5 水族館の彼
このエピソードは、文字数2600字ほどです
リクと水族館へ行く約束をした日曜日は、晴れ渡る青空だった。
日差しは柔らかく、風が少しだけ甘く香る。
約束の時間より少し早く着いてしまった私は、水族館の入り口前でリクを待ちながら、そわそわとスマホをいじる。
ちゃんと髪型が崩れないように、ヘアスプレーしてきたし、櫛と鏡も持ってきた。
このワンピースも、この日のために新しく買っちゃったもん。
「千沙ちゃん」
その声に顔を上げると、向こうからリクが歩いてきた。
白シャツに薄いベージュのジャケット、スラックス。
いつものように清潔感のある服装で、香水の匂いもさりげない。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、私がちょっと早く着いただけ」
リクはふっと笑って、私の頭に手を置いた。
その仕草が自然すぎて、でも優しくて。
「水族館って、来るの久しぶりだなぁ」
「私も……大学入ってからは来てなかったかも」
「一緒に来れてよかった」
そんな風に言われると、どうしても“特別な関係”だと信じたくなってしまう。
この人は、私のことをちゃんと見てくれて、ちゃんと大切にしてくれる……そう思ってしまう。
けれど、どこかで微かに残っている“あの違和感”は、まだ胸の奥にあった。
____
水族館の中は、ほどよい人混みで、静かすぎず、騒がしすぎず。
リクは展示の説明パネルを読んでから、私にも優しく教えてくれる。
魚の名前、行動、生態。
「この水槽、いいよなぁ。まるで別の世界みたいだ」
リクは、深い青色の水面をじっと見つめながら言った。
その目が、なんだかとても遠くを見ているようで、少しだけ切なさを感じたけれど、私はそれを言葉にすることができなかった。
でも、相変わらず横顔は綺麗。
しばらくそのまま水槽の前で立っていた。リクと私は、静かな時間を共有していた。
そして、ふと気がつくと、リクは私の方に微笑みながら目を向けていた。
「こうやって一緒にいられる時間って、大事だな。たまにはこうやって、何も考えずに過ごすのもいいよね」
「そうだね……たまにはこういうのも、贅沢な時間だなって感じる」
私がそう答えると、リクは少し照れたように笑う。
「じゃあ、これからはもっといっぱい一緒に過ごそう。いろんなところに行こう」
その言葉に、私の心はまた温かくなった。
まるで、彼の言葉が私の気持ちにぴったり寄り添っているような、そんな感じ。
リクの優しさ、完璧さ、そして何よりそのイケメンぶりに、私は完全に魅了されていた。
私の心の中のあの小さな違和感は、もうどこか遠くに消え去って、今はただ、リクと一緒にいることが、すごく幸せだと思う自分がいる。
きっと違和感なんて、私の気持ちの問題。
元々はバイト先のお客さんだった人と、こうして歩いて、連絡を取り合って、休みの日には二人で出かける――そんな関係になるなんて思ってもいなかった私の心の問題なのだ。
その後、ランチを食べに行き、二人でお互いの好きなものを語りながら過ごした。
幼少期はとにかくヤンチャで、家の中でボール遊びをして何度も怒られた。
一人っ子。
リクは中学生の頃、親の転勤に伴って半年だけアメリカの学校に通っていた。
その影響で英語がペラペラ。
お父さんは会社経営者。お母さんは、元々お父さんの秘書をしており、それが出会いとなり結婚に至った。今は専業主婦として家にいる。
大学入学と共に、一人暮らしを始めた。最初は苦手だった自炊も、今は得意になった。
両親は心配性らしく、大学卒業まで毎月百万円が、お小遣いとして銀行に振り込まれる。
その百万円を日用品や娯楽に充てている。
残ったお金で投資をしている。
私と同じでいちごが好き。
リクの口から出るエピソードは、どれも私からすると現実味のないドラマの登場人物の話のように思えた。
リクに比べて私は、ただの一般女子大生。
家はお金持ちではないし、英語も苦手。お小遣いは高校生の時に終わり、今は自分で稼いだバイト数万円で自分の好きなものを買っている。
リクからすれば、つまらない人間かもしれない。
でも、リクは私が自分のことを話す度に相槌を打ち、必ず目を合わせてくれる。
嬉しいけど、恥ずかしい。だけど、嬉しい。
「へぇ、そうなんだ。千沙ちゃんのこと知れて嬉しい」
オムライスを食べ終えたリクは、皿を少しテーブルの端に寄せながら水を飲んだ。
その言葉も、その姿もかっこいいと思ってしまう私は、もう後戻りできないところまで来ているのかもしれない。
____
楽しい時間はあっという間に過ぎ、夕方になってしまった。帰り道、リクがふとこちらを見ながら言った。
「千沙ちゃん、今日は本当に楽しかった」
「私も、すごく楽しかった」
「これからも、こういう日をたくさん作っていきたいな」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた気がした。
リクと過ごす時間が愛おしくてたまらない。
リクの誠実さと優しさに、私はどんどん引き込まれていく。
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それからしばらく、リクとの時間はますます素晴らしいものに感じた。
私たちは次々と新しい場所に出かけ、いろんな思い出を重ねていった。
隣町に新しくオープンしたショッピングモール、期間限定のアンテナショップ、映画館。
私が行ってみたい! と言えば、必ず「行こう」と言ってくれる。
集合場所も、待ち合わせ時間も、私のことを一番に考えて提案してくれる。
お店に来るときも、たまに「皆で食べて」って、わざわざ私が好きだと言ったマカロン専門店の袋を持って、その日のシフトメンバーの数に合わせてくれる。
ゆきちゃんは、その話を聞く度に、お店の袋を持ってくるリクの姿と笑顔を見る度に、「まだ付き合ってないんですか?」って言ってくる。
毎回、リクはどこかしら気を使ってくれて、私を喜ばせようと努めてくれる。
そして、私は気づく。
私、もしかして、運命的にこの人と出会ったんじゃないか?
彼のことを、運命の人だと信じていいのかもしれないって、そう思う瞬間が増えていた。
でもその一方、私の心の中で、何度もひとつの言葉が渦巻いていた。
「どうして、こんなに完璧なの?」
彼が完璧すぎて、ちょっと不安になってしまう自分がいた。
でも、その不安が消える瞬間も、ちゃんとある。
リクと一緒にいるとき、彼の笑顔を見ているとき。
その瞬間、私はただ、彼に身を委ねたくなるほど安心していた。
私は、もうリクのことを好きだ。
いや、それ以上に、彼を受け入れたいと思っている。
私たちの関係は、どんどん深く、近くなっていく。
でも、どこかで、何かが違う気がする。でも、その“何か”が分からない。
その違和感に目を向けるべきなのか、それとも、この幸せな時間をただ大切にすべきなのか。
私は、まだその答えを出せずにいた。