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「婚約を破棄しましょう」

「…………は?」


 突然婚約者から切り出された言葉に、シエラは侯爵令嬢らしからぬ間抜けな声を出してしまった。

 目の前でいつものように涼しげな顔でお茶を飲んでいる婚約者は、この国の第三王子にして、王位継承権筆頭者であるモーガンだ。

 ちなみに彼の兄にあたる第一王子は夭折し、第二王子は継承権を放棄して、隠遁生活を送っている。


 シエラは十年来の婚約者であるモーガンの顔をまじまじと見つめた。

 一見秀麗で上品な顔立ちだが、よく見ると水色の瞳はつり気味で、薄い唇の口角は上がっている。そのせいで彼の性質とは裏腹に、少しだけ軽薄な印象を与えることもあった。

 だが柔らかな白金の髪も相まって、愛猫に似ているその顔立ちを、シエラは気に入っていた。


 黒髪に深いブルーの瞳のシエラと並ぶと我ながら対比が美しい。

 夫婦になれば描いてもらえる肖像画は素晴らしい出来栄えになるだろう。その時を楽しみにしていたというのに。


 シエラはつとめて冷静に聞き返す。

「一応、理由をお聞きしてもよろしいかしら?」

「いい加減、うんざりしているからですよ」

 間髪入れず返答するモーガンの口調にほんのわずか苛立ちが混ざったのがわかった。

 シエラは眉根を寄せる。

「うんざりとは?」

「貴女が一番ご存知のはずですが」


「さあ……。あいにく、心当たりがありませんわ。モーガン様の口から言ってくださらないと」

 あくまでもとぼけるシエラにモーガンはため息をひとつついた。


「……マリアンヌ・クラーレットという令嬢をご存知でしょう」

「ああ、あの、身の程もわきまえずにあなたに付きまとっているという男爵令嬢ね」

 やっと思い至ったように、手のひらを合わせるシエラを見つめるモーガンの視線は冷ややかだった。


「僕のいない間にアカデミアにやって来て彼女の髪を掴んで引きずり倒し、あまつさえ刃物を突きつけたというのは本当ですか」

「あら」

 シエラは心外だという顔をする。


「刃物って言うと物騒に聞こえますけど、刺繍に使う裁ちバサミですよ」

「立派な刃物です。あんなものを人前で振り回すなんて、何を考えているんだ」


「そうね。彼女のモーガン様への態度。さすがに最近は目に余るようになってきたと、注進があったのですよ。婚約者として真偽を確かめて、本当ならひと言忠告をしなくてはと思いまして」

「それで、わざわざ僕が公務でいない時を見計らって乗り込んだわけですか。ちなみに、彼女は何と?」


「『身を引くのは貴女の方です。立場上、嫌々婚約を続けているだけで、本当は私こそがモーガン様と愛し合っているんですから』ですって。笑ってしまうでしょう? きっと少しばかり綺麗な顔をしているからといって、自分の立場を勘違いしてしまったのね」

「それで、鋏で彼女の髪の毛を切ったというわけですか」

「あら、嫌だわ。告げ口をするなんて。なんて身の程知らずなんでしょう。ちゃんと口止めもしておいたのに」


 ーーモーガン様に手を出したら、次はそのお綺麗な顔をこのハサミでずたずたに切り裂きますわよ。


「そう言って、彼女を脅したそうですね」

「何を言っているのかしら、脅しだなんて」

 シエラは紅茶をひと口飲んで、にっこりと笑った。

「もちろん、本気よ」

「……なんて恐ろしいことを」

 モーガンは頭痛を堪えるように額に手を当てた。この顔は本当に不快感を持っているな、とシエラは察する。


「金輪際、彼女には近づかないでください。いいですね」

 それは依頼ではなく命令と言っていいものだったが、シエラは肩をすくめただけだった。


「それにしても、婚約破棄だなんて。急に言われても、双方の家が納得するでしょうか?」

「両家には通達済みで、内諾ももらっています。今回のことで、メイウッド侯爵も、一も二もなく婚約の撤回に同意してくれましたよ」


 モーガンらしい、抜かりない対応だ。それにしても父まで臆病風に吹かれたのか、とシエラは苛立つ。

 聞いたらシエラが怒り狂うことは分かっているから、モーガンの口から伝わるようにしたのだろう。

 とにかく、父が帰ってきたら問い詰めなくては、と心に決める。


「もちろん、こちらの親族ーー王家としても、否やを唱える者はおりません。僕の婚約者としては、貴女は少し苛烈に過ぎる、というのが大方の一致した意見でした」

 そう言って、少し寂しそうに笑う。

「……婚約したころは、虫も殺せないような令嬢だったのにな」


「お互い様でしょう。モーガン様だって泣き虫で、いつも何かにびくびくしているような子供だったわ。それが今じゃあこんなにふてぶてしくなってしまって」

 もっとも、臆病なところはあまり変わっていないようだけど、という言葉は口には出さない。


「ちなみに、わたくしがこの国の王妃になるために、どれだけ努力してきたかはご存知よね?」

「それは、もう。血の滲むような努力をされておられる。だが、残念ながら、それはすべて無駄だったと申し上げなければならないな」

「この、裏切り者っ!」


 突如激昂したシエラの叫び声と同時に、パン、と小気味良い音が部屋に響いた。シエラがモーガンの頬を打ったのだ。

 テーブルに片手をつき、もう片方の手は宙に上げたまま肩で息をするシエラを、モーガンはみるみる赤くなっていく頬に手をやることもせず、何の感慨もない顔で見上げた。


 シエラもすぐに怒りを引っ込める。

 あまり感情を露わにしないようにすることは、長年の淑女教育で身についている。

「ごめんなさい。最近感情の制御が難しくて。病み上がりのせいかしら」

 人を殴った直後とは思えない穏やかさでシエラが微笑んだ。


 モーガンはそんなシエラを見てまたひとつため息を吐くと、先程の大声を聞いて何事かと部屋に入って来た執事に「シエラ嬢はお疲れのようだ。僕ももうお暇するよ」と告げて立ち上がった。


「見送りは結構」

 冷たく言い捨てて応接間から出ようとするモーガンに、席に着いたままシエラが声をかけた。


「ねえ。私と婚約を解消したとしても、立太子するためには婚約者は必須よね? どのみち結婚相手は探さないといけないのではありませんか?」

「そうですね。別に大した問題じゃない。婚約者候補など、すぐに見つかります」


「まさか、あの男爵令嬢を婚約者にしようなんて、考えていないですよね?」

 あえて名前を呼ばないシエラに、モーガンはぴくりと反応した。

「それは、貴女が気にすることじゃない」


 鋭く言うと、再度重ねるように釘をさした。

「先ほども忠告しましたが、くれぐれも彼女にこれ以上近づかないでくださいね。貴女にはもう関係の無い話です」


「冷たいわねえ、婚約者に向かって」

「もうすぐ元が付きますよ。貴女との婚約の破棄はひと月後の立太子の礼で司祭に正式に承認されるはずです。そうなれば、僕のことをファーストネームで呼ぶことも、もうお控えください」


 シエラは笑った。

「そう簡単にいくかしら」

「……両家の許可も取り、新たな婚約者候補もすでに決まっている。ここからどうやって阻止するおつもりですか?」

「思い知ることになるわ。近いうちにね」

 シエラの不敵な笑みを、モーガンは黙って見返した。彼女がはったりや負け惜しみを言う人物でないことはよくわかっている。


 嫌な予感を振り払うように、シエラに背を向けたモーガンは、見送りの者達を黙殺して、一度も振り返ることなく屋敷をあとにした。

 幼い頃から幾度となく訪れ、そしてこれがおそらく最後の訪問になるはずなのに、まるで逃げるようだと自嘲の笑みを口の端にのせながら。




 そしてひと月後、立太子の儀式は行われなかった。

 代わりに行われたのは葬儀だ。亡くなったのは、モーガンの叔父、現国王の弟にあたるフリーク大公だった。


 病気や自然死ではない。火災による焼死である。王室はこれを事故だと判断した。

 彼の寝所である離宮が丸々一棟燃えたのだから凄まじい火災だった。未明に出た炎は一昼夜かけて屋敷を燃やし尽くし、炎は更に三日三晩燻り続けたという。

 犠牲者、行方不明者を合わせると十数名という大惨事だった。


 そのためモーガンの王位継承を正式に宣誓するはずだった儀式は急遽中止になり、王族の喪が明ける半年後まで延期となったのだった。

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