り裂かれた黒マントの顔が真夜中に夢に現れ、より頻繁に見るのは、あの暗紅色の狐耳少女の目だった。
三鎖城の日々は、薬臭く、かび臭く、軟膏のように粘稠に流れる。
エルディスは屋根裏の寝台で最初の十日を過ごした。傷はゆっくりと癒え、肩の矢傷はすでに厚い痂を結び、胸骨の骨折の鈍痛も薄れ始める。
窓外の陽光はいつも霞んでおり、色褪せたカーテンと錆びた窓枠に流れ、病的な金色を帯びる。三鎖城の空は永遠に昏い――山あいの隙間に潜むこの都市が、千本の煙突の吐息で空を汚しているからだと彼女は推測する。
「今日は二、三歩歩けると医者が言ってた」宿の小僧ルールが呟き、銅盆を床に置く。底には綿毛のような薬滓が浮く。
「あの御方にまだ借りがある」エルディスの声はまだ嗄れている。「ルール、この手紙を金蝋商会に届けて、エルーシャのステグノクト家に送ってほしいと頼んでくれ」
「あそこに縁者が?」ルールは布を絞りながら、横目で彼女を見る。
「いる」エルディスは目を閉じ、壁にもたれる。
ルールは肩をすくめる。「手紙は届けるが、金が遅れると、薬の世話もずっとはできねえぞ」
「家族から送金がある」彼女はゆっくりと息を吐く。
数日後、彼女はゆっくりと階段を下りられるようになった。
宿の一階は最も匂いの強い場所で、ぼろ布と煙の臭いが混ざる。斜めに裂けた木の杖にすがり、階段で向きを変える時、聞き覚えのある声に呼び止められる。
「おい、娘さん」その男は笑い、帽子の下から濃いひげと金属の耳輪が見える。「命の硬いことは分かってた」
エルディスは彼を見つめる――スナイン、森の外から彼女を連れ出した御者だ。
スナイン・ホルーはキアチェからの商人で、銅鉄と香辛料の運送を生業としている。
「命の借りがある」彼女は言う。
「命だけじゃない、ナビシス銀貨十枚の借りもあるぞ」男は口を歪めて笑い、隅の古い椅子に彼女を導く。「だが急がなくていい。確かめたが、エルーシャからの返信には二十日はかかる。往復で……少なくともあと一月はここにいるつもりでいい」
「ただで食い潰すつもりはない」彼女は微かに眉をひそめる。「手伝えることがあれば、あなたの好意の一部でも返したい」
御者は目を細めて彼女を見下ろし、ひげの下の口元に興味深げな表情を浮かべる:「女騎士が商人の手伝いをするのは恥ずかしくないのか?」
もっと屈辱的なことはもう経験した、と彼女は思う。
「死人のように横たわっている方が栄誉を表せるとは思わない」彼女は言う。
御者は笑い出した。マントを脱ぎ、彼女の正面にどっかりと座る。
「ちょうどよかった、商会で門番が一人足りなくなってる」彼は彼女の肩を指す。「立ち上がれるとは思ってなかったが、見たところ、酔っ払いを二人くらい追い払えそうだ」
「これは……?」
スナインは眉を上げる。「『手伝い』と言うなら、実際に役に立ってもらおう」
エルディスの喉が締め付けられる。
単なる雑用なら迷わず承諾しただろうが、自分が表に出ることを考えると、騎士の尊厳と貴族の血筋が体内でうなる。
彼女はゆっくりとうなずく。
「やります」
翌朝早く、スナインは彼女をガンディ商会の倉庫に連れて行った。岩壁に埋め込まれた低い建物で、路地に挟まれ、屋根は灰色の瓦で覆われ、壁には亀裂が走る。入口には小さな袋のマークが掛かっている。
「昼間は門番をしつつ、荷役の邪魔をするなよ、ならず者を追い払え」スナインは手札を渡す。「商会の執政証だ、本気で効くわけじゃないが、威嚇には使える」
「ここでは貴族が街中で襲われることもあるのか」彼女は低く呟く。
「貴族?ここでは二歩歩けば三人の自称亡命貴族の乞食にぶつかる」スナインは白い目を向ける。「倉庫の前で七日間無事に立っていられたら、そりゃ奇跡だ」
彼女は何も言わず、ただ手札を受け取り、指で木の板を撫でる……
三鎖城の小路は大通りよりも静かではない。
彼女は倉庫の前に立ち、後ろでは香辛料の匂いのする箱を運ぶ労働者がいる。路地の突き当たりには編み込みの女たちや七つ八つの言葉で叫ぶ雑貨屋がいて、時折彼女に野次を飛ばす者がいる。
「おい、女騎士、その長剣で俺のベルトを切ってくれないか?」
「ネズミを驚かすつもりか、それとも行商人か?」
彼女はスナインの助言に従い、微動だにしない。
だが二日目の夕方には、三人の禿げた酔っ払いが倉庫に酒を盗みに入ろうとした。彼女は剣を抜き、先端を一人の鼻先に突きつける。
「飲みたければ、まず自分の血の味を嘗めさせてやる」
彼らは罵りながら去る。
三日目、彼女は木箱の麻縄を盗もうとした少年を捕まえた。実際に手を下さず、ただ耳を一つ切り裂き、商会の前で耳を押さえながら謝罪させた。
十日目の夕暮れ、空は灰色に曇り、雲が山峡全体を押しつぶしているようだった。
エルディスは倉庫前の荷箱に座り、背後から油と漬けオリーブの匂いが漂い、荷役たちは北部の俗謡で猥雑な歌を唄う。
スナインの姿が倉庫の戸口に寄りかかり、手に麻布の包みをぶら下げている。
「なかなかやるな、十日連続で怪我人なしは奇跡だ」
彼はその包みを差し出す。
エルディスは受け取り、中には新しい青銅の徽章が入っていた。図柄は太い手が布袋を握り締めている。
「今日から」スナインは言う。「お前はガンディ商会の正式な門番だ」
彼女は黙って徽章を握りしめ、その冷たい金属が手のひらに沈むのを感じる。重さは石の墓の扉のようだった。
その夜、宿に戻る路地で、野良猫の叫び、乞食の罵声、どこかの二階から漏れる嬌声が聞こえる。
風に混じる煙草の匂い。
彼女はゆっくりと沈んでいくのを感じる。
自分はエルーシャ城の大高座会から認められた女騎士で、儀式用の剣を握り、金瓦の階段を歩いたことがある。それが今では、街角で酔っ払いを追い払い、靴底で泥棒の指骨を踏みつけ、盗んだのが商会の塩袋かどうか問い詰める。
これが騎士と呼べるのか?三鎖城の犬にすぎない。
だがこれは自分が求めた機会だ。今思えば、責めるべきは自分だろう。
エルーシャの親族が手紙を読んだか――読んでも無視したのかもしれない。
薄暗い路地で、彼女は宿に戻らず、通りの向かいの白牙酒場に入った。豚の骨が戸口にぶら下がる酒場で、油煙と黴の臭いが古い毛布のように壁にこびりついている。
彼女は一番安い蒸留酒を注文した。一杯また一杯、喉を焼くように飲み干す。
ひどく酔った。
隣の客が弄ぶ煩わしい独楽に腹を立てた時、相手は大声で言った。「てめえ何様だ?」
「私は高座騎士だ……!ワヌビアン城領主の娘!爵位があり、エルーシャの血を引く、お前ら下賤の民など……!」
人々は哄笑する。
「騎士?お前のこと知ってるぞ、あの麻袋商会の門番じゃねえか」
「忠実な番犬勲章を授けようか?」
「俺が斬った死人はお前が寝た女より多いぞ!」エルディスは瓶を相手の足元に叩きつける。よろめきながら立ち上がり、満座の笑いを誘う。
酒客とその仲間も立ち上がり、人々がもみ合う。
混乱の中で誰かが彼女の首当てを引きはがし、彼女は拳を柔らかい物体にぶつける。悲鳴、倒れる机、割れるガラスの音が暴力的な潮のように集まる。
「出て行け、ここに狂人は要らん」
最後には主人が人混みから彼女を引きずり出し、剣ごと門口に放り出した。
酒場から放り出された瞬間、後頭部が道端の粘ついた水溜りにぶつかり、その鈍い音は落馬の記憶と完璧に重なる。
エルディスは汚水に膝をつき、浮いた油に歪む自分の影を見る――エルーシャの舞踏会で誘いをかけたあの目は、今では濁った絶望で満たされていた。
街の夜は思ったより冷たく、井戸水に浸かったように、骨まで凍える。
彼女は佩剣で体を起こし、よろめきながら街角を通り過ぎる。混沌とした視界の中、突然見覚えのある輪郭を捉える。
茶色のマントの人影が、人気のない路地に立ち、誰かと低く話している。風がマントの一端をめくり、鋭い狐の尾の輪郭を一瞬覗かせる。
エルディスは突然凍りつき、酔いも驚きで幾分か醒める。
あの背中を覚えている。
あの魔物だ!傍にいるのは、おそらく城南の傭兵隊長。
あの恐ろしい気配は発していないが、あの魔物の姿を間違えるはずがない。
二人が別れると、彼女は魔物の後を追い、必死に駆け寄る。
「ついに見つけた!この魔物め!」
声は嗄れ、喉を引き裂くようだ。
飛びかかる時、相手はすでに素早く振り向き、茶色の瞳がマントの下で一瞬赤く光る。
狐耳の少女は冷静に彼女を見つめ、指先が静かにブーツの筒へと滑る――薄刃の短剣が隠されている。
エルディスは気づかない。ただその布地を掴み、涙と酒気と怒りが混ざり合い、鼻を刺す塩辛さとなる。
「裁きやがれ!魔物!」咆哮が軒先の氷柱を震わせる。「お前が救った騎士がどんな汚れた姿になったか見ろ!」酒気と涙の塩辛さが顔を流れる。
「知っているのか……私は戦に参加し、魔物を斬り、功績を立て、鷹の羽根帽子を被って帰城し、誰もが認める……真の騎士だと知らしめる夢を見た!」
「だが今は――」声は低くなり、強い酔いを帯びる。「今はこのゴミ溜めで惨めな下働きをし、毎日ゴキブリや泥棒、腐った酔っ払いと殴り合う。酒場から放り出され、笑われる。もし……もしあの時お前があいつらを殺さなければ、私は騎士として栄光の死を遂げられたかもしれない!」
声はさらに低くなり、酔いが込み上げ、涙で視界がぼやける。
魔物の手を掴み、自分の胸に当てる。
「お前ら魔物は人間の絶望が一番好きだろ?さあ!満足したらこの堕落した魂を深淵に捧げろ!私を殺せ!」
魔物はすでに短剣の柄に触れていた指をひるがえし、鞘に収める。
淡々と口を開く。
「騎士?騎士として死にたいのか?」
エルディスは呆然とする。
「なんて……哀れな」彼女は呟くように言い、唇をゆっくりと歪める。「二度目の機会を与えたのに、死を選ぶとは……」
エルディスの手がだらりと下がる、ぼろ布のように。
魔物は彼女を見つめ、瞳にかすかな憐れみが浮かぶ。
「二ヶ月前、確かに高座騎士と名乗る男を殺した。一隊の騎兵を率い、魔物討伐と称していた。彼と傭兵たちの死体に油をかけ、野原で骨も残らぬよう焼いた」
エルディスの喉から嗄れた嗚咽が漏れる。
「どうして…………不公平だ」
狐耳の少女はゆっくりとしゃがみ込み、冷たさすら感じる平静な目線を向ける。
「自己欺瞞の姿勢はこんなに醜いものか」
魔物は独り言のように呟き、微笑む。
「お前が汚れようが、私に関係あるか?栄誉ある死を口にするくせに、騎士の名号にしがみつくなら、カビたパンを齧る時も36種類の食事作法を守れよ」
彼女は嘔吐物のついた襟首を掴み上げる。
「自分で今の姿を見ろ?最低の乞食ですらお前よりましだ――それなのに、恩人の私に向かって暴れるとは?」
エルディスは剣に手を伸ばす。
狐耳の少女は手を放し、彼女を地面に転がす。ブーツで剣を握ろうとする左手を押さえつける。
「堕落すら陳腐にこなす惨めさ。お前はただ誰かに終わらせてほしい臆病者で、自害する勇気すらない」
ブーツを外し、声は夜に刺す氷柱のよう:
「死にたきゃ今すぐ自分でやれ、私は見向きもしない……だが実際は、私が遠くに行けば、蛆虫のように巣穴に戻るんだろう」
手を伸ばし、エルディスの頬に乾いた涙の跡を軽く撫でる。
エルディスは目を閉じ、歯を軋ませ、肩を震わせる。影の中に埋もれ、堕落に完全に飲み込まれそうになる。
だが――その火はまだ消えていない。
狐耳の少女が立ち上がり、去ろうとした瞬間、彼女は突然マントの裾を掴み、汚れた地面に跪き、ぼろ布のように震えながら、顔を上げて相手の背中を直視する。
「さっき……傭兵隊長と話していましたね?」
狐耳の少女は足を止める、返事はしない。
「人員を募集しているのでしょう?」声は途切れがち。「聞きました、傭兵隊が最近外部の戦士を探していると。魔物であるあなたが募集側ではないなら、ただ一つの可能性です、あなたはその依頼主――目的が何であれ」
相手はゆっくりと振り返る、狐耳が風に微かに震え、高みから彼女を見下ろす、首を差し出す猟犬を審査するように、左手は知らず知らず短刀を抜いている。
「で?」
「私を連れて行ってください」エルディスは歯を食いしばり、指が泥に食い込む。「あなたに仕えさせてください。私はエルーシャのステグノクト家の長女――リカトシア南岸の貴族です。たとえこの私が役立たずでも、この名はきっとあなたに幸運をもたらします」
狐耳の少女はしばし黙る。
「リカトシアの貴族だと?」
エルディスは震える手を伸ばし、くすんだ真鍮の指輪を外す――紋章入りの指輪で、輪に半月と交差した剣が刻まれ、内側には「ノクト永寧」の古典的な加護の言葉が刻まれている。
指輪を差し出す、最後の賭け金のように。
「これが私の身分の証です」
狐耳の少女は黙って指輪を受け取り、指で擦りながらほとんど摩耗した家紋を確かめる。偽物ではなく、道端の鍛冶屋の作れる装飾品でもない――正式に与えられた貴族の品だろう。
「もし嘘なら……」
「私は騎士でした」エルディスは息を切らす。「これが私の底线です、ただ……この街で敗残者のように死にたくないだけです」
狐耳の少女は顔を上げる。
「騎士の尊厳……とは他人の施しで生きることか?」冷たく問う。
エルディスは目を閉じ、唇が蒼白になる。
「そうかもしれません」彼女は低く言う。「この路地で酔い死にし、誰にも回収されない腐肉になるよりはましです。あなたは魔物、面倒な交際にどう関わるおつもりですか?私は正規の訓練を受けています、どうかあなたの騎士として傍に置いてください」
狐耳の少女はすぐには答えず、指輪を一回転させ、彼女に投げ返す。
「とりあえず持っておけ、もし価値があるなら、名乗りとして携えるのも悪くない」
「だが覚えておけ、私の目には、お前はもはや騎士ではない」
その口調は宣告のようだった:「お前は私の犬にすぎない」
エルディスは反論しない。
頭を下げ、指輪を再びはめる。
「はい」
狐耳の少女は何も言わず、ただ路地の奥へ歩き去る。
「お名前を伺いたい!」彼女は叫ぶ。
魔物は振り向きもせず、小路を出ていく。
彼女は地面から体を起こし、まだ醒めない頭で、酒気と夜風の中を独り歩く。
これは全て何のためか?
栄誉のためでも、信仰のためでもない――
この腐った土の中で、まだ腐っていない部分を見つけるためだ。
あの朝の空は灰色で、窓外の霧に黴が染み込んだようだった。
階下の釜には火が入っておらず、空気はまだ夜の冷たさを残す。エルディスはゆっくりと目覚め、意識がまとまる前に骨の隙間から鈍痛が走る。唸りながら寝返りを打ち、灰白色の毛布にくるまり、麻布の枕に顔を埋めて再び昏睡に逃げようとする。
体をひねった時、ふと一対の目が静かに自分を見つめているのに気づく。
全身が震え、ほぼ反射的にベッドから転がり落ち、起き上がる。背中に薄い汗がにじむ。隅の椅子に、あの見覚えのある人影が座っていた――狐耳がフードから覗き、灰色の髪が肩にかかり、その目は深く静かで、石棺の肖像のように無表情だ。
足音も、ましてや扉の開く音さえ聞こえなかった。
「あの……」エルディスは思わず口にし、すぐに言葉を噛み切る。唾を飲み込み、戦慄にも似た緊張を抑え、歯を食いしばって絞り出す:「旦那様……どうして……ここに?」
声を平静に保とうとするが、微かに震える。毛布の下で拳がベッド枠を握り締める。
自分の願いが冒涜と見なされたのか?それとも消されるべき尾行だと?
この存在を理解していない――その人型の外皮の下にあるものは、人間性などではなく、自然法則にも似た冷たい論理に近い。
それでも背筋を伸ばし、ゆっくりと床から起き上がり、膝をつく時に軽い音を立て、恭順した抑制された声で:
「私の不敬をお許しください。もし今日が前の無礼を正すためなら、罰を受けます。ただ……もしまだお役に立てることがあれば、ご命令を承りたいのですが。どうやってここまで?」
室内は静寂。マントの下の視線が刃物のように彼女の体を撫でる。
そして、ついに声が響く:
「お前を見つけるのは難しくなかった。ここでは……見つからないものなどない」
彼女は頭を垂れる。
「お尋ねします……旦那様が今日……何のためにおいでに?」
言葉遣いは極めて慎重で、声は探るようで、不安定な震えを隠す。
狐耳の少女はゆっくりと立ち上がり、エルディスの前に来て、跪く姿を見下ろす。
「考えはまとまった」微笑みながら言う。「お前は私の側近となる。今から、私がお前の存在を不要と判断する時まで」
エルディスは顔を上げ、一瞬頭が真っ白になる。
「なぜ……」と口をつく。
「なぜなら……少しは役に立つと分かったから」魔物の少女は目を細め、口元を上げる。
「情報屋によれば、アロム地方でお前は黒沼の戦いに参加し、単騎でサントロ山の鷹を突破したことがある。戦場での記録……騎士の名に恥じぬ程度には使える」
「前に私の名を尋ねたな、今教えよう」
狐耳の少女はフードを軽く払い、白く冷たい顔を露にし、肩までの灰髪を振る。
「私は――トボル山のシルレヴィカ・オクシリス・クリヤリウス」
その名が響いた瞬間、エルディスの頭の中で爆発が起こる。
オクシリス、この姓を聞いたことがある。ポリシリ皇廷の分家の一つに与えられた姓だ。
だが……それは除名された血筋、何年も前に粛清された傍系の忌まわしい一族だ。
「その表情で、私の関係を察したようだ」狐耳の少女が続ける。「私はマイロンへ向かう、偉大な理想を果たすため」
ゆっくりと身をかがめ、額に顔を近づけ、声を耳打ちのように低くする:
「そして私の名を知った以上……」
一呼吸置く。
「お前に選択の余地はない」
「裏切れば殺す。この傷だらけの体で真の栄光を目撃するか、今すぐ私の靴底の血痕になるか」
エルディスは眩暈の中、魔物の目に神聖すら感じる熱狂を覗く。
彼女はその脅しを避けなかった。
ただゆっくりと頭を下げ、声は蚊の鳴くほど小さい:
「承知しました、旦那様」
この瞬間、かつて儀式で剣を授けられた女騎士は、完全に魔物の足元に跪いていた。
小さな食堂ではスープの香りが漂い、調理台の向こうから湯気が立ち上る。中は人でぎっしりだ。客は水槽に閉じ込められた魚のように、狭いカウンターに肩を寄せ合い、黙々と食事をし、時々麺を啜る音を立てる。熱い油の濃厚な香りと、鍋掻きが壁に当たる軽やかな音が混ざる。
木の扉がきしみながら開き、湯気と濃厚な出汁の香りが押し寄せる。湿気で柔らかくなった床板が、足の裏で軋む。
シルレヴィカは入口に立つ店員に手信号を送り、エルディスを連れて通路を進む。
食堂の隅の木戸を開け、中に入ると、目立たない小さな物置部屋だった。周囲には乾物、調味料、漬物の棚が並び、隅には小麦袋と醤油樽が積まれ、干しエビ、干し昆布、発酵前の麺団の匂いが混ざる。
中央に小さな丸テーブルがあり、木の椅子に茶色の巻き毛の男が座っている。上質な短袍を着て、片手に丼を持ち、ゆっくりと食べている。扉の音に顔を上げ、縁にスプーンを置き、口拭きを取り、だらしなく話し始める:
「来たね、クリヤリウス様」
シルレヴィカは頷き、男の前に置かれた小皿に視線を走らせる。
「ベラウ」
ベラウの視線はエルディスに移り、眉を上げて尋ねる:「これが例の騎士か?」
「ああ」シルレヴィカが答える。
ベラウは半眼でエルディスの体躯を上から下まで見下ろし、隠さない好奇心を示す。その視線は無礼ではないが、彼女はなぜか商品の馬を見られるような不快感を覚える。
男は微笑む:「騎士の分際で、どうして魔物に仕える気になった?」
エルディスは一瞬言葉に詰まる。
シルレヴィカの正体が限られた者のみ知る秘密だと思っていたが、この倉庫に座る男が「魔物」と平然と言い放つことに驚く。
「あなたも……彼女が……?この姿は偽装かと……」
「今は私が聞いているんだよ、お嬢さん」ベラウが指を振る。「だがまあ、ここまで来た以上、心の準備はできているんだろう?」
「騎士として、強者に仕えるのは自然なこと」
ベラウはうなずく。
「力に憧れるタイプか……まあ、よくある動機だ」丼を遠ざけながら言う。「では、自己紹介しよう」
背もたれに寄りかかり、口調が軽くなる。
「ベラウ・ニデル、ザクワ出身。ここらでちょっとした商売をしてる、不良品を買い取って辺境の村に転売する。大したことないように聞こえるが、実は深いんだ……」
話し始めると堰を切ったように、貢物の規格、職人への賄賂の渡し方、町の監視を避ける方法、空の帳簿で物資を引き出す方法、商会の信用を利用した資金繰りのレバレッジまで、早口でまくし立てる。
エルディスはまるで糊を飲まされたように、「帳簿」「現金化」「保証人」といった聞き慣れない単語に頭が混乱するが、遮るのも憚られる。
シルレヴィカが咳払いする。
「本題に」
ベラウははっとしたように笑う:「あ、そうだった。脱線してたな、すまんすまん」
エルディスに尋ねる:「何か食べるか?この店の株主だから、品質は保証するぞ」
「結構です……ありがとう」彼女は緊張して手を振る。
ベラウは気にせず続ける:「俺はな、若い頃ザクワの北西の田舎でぐれた、親は早死にで、少し土地と金が残ってた。昔はだらしなくて、女と遊んだり犬の競争させたりが日課だった。ザクワが乱れてきた時、ふと思ったんだ、これだ、大きいことをやる時だと」
「屋敷と近所の領地を質に入れ、戦の資金を集めて攻城略地を始めた。当然ザクワ当局に目をつけられ、領主令違反だかなんだかで憲兵隊が来て、財産を差し押さえられた。部隊を連れてザクワから脱出したが、兵はどんどん逃げ、最後には俺一人と何箱かの札束だけが残って、ここまで逃げてきた」
手を広げ、笑い飛ばす。
「ここでシルレヴィカ閣下と出会った」
エルディスは一瞬黙り、突然尋ねる:「あなたたち……結局何をしようとしているのですか?」
ベラウは言葉を切り、口元を歪める。
「おう――それはな」
「まだ教えてない」
「それは君の落ち度だ」ベラウは楽しそうに言う。「新人を募集する時に将来の展望を説明しないなんて、不届きだ。俺を見習え、もっとプロ意識を持て」
シルレヴィカが耳を動かすが、ベラウは先に口を開く。
「俺たちはマイロンを征服するつもりだ」
エルディスは目を見開き、息を呑む。
「征……マイロンを?!万の街の都?あの……マイロンですよね?」
「冗談じゃない」ベラウは姿勢を正す。「今のところ大した計画はない、資金集めと人員募集の段階だ。だがシルレヴィカがいれば、彼女の使える術式は一流の術師並み、そこに幸運が少しあれば……不可能な夢とは思わん」
彼は滔々と語り続ける…………
エルディスは黙って立つシルレヴィカを見る。狐耳は垂れ、手は背中に回し、ベラウが話す間も口を挟まず、規則正しい従者のようだ。
迷ったが、聞いてみる:
「ただ疑問なのですが……シルレヴィカ様はあなたの部下なのですか?私は結局誰に忠誠を誓えば?」
ベラウはぽかんとする。
「俺?彼女の上司?馬鹿言うな。俺は彼女の部下だよ」
「ただ、閣下はトボル出身で人付き合いが得意じゃないから、多くのことは俺が代行してる。募集や資金繰りなんかは、俺が代理人だ」
「それより重要なのは」胸を張る。「俺は彼女の偉大な計画のメイン出資者だ。クリヤリウス様の計画の全額出資者で、彼女の宿泊所も俺が提供してる」
「あなたの屋根裏部屋だけど」シルレヴィカが淡々と反論。
「暖炉付きの屋根裏だ」
二人は言い合う。
エルディスは傍で、頭の中がごちゃごちゃになる。想像していた雰囲気とは違う。
ベラウは何か思い出したように付け足す:「もう一人仲間がいる、まだ連絡してないが、イキムって奴で、近くの町で店を開いてる。昔一緒に反乱を起こした、頭の回転が速く、計算が得意だ」
「計算?」エルディスは疑問に思う。
「そりゃそうだ」ベラウは当然のように言う。「戦で最も重要な二つ:戦力、そして帳簿管理だ。村を一つ奪ったら、そこの年間の小麦生産高がどれだけか、塩何斤が何銅貨に相当するか分からなきゃ、兵士に盗まれ、管財人に横領され、軍は数ヶ月も持たずに崩れる」
シルレヴィカは軽くため息をつく。「あの男が仲間になるとは思えない」
「君が女騎士を連れてきたんだ、俺も適任者を一人連れてくる権利がある。公平だろ」ベラウはにやにやする。
シルレヴィカはもう反論せず、ただマントを引っ張り、この滑稽な口論にかかわるのも面倒くさいようだ。
エルディスは二人の間に立ち、この軽妙で荒唐無稽な会話を聞きながら、頭の中が真っ白になる。
魔物に従うとは、奇怪な儀式や血の契約、漆黒の洞窟で主人の命令を待つことだと思っていた。現実は、食堂の裏厨房に入り、都市征服を企む二人の談笑に耳を傾けることだった。
彼女はゆっくりと座り、黙る。
次に何が起こるか、わからない。
だが一つだけはっきりしている――もう戻れない。