6 完璧な彼
このエピソードは、文字数3400字ほどです
金曜日の午後、カフェのバイトが終わると、私はいつものようにリクと過ごす時間を楽しみにしていた。
その日も、バイトが終わり、更衣室で着替えながらスマホを確認すると、リクからメッセージが届いていた。
《今日、映画でも行かない? 千沙ちゃんが観たい映画あれば教えて》
私は一気に頬が緩む。
「今日も、一緒に過ごせるんだ……」
最初は軽い会話が始まったはずなのに、気づけば毎日連絡し合い、私のシフトに合わせてほぼ毎回バイト終わりに少し散歩したり、どこかに出かけたり。
リクと一緒に過ごす時間が、今では私にとってとても特別なものになっていた。
《今バイト終わったよ! この映画面白そう!》
私は今日公開されたばかりの、ヒューマンドラマ作品のURLを送った。
鏡を見て前髪を少し整える。少し乾燥した唇に、色と潤いを与える。
「よし……」
鏡の向こうの私は、いつもより口角が上がっていた。
____
私はカフェの駐車場に駐めてあるリクの車に駆け寄る。
「お疲れ様、千沙ちゃん」
リクがスライドドアを開け、私は助手席に座った。
私は少し乱れた髪型を隠すようにパーカーのフードをかぶる。
「待たせてごめんね。今日、閉店作業長くなっちゃって」
「僕は全然大丈夫だから安心して。あと、髪の毛少し乱れてても千沙ちゃんは可愛いよ」
リクはそう言って、私のかぶったフードを優しく下した。
顔が一気に熱くなる。アホ毛が何本も飛び出ているだろうに、リクは小さく微笑みながら頭を撫でた。
「え……あ、ありがとう」
思わず、視線を逸らし、顔を隠すようにシートベルトを締める。
「照れた顔も可愛いのに」
リクは少し笑いながら言う。
その笑顔を見るだけで、心がほんの少し落ち着く。
でも、ドキドキは止まらない。
「映画行く? 千沙ちゃんが送ってくれたもの見たよ。面白そうだね、あの映画」
「うん、でも、少し違うところにも行きたい気分かも」
「何か気になる場所があれば言って。どこでも連れて行くから」
リクはいつも、私の希望に答えてくれる。
どこへ行きたいかも、どうしたいかも、リクに任せておけばすぐに答えてくれる。
私のワガママにも付き合ってくれるし、否定されたことなんてない。
それが心地よくて、つい甘えてしまう自分がいる。
リクはハンドルを握りしめた。
車がゆっくりと動く。時々、窓の外を見ながらも、無意識に車内の内装やリクの運転姿を見てしまう。
初めてこの車に乗ったのは、つい先週のことだった。
水族館に行った日からちょうど一週間。今日と同じバイト終わりの日。
バイト終わりの日はいつも公園のベンチや駅前でほんの少しだけ話すだけの時間だった。
ちょっとした雑談を交わしながら、すぐにお互いの家へ帰るという流れ。
だけど、この日はお店に来たリクが「千沙ちゃん、今日のバイト終わったら、連れて行きたいところがあるんだ」と言い、その後お店を出ると駐車場にリクが立っていた。その後ろには、黒色の車を停めて。
初めてこの車に乗った時、今以上にドキドキしていた。
それは、リクの運転技術への不安ではなく、“二人で車に乗っている時間”そのものにすごく緊張していた。
車内は高級感のあるレザー調で、傷や汚れは見当たらない。
リクは時々、カーナビを操作しながら、私が好きだと言っていたアーティストの曲や、最近流行りの曲を流してくれる。
この前、リクがマップで目的地の場所を確認しているとき、私の家とバイト先に『千沙ちゃんの家』『千沙ちゃんのバイト先』と、私の好きなピンク色でピンを指していた。
それ以外にも、一度二人で訪れた場所には虹色のピンで『千沙ちゃんと来た水族館』『千沙ちゃんと来たカフェ』『千沙ちゃんと来た公園』などと指されていた。
それを見たとき結構恥ずかしかったけど、でもやっぱり嬉しかった。
リクは、私と来た場所や過ごした時間を大切にしてくれているんだなって。
私もリクと過ごした時を大切に思ってるけど、もしかしたらリクは私よりもそうなのかもしれない。
そう思うと、リクへの“好き”が、もっと大きくなってきた。
「あれ、なんかいい匂いする……」
ふと私は、車内に漂う香りを思いきり鼻で息を吸う。
私の好きな香りだ。主張が強すぎないローズジャスミンの香り……。
でも、この前まで車内にこんな香りは漂っていなかった。
――いつもは、リクの香水の香り。
「あ、気づいた? 千沙ちゃんが好きそうな香りだなと思って、車用の芳香剤買ってみたんだ」
ハンドルを握るリクの横顔に、信号の光が当たる。
「え、そうだったの? 私この匂い好きだよ。部屋にも同じ匂いの芳香剤使ってるよ」
「へぇ、そうなんだね。じゃあ、この車は部屋だと思ってゆっくりしてね」
リクはそう言うと、片手で空調を調節する。
部屋だと思って……か。
私はリクの言葉に甘えて、頭をヘッドレストに預けて体の力を抜いてみる。
「じゃあ、今日は映画の前に食事でも行こうか?」
「いいね! お腹空いたし、ゆっくり話したいな」
リクはカーナビのマップを操り、とあるレストランの場所にピンを指す。
それはまだ、目的地を示す赤いピン。
でも、きっと数時間後にはピンの色が虹色に変わって、またマップに彩りが生まれるんだ。
____
リクの車で向かったのは、少し落ち着いた雰囲気のレストランだった。
店内に入ると、いつの間にリクが予約していたのか、すぐに良い席に案内される。
「これ、千沙ちゃんが食べたいものを注文していいよ。今日は、僕のおごりだから」
「え? でも、リク、いつもおごってるよね。気を使わなくても大丈夫だよ」
「大丈夫だよ。千沙ちゃんには、喜んでほしいから」
私が遠慮して言うと、リクは微笑んで言った。
リクはいつもそうだ。気を使うことなく、何でも手に入れて、私に最適なものを与えてくれる。
リクはメニュー表を私にも見えるように広げ、「千沙ちゃん、こういうの好きそう」と私好みの料理を指さす。
その優しさが、時々逆に怖くなることもあるけれど、否応なく惹かれていく自分がいる。
注文を終え、料理が運ばれてくると、リクは一口食べてから、私を見つめて言った。
「美味しい?」
「うん、美味しい。リク、よくこんなレストランを選んでくれるよね」
「千沙ちゃんが好きそうなところを、いつも調べてるんだ」
「ありがとう。でも、こんなに何度もおごってくれるなんて、ちょっと申し訳ないな」
「気にしないで。僕は千沙ちゃんと過ごす時間が一番楽しいから。それに、これぐらいのことは当然だよ」
リクはいつも自分のことは後回しにして、私のために何でもしてくれる。
それは嬉しいことなのに、時々少し重く感じることもあった。
でも、リクの思いやりは本物だと、私は感じていた。
その後、映画を観に行った。
映画の間、私はリクの隣に座りながら、心の中で少しだけ考え事をしていた。
リクは、本当に完璧すぎる。
とても優しく、気遣いも行き届いていて何もかもが上手くいっているように見える。
でも、そんなに完璧な人がいて、本当に大丈夫なのだろうか。
リクに、隠された部分があるんじゃないかと、心の中で少しだけ疑念を抱いていた。
もしかしたら、本当は別の目的があって私に優しくしているのでは?
本当は本命の彼女がいて、私は遊ばれているだけなのでは?
カッコよくて、優しくて、お金もあって。
ドラマや映画、漫画やアニメの世界にいそうな人が、私の隣にいる。
その現実が、まだ飲み込めていない。
だけど、映画が終わり、リクと一緒に歩きながら、その疑念が薄れていくのを感じた。
リクの笑顔はどこまでも優しく、安心感を与えてくれる。
私がどんなに心配しても、彼の目には私への真摯な気持ちしか見えない。
「どうだった? 映画」
「すごく良かったよ。面白かった」
「千沙ちゃんが楽しんでくれたのが一番嬉しいよ」
「うん、ありがとう」
その後も、リクは私を家まで送ってくれた。
車を降りるとき、私は少しだけリクに視線を向けて言った。
「ありがとう、リク。今日も楽しかった」
「僕も。千沙ちゃんと過ごす時間が本当に幸せだよ」
リクはまた、いつも通り穏やかな笑顔で言った。
完璧で優しいリクに、私は何度も心を奪われる。
しかし、どこかでその完璧さに疑念を抱く自分もいた。
部屋に着くと、私はベッドに横になりながら考えた。
リクの完璧さに少し違和感を感じることもあったけれど、それでも彼と過ごす時間は心地よかった。
それが本物の愛なら、私はそれを受け入れる準備ができている。
そう心に決めた瞬間、少しだけ安心した気持ちが広がった。