1 よく来る彼
このエピソードは、文字数3000字ほどです
――水曜日の二十時頃、彼は必ずお店に来る。
「ロイヤルミルクティーと、あとこのクロワッサン一つください」
いつもと同じ、ロイヤルミルクティーとクロワッサンのセット。
「お会計が、九百二十円でございます」
「これでおねがいします」
彼は必ず千円札を出す。
黒色の財布から、他の紙幣の顔が見える。
「ありがとうございます」
彼がロイヤルミルクティーとクロワッサンが置かれたトレーを受け取ると、必ずお店の一番右側、壁側の席に座る。
そして、スマホを触りながらクロワッサンを食べる。
少し落ち着くと、お店のレジ近くにあるお持ち帰り専用のメニューを見ながらロイヤルミルクティーを飲む。
____
私が彼の存在を意識し始めたのは、三週間ほど前。
それまでは大学のテストや、レポートの締め切りが続き、今までのように日、水、金の週三シフトではなく、日曜日だけの週一シフトだったのだが、ようやくテストとレポートを終えて週三シフトに戻り始めた最初の水曜日。
閉店時間二十一時のこのカフェは、立地が駅から少し離れ、住宅街の近くにあるということから、元々十九時以降は混むことがあまりない。
その間に同じシフトの人と仕事をしつつも、世間話をするというのがルーティンになりつつあった。
いつものように、二個下の高校三年生のゆきちゃんと、レジの近くでメニュー表やお店の人気商品であるクロワッサンの確認をしていた時、彼が現れた。
整った鼻筋に、長いまつ毛。シミもシワも毛穴も一つもない綺麗な肌。
同じ学生バイトの優君よりも高い身長。
一言で説明すると、動く彫刻。
「……え、イケメン……」
私の後ろからゆきちゃんが、そう言うのが聞こえた。
ロイヤルミルクティーとクロワッサン、千円での支払い、そして壁側の一番右の席。
「あの人、めっちゃイケメンじゃないですか!」
彼が席に着くのを見て、ゆきちゃんは興奮したように話す。
「うん、すごいね。芸能人なのかな」
「あー、俳優とかですかね。モデルの線も濃厚ですよ」
気づけば、作業の手は完全に止まっていた。
「あ、しかも、見ましたか? あの人の財布! あれブランド品ですよね?」
「え、そうなの?」
「はい! なんだっけ……あ、ルイヴィトンですよ! ルイヴィトンの、クロコダイルの財布! あれ確か値段が八十万とかするんですよ! 多分」
「え、八十万!?」
私は思わず彼の方を見る。
ふいに、ロイヤルミルクティーを飲んでいる彼と目があった。
私はすぐにゆきちゃんの方に顔を戻す。
「しかも、あの人のつけてたネックレスもブランドですよ。多分あのジャケットもブランドっぽくないですか?」
すっかり私たちの手は止まっている。
「やっぱりお金持ちなんですね……」とゆきちゃんが感嘆の息を漏らす。
私はそれを聞いて少しだけ胸がざわつく。
私が働くカフェのお客さんだし、別に大したことじゃないのに、どうしてこんなに気になってしまうんだろう。
____
これが三週間前の出来事。
この日を境に、毎週水曜日の二十時頃になると彼は必ず現れるようになった。
ロイヤルミルクティーを飲む彼の目が再び私に向けられた。
私が彼を見たことに気づいているのか、少しだけ微笑んでいるような気がする。
「……あ、はい」
私は恥ずかしくて、ゆきちゃんの方を見ながら軽く返事をする。
彼はスマホをしまうと、何かを決心したように立ち上がり、私たちの方へ歩いてきた。
「すみません、ちょっと聞いてもいいですか?」
私の心臓が速くなった。
もしかして、チラチラ見ていたことがバレていたのかな……。
しかし、彼の顔には特に焦りもなく、穏やかな表情だ。
「はい、どうしました?」
私は少し緊張しながらも、笑顔を作って応える。
「実は……メニューで一番おすすめなのって、なんですか?」
彼は照れくさそうに笑いながら言った。
その笑顔に、少しだけ胸が温かくなる。
今までただの常連客だと思っていた彼が、突然目の前に現れて、こんな普通の会話をしてくることが意外で、しかもその顔が、なんとも言えず魅力的だった。
「あ……えっと、こちらの……フレンチトーストが人気ですね」
私は思わず素直に答えた。
「フレンチトースト、ですか……」
彼は少し考えてからうなずいた。
「じゃあ、それを追加でお願いします」
「あ、はい! かしこまりました!」
私はメニューを確認しながら、少し動揺した心を落ち着ける。
彼が席に戻ると、私はそのままフレンチトーストの準備を始める。
「あ! フレンチトースト! オーダー入ったんですか?」
裏の倉庫で賞味期限確認をしていたゆきちゃんが、バインダーを持って現れた。
「うん……。あの席の人が、オーダーしたの」
「あの席?」
ゆきちゃんは私の視線の先をたどると、納得したように「あぁ~」と頷く。
「あのイケメンさん、今日も来たんですね」
ゆきちゃんは、バインダーに挟まれている賞味期限シートに日付を記入しながら言う。
「うん……。おすすめありますか? って聞かれたよ」
「え、だからフレンチトースト作ってるんですか!」
「うん、そう」
無意識に、フレンチトーストを作る手に力がこもる。
しばらくして、フレンチトーストが出来上がり、私はそれをトレーに乗せて、彼のところへ持って行く。
「お待たせしました、フレンチトーストです」
と、できるだけ穏やかな声で伝えると、彼はゆっくりと顔を上げて、また微笑んだ。
「ありがとう。あの、あなたの名前、教えてくれませんか?」
「え?」
私は少し驚いて顔を上げた。
「あ、あの、名前は、福田千沙です……」
「千沙ちゃんか、いい名前だね」
彼は柔らかく笑って、少し照れたように目をそらした。
その一言で、私はまた心臓が早くなる。
「僕は、リク。神崎リク。よろしくね」
リク。
私の耳にその名前が響く。
少しだけ動揺しながら、私は頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします」
その後、何となくその場が気まずくなり、私は自分の仕事に戻る。
けれど、彼が何度もその後、フレンチトーストを食べながらちらちら私の方を見ているのが気になる。
その日は、彼が帰る時間になっても、私は一言もゆきちゃんと話さずにただ黙々と作業をしていた。
普段なら何も感じない時間でも、その日は妙に長く感じて、いつも以上に忙しく思えた。
そして、閉店後、ゆきちゃんが言った。
「千沙さん! あの人、絶対千沙さんのこと気になってますよ?」
私は少し驚いて彼女を見た。
どうしてそんなことを……。
「え、いや、そんなこと……ないよ。たぶん、単に偶然だよ」
けれど、心の中では、彼の微笑みがまだ鮮明に残っていて、どうしてもその記憶が私を離れなかった。
「でも~、あの人何度も千沙さんのこと見てたし……千沙さん名前聞かれたんですよね? ってことは絶対千沙さんのこと気になってるってことですよ~!」
ゆきちゃんは、店内をホウキで掃く。
「いやいや、多分いつも私がレジやってるから……だから、好奇心で聞いただけだよ」
「いやいやいや、絶対千沙さんに好意あるんですよ! あ、もしかしたら、千沙さんがいるから水曜日に来るんじゃないんですか? 多分、本当は千沙さんのいる他の曜日も行きたいけど、仕事とかの関係で水曜日しか行けなくて……だからいつも水曜日に必ず来てるんだと思います!」
きっと、ただリクさんは私のこと、いつもいる店員くらいにしか思っていないはず。
きっと、うん。そうだよ。
「千沙さん! 聞いてますか?」
「え、あ、ごめん」
「もー、聞いてくださいよ! だから、あの人は本当は千沙さんがいる他の曜日も行きたいけど~」
ちがう、そんなはずじゃない。
恋愛とか、そういうものじゃない。
ただのお客さんと店員。それだけの関係だもん。
私は自分の胸に言い聞かせるように、お皿を拭いていく。