2 ロイヤルミルクティーとクロワッサンの彼
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水曜日、二十時。
今夜も、彼はやってきた。
「こんばんは」
それは、レジに立つ私に向けた初めての挨拶だった。
いつもは、わざわざ挨拶なんてしないのに。
「こんばんは」
思わず背筋が伸びる。
何事もなかったように、彼はロイヤルミルクティーとクロワッサンを注文する。
「お会計、九百二十円です」
彼は、いつものように千円札を差し出す。
黒のルイヴィトンの財布から、綺麗に揃えられた紙幣が見える。
「ありがとうございます」
私がレジを打ち終えると、彼はふと微笑んでこう言った。
「今日も、千紗さんのおすすめ……楽しみにしてます」
「えっ……あ、はい……」
思わず顔が熱くなった。
彼は例の席、壁際の一番右へと向かい、スマホをいじりながらクロワッサンを頬張る。
そして、メニュー表に目を通し、今夜も何か考えている様子だった。
私はキッチン側に戻りながらも、内心落ち着かない。
彼の視線が、どこかでまた私に向けられている気がしてならない。
いや、きっと気のせい。
恋愛経験がないから、すぐドキドキして変に勘違いしてしまう。
こんな自分が、ちょっと恥ずかしい。
「千紗さん~、もしかしてまた例のイケメン来てます?」
ゆきちゃんがにやけ顔でひょっこり顔を出す。
「うん……今、クロワッサン食べてる」
私がそう言うと、ゆきちゃんは軽く彼のいる方を見た。
「マジで、千紗さんに会いに来てるって絶対! というか、あの人マジでいい匂いしません?」
「え、匂い?」
「うん、香水かな? なんか、フレッシュな感じで高級そうな……」
そこまで観察してるのか、とちょっと笑ってしまう。
「そんなに匂い、わからなかったけど……」
「えー、近くに寄ったら一発で分かりますよ~。ねえねえ、今日もまた話しかけられそうですか?」
「さぁ……でも、さっき名前呼ばれた」
「え!? 名前呼び!?」
「『千紗さん』って……」
「ぎゃー、それもう恋じゃないですか!」
「だから、違うって……」
そう、違う。
違うのだ。彼はただよくレジをする私に対して、社交辞令として挨拶をしただけ。
きっとこれが、ゆきちゃんが彼のレジを担当することが多ければ、ゆきちゃんが同じように挨拶されたり、名前を呼ばれたりするはずで……。
「すみません」
彼の声が、再び私の背後から聞こえた。
慌てて振り返ると、トレーを持った彼が立っていた。
「あ、はい! どうかしましたか?」
「今日のおすすめ、ありますか?」
まただ。
二回目。彼におすすめを聞かれて二回目。
「あ……えっと……今日は、新作のガトーショコラがあるんです。ちょっとビターで、大人の味というか……」
「いいですね、それください」
「あ、はい、ありがとうございます。すぐお持ちしますね」
彼が席に戻った後、私はゆきちゃんと目を合わせてしまい、つい顔がほころぶ。
「千紗さん、今日、めっちゃ顔ゆるんでますよ?」
「う、うるさいなぁ……」
私はゆきちゃんに背を向けて、ガトーショコラを用意する。
別に意識しているわけではない。
そもそも、何を意識するんだ? と言う疑問が生まれるが、私の中で彼はお客さん。
そう。リク、という名のお客さん。
「お待たせしました。ガトーショコラです」
「ありがとうございます」
私は軽く頭を下げて、すぐカウンターに戻る。
そして、無意識に彼の姿を見てしまう。
彼がガトーショコラを一口食べたとき、その目がふわりと優しくなった。
そして数分後、食べ終わった頃に、また声をかけてきた。
「これ、美味しかったです。ありがとう」
「よかったです……!」
「千紗さん、カフェで働いて長いんですか?」
不意な質問に戸惑う。
「あ、えっと……もう一年ちょっとになります」
「へぇ、じゃあ結構ベテランなんですね」
「いえ、そんなことないです。まだまだ学ぶことばかりで……」
「あ! お客さんって何のお仕事されてるんですか?」
横からゆきちゃんが、彼に尋ねる。
ゆきちゃんの目が、好奇心で光っている。
「僕は、大学四年生です。まだ就職してないけど、もう内定頂いたので、来年から働きますよ」
彼は、優しくゆきちゃんに返す。
「へぇ、四年生……! じゃあ、最後の学生の年なんですね!」
「はい、今年が自由に過ごせる最後の年になるから、充実させたくて」
ほんの少し、私の中で“お客さん”という枠が揺らいだ気がした。
大学四年生、年上の人なんだ。
____
「千紗さん! あのイケメンさん、千紗さんより二歳上じゃないですか! 千紗さん前、好きなタイプは年上の人って言ってましたよね!?」
その日の閉店後、ゆきちゃんが鼻息を荒くして聞いてきた。
「う、うん……」
前に、ゆきちゃんとお互いの好きなタイプについて話し合ったことがある。
千紗さんの好きなタイプ聞きたいです! って言うから、つい「優しくて、一途で、出来れば年上の人かな……」なんて語ってしまったのだ。
「うわー、カッコいいだけじゃなくてもう内定出ていて、お金持ちとか……千紗さん、運命きてますよ、運命」
「やめてよ、そんな大げさに」
でも、内心ずっと彼の声や仕草が頭の中で再生されている。
彼の優しい目。
「また、来ますね」と言って帰っていった後ろ姿。
それが、ただの常連さんではない、特別な誰かとして、私の中に静かに根を下ろし始めているのを感じていた。
この気持ちが恋なのか、そうではないのか分からない。
でも、私は、次の水曜日が待ち遠しいと思っていた。