8 彼の言葉
このエピソードは、文字数1700字ほどです
リクと出会ってから毎日という日々が、私にとって特別な時間になった。
リクはいつも、私の予定や体調を優先してくれる。
「千沙ちゃんが疲れてるなら、今日はゆっくり休んで。僕は、千沙ちゃんが元気な顔でいてくれるのが一番嬉しいから」
そんな風に、いつも穏やかに、優しい言葉をくれる。
だけど、その優しさの奥に、何か秘密を抱えているような――そんな気がする瞬間も、時々あった。
だけど私は、そういった“違和感”を心の隅に追いやることにしていた。
だって、リクは完璧すぎるほど完璧なのだ。
顔立ちは端正で、ふとした瞬間の笑顔がとても柔らかい。
服装もいつも清潔感があり、香水の匂いも強すぎない。
お金のことも、毎回の食事代や映画代、何も言わずにすべてリクが払ってくれる。
「今日は私が……」と言っても、「僕が誘ったんだから、僕が出すよ」とやんわり制されてしまう。
私から誘ったときでも、「千沙ちゃんがいるだけで僕は満足だから」と言って、私の財布を持った手を止めてくる。
だから、リクと一緒にいる時間は、まるで夢の中にいるような感覚だった。
でも、ちゃんと現実。彼は確かに存在する人なんだなと思うと、さらに好きが増える。
そんなある日。水曜日のバイト終わり。
「今日ね、ちょっとだけ歩こうか」
いつもは駅近くの静かなレストランや映画館に行くけれど、リクはそう言って、私を少し遠回りの散歩に誘った。
夜風は心地よくて、少しひんやりとした空気が心を落ち着かせてくれる。
住宅街を抜けて、公園のベンチにたどり着いた頃には、辺りはすっかり静まり返っていた。
「ここ、覚えてる?」
「え?」
「前にさ、千沙ちゃんが“この公園、静かで落ち着くから好き”って言ってたから」
――言ったっけ、そんなこと。
でも、確かに何気なくつぶやいた記憶がある。
そんな細かい言葉まで覚えていてくれたことに、胸がじんと熱くなる。
ベンチに並んで腰掛けると、リクはゆっくりと息を吐きながら、ポケットから小さな缶コーヒーを取り出して私に差し出した。
「ちょっと冷えてきたから、温かいの飲んで」
「ありがとう……リクって、ほんとに気が利くよね」
「ううん、千沙ちゃんのことだから、つい考えちゃうだけ」
言葉が少しだけ甘くて、少しだけ真剣だった。
静寂が流れる中、リクは缶コーヒーを両手で持ちながら、少し遠くの街灯を見つめていた。
そして、ぽつりとつぶやくように言った。
「ねぇ、千沙ちゃん」
「ん?」
「……僕さ、ずっとこの時間が続けばいいなって、思ってたんだ」
「え?」
「初めて、千沙ちゃんの声を聞いた日。お店のカウンター越しに“ロイヤルミルクティーとクロワッサンですね”って言われた時。なんて優しい声なんだろうって思った」
「……」
「それからも、何度も話しかけたくて。でも、変に思われたくなくて。だから、同じ注文をし続けて、同じ時間に通い続けて……ちょっとずつ話せるようになって……」
リクの声は、少し震えていた。
私は言葉を挟めずに、ただリクの横顔を見つめていた。
「千沙ちゃんの笑った顔とか、真剣に何かに集中してる顔とか……全部が好きで、目が離せなくなって」
好き……リクは確かに今そう言った。
リクはそっと、私の手の上に自分の手を重ねた。
その手は、少しだけ冷たくて、だけど確かに熱を持っていた。
「だから、千沙ちゃん。僕と……付き合ってください」
――その言葉は、夜の静けさの中で、まっすぐに私の胸に届いた。
迷いはなかった。
迷うどころか、感情よりも先に口が開いていた。
「……はい。私でよければ……」
私は、小さく頷いた。
リクの目が、ほんの一瞬、大きく見開かれた。
まるで、子供のような。
「……ほんと?」
「うん。私も、リクのこと、好き」
言った瞬間、リクの目に浮かんだ涙のような光を、私は見逃さなかった。
「ありがとう、千沙ちゃん……。大切にする。絶対に」
リクは、まっすぐな眼差しで、私の手をぎゅっと握った。
「私も……リクのこと、大切にする」
その夜、私たちは初めて手をつないだまま、ゆっくりと歩いた。
大きくて、ゴツゴツしていて、暖かい手。
同じ道なのに、今はまったく違う世界に見える。
心の中に、小さな灯りが灯ったようだった。
リクとなら、きっと、これからの日々も大丈夫。
そう思えた瞬間。