3 少し不思議な彼
このエピソードは、文字数3000字ほどです
次の水曜日。
今日はゆきちゃんは休みの日。友達と放課後にカラオケに行くのだと、昨日言っていた。
今日のシフトの相方、村田さんは休憩中で店内には私一人。
二組来ていたお客さんも、つい先ほど帰ったばっかり。
私は、シンクで洗い物を済ませると、メニュー表を軽く拭く。
今日は水曜日。もしかしたら、来てくれるんじゃないかなって――無意識に彼の存在を意識している自分がいた。
彼はお客さん。ただのお客さん。神崎リクという名のお客さん。
そう思い込もうとしても、メニュー表のロイヤルミルクティーとクロワッサンの文字を見るだけで、なぜか心が熱くなる。
ただの文字なのに、なんでこんな気持ちになるんだろう。
私はメニュー表を拭き終え、布巾を洗う。
洗い終えた布巾をいつもの定位置に戻したとき、お店のドアの上にある鈴が小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
職業病なのか、誰が来たか確認せずに反射的に挨拶してしまう。
「こんにちは、千沙さん」
振り返ると、彼は優しい笑みでレジ前に立っていた。
「あ……こんにちは」
かっこいい。たったそれだけの感想なのに、それ以上の何かがあるような胸騒ぎがする。
「ロイヤルミルクティーと、クロワッサンを一つ」
いつもと同じ注文。いつもと同じ笑顔。
私は少し勇気を出して「今日もありがとうございます」と言ってみた。
彼の目が、財布から私の目へと移る。
私は思わず目を逸らす。
手元にあるボールペンを触り、静かに深呼吸する。
だけど、無意識に視線はまた彼の姿に向かう。
「これで」
彼はいつものように千円札を出した。
「ありがとうございます」
私は彼の手から千円札を受け取り、レジを操作してお釣りを出した。
そして、彼は財布の中から小さな紙片を取り出し、お釣りを渡す私の手へそっと重ねた。
「……良かったら、これ」
「え?」
一瞬、それが何なのかわからなかった。
視線を落とすと、それは小さく丁寧に折られたメモ用紙で、そこに綺麗な手書きの文字が並んでいた。
《時間が合えば、日曜日に映画に行きませんか?》
文字の端には、彼のスマホの番号が書かれていた。
心臓が一気に跳ねた。夢みたいな出来事なのに、どうしてか、ほんの少しだけ怖さも混じっていた。
「えっ……あの……これ」
不意に顔が熱くなるのが分かった。
誰もいないタイミングで渡してきたのは、気を遣ってくれたのか、それとも誰にも見られたくなかったのか。
「無理にじゃないから。もし迷惑だったら、忘れてくれてもいいよ」
彼はそう言って、ふっと笑う。
まただ。この笑顔。
心臓が、早く打っている。
「……ありがとうございます。考えてみます」
それだけ言うのが精一杯だった。
____
日曜日、私は彼と映画に行くことになった。
迷ったけれど、バイト終わりにスマホの番号にメッセージを送り、「大丈夫です」と伝えると、彼はすぐに返事をくれた。
《すごく嬉しい。ありがとう》
とりあえず待ち合わせ場所と時間を決めて、観る作品は当日決めることにした。
《日曜の午後、駅前の映画館で待ってるね》
寝る前、朝、電車の中、映画館に向かう途中、何度も読み返した最後のメッセージ。
メイクも前髪も髪型も服も、全て今日のためのもの。
彼と、映画に行くためのもの……。
鏡の前に立つたび、これでいいのかなと何度も問いかけてしまう。こんなに必死になる自分が、なんだか可笑しい。
カフェの制服じゃない私を、彼は最初少し驚いた顔で見た。
花柄のロングスカートに、カーディガン。カフェの時とは違う、下した髪。
正直、メイクも服装も髪型も似合っているのかどうか不安だった。
何度もスマホで「映画 おすすめ 服装」「男子 映画 服装」「可愛い 髪型」「メイク 可愛く」と検索した。恥ずかしくて、「彼氏」「デート」の文字は打てなかったし、検索予想に出てきてもタップ出来なかった。
彼は「可愛いね、似合ってる」と穏やかに笑ってくれた。
私は恥ずかしくて、嬉しくて、小さな声でお礼を言った。
彼は、シンプルな黒色のパーカーにジーンズというカジュアルな服装をしていた。
きっとゆきちゃんがいたら、「あのパーカーブランド品ですよ!」って興奮していたんだろうな。
カジュアルでシンプルな服装でも、彼が着ると雑誌から飛び出してきたモデルのよう。
こんな風に思うのは、きっと私だけじゃないよね。彼が、かっこいいから。誰だってそう思うはず。
そうだよね。多分。
____
二人で選んだ映画は、恋愛ものだった。
他にも、同時刻にはホラーやアニメ映画もあったけど、この作品は結構人気で好評らしいという彼の一言で決まった。
それに私自身、恋愛作品が好きだからとても嬉しかった。
機械でのチケット購入も彼がやってくれた。
綺麗な指が、パネルの上で踊る。
私はただその様子を隣で見ていた。
映画は、静かに始まり、切なくて、少し泣けるような作品。
彼が買ってくれたポップコーンLサイズと飲み物が、私たちの間で静かに様子をうかがっている。
映画の最中、ポップコーンを取りながら、隣にいる彼の横顔を何度か見た。
彼は、感情をあまり表には出さない。
主人公が失恋したシーン、近くの席の人は鼻水を啜っていたが、彼の表情は変わらなかった。
物語よりも、その横顔ばかり追ってしまう自分に気づいて、恥ずかしくなる。
でも、スクリーンをじっと見つめるその横顔が、とても綺麗だと思った。
____
映画が終わってから、近くのカフェに入った。
私はカフェオレ、彼はブレンドコーヒー。
出来立ての湯気が、空気を漂う。
「好きな映画のジャンルって……ありますか?」
私がそう聞くと、彼は少しだけ考えてから言った。
「実はね、恋愛もの、実はあんまり得意じゃないんだけど……千沙ちゃんが好きそうだったから、言ってみたんだ」
「えっ……私が?」
「うん。優しそうだし、そういう物語を大切にしそうだなって、思ってたから」
少し不思議だった。
私は恋愛系の作品が好き。でも、それを彼に言ったことがあったかな……。
だけど、それを聞いて悪い気はしなかった。むしろ、ちゃんと見てくれてるんだって思った。
「じゃあ、今度はリクさんの好きなジャンル、一緒に観ましょう……」
少し恥ずかしい。自分から、こういうことを言うの。
初めて呼んだ彼の名前。恥ずかしくて、もう一生呼べないかも。
彼は少しだけ目を見開いて、それから、笑った。
「……“リクさん”って、少し照れるな」
「えっ、じゃあ……なんて呼べば」
「リクでいいよ。呼び捨て、嬉しい」
彼――リクはコーヒーを一口飲む。
そしてリクは私の目をじっと見つめた。
「リク……」
聞こえるか分からないくらい、小さな声で呼んだ名前。
ほぼ独り言のようなのに、それでもリクは「ん? 何?」と、私の声を拾ってくれる。
その視線が、どこか深くて、温かくて——でも、ほんの少しだけ、冷たさもあるように感じたのは、気のせいだったのか。
____
その夜、私は眠る前にスマホを見た。
リクから送られてきたメッセージは、丁寧で、やさしくて、言葉のひとつひとつに心がこもっていた。
《今日はありがとう。千沙ちゃんと過ごせて、本当に嬉しかった》
《次はいつ会えるかな。無理しないで、でも僕は会いたいと思ってる》
嬉しかった。
けれど、まだ性格も、好みも、そこまで話してないのに——どうしてこんなに、私のことを理解してるみたいに話せるんだろう。
私は、少し胸の奥がざわつくのを感じながら、返信を打った。
《こちらこそ、ありがとうございました》
お辞儀をしているウサギのスタンプを送りながらも、私は何度も入力して、消して、だけど勇気を出してもう一つメッセージを送った。
《私も、また会いたいです》