花の精が生まれた
オオイヌノフグリという草がある。早春の、まだ、花が咲く前のオオイヌノフグリに、息がかかるくらい顔を近づけて、そっと、見ていると、一株に幾つも付いたつぼみの中に、一つだけ、他のよりやや大きくて、恥ずかしそうに震えているのがある。花の精が、そのつぼみの中で、そっと耳を澄ませて、外の世界に胸を躍らせている。
この物語の主人公の花の精には、名前がなかった。街路樹の根本のあたり、コンクリートの歩道から四角く切り取られた、小さな土の地面に、他の仲間から離れて一株だけ。だから、道を行き交う人は多いのだけれど、立ち止まって、彼女に名前を付けてくれる人はいなかった。
4枚の花びらは、まだ小さくしっかり重なりあっていた。でも、そんな固いつぼみの中では、花粉が綿毛のようにふんわり柔らかく、甘い蜜の香りに満ちて彼女を守っていた
ここ数日の間に、柔らかく膨らんだ花びらの隙間を通して入ってきた光が、彼女に色を教えてくれた。彼女を包む花びらは、輝く紫色だった。花粉のベッドは、ふんわり明るい柔らかな黄色だった。彼女は紫色とか黄色という言葉は持っていなかったけれど、その美しさを喜びに変えて、素直に微笑みながら、小さな全身に染み込ませた。
その色が定期的に現れたり消えたりするので、耳に聞こえる物音と重ね合わせて、賑やかな昼と、静かな夜を知った。獣より人が多い町だった。他のつぼみは既に咲き始めていて、彼女が生まれる時も間近だった。
ふと、花の精は何か気配を感じて、身をすくめた。つぼみの外では、母親に手を引かれた女の子が一人、道ばたにしゃがみ込んで、先に咲いた花に手を伸ばしたのだった。どきどきするような嬉しい緊張感だった。今まで、自分の存在に興味を持つ人がいない、独りぼっちの花の精だったから。
「汚いから、さわってはだめよ。」
女の子の母親の声だ。手を地面に付けると汚れてしまうと言うことを注意したらしい。素直な子で、イヌノフグリに伸ばしかけた手を引っ込めて母親を追って去ってしまった。
『私は汚れているの?』
花の精は、無垢な色に包まれて、わくわく感激していたのに、今は、自分が汚れているのだと知って悲しい。
花の精の震えるつま先が、閉じたつぼみを内側から蹴った。花びらの感触はしっとり柔らかくて、膨らみかけている。花の精がこの世に生まれるときが迫っていた。
花の精の気持ちを表すみたいに、つぼみの中から光が消えた。外から聞こえる音も、随分静かだった。そう、外の世界は夜を迎えていた。ずっとこのつぼみの中に閉じこもっていたい、花の精はそう思った。
そのとき、
『あっ、あ、あ、あ、あ。』
花の精の気持ちは言葉にならない。花の精を柔らかく包んでいた花びらがゆっくり開き始めた。驚きと不安。少し怖かった。
その気持ちを考えてみて?
汚れていて、何の力もない自分が、この世界に独りぼっちで、放り出される怖さだ。
新しい世界が花の精の前に広がった。ひんやりした風が吹いていた。優しい柔らかな風の音は、暗い闇に溶け込んでしまったみたいに静かだった。その風は音の代わりに、香りを運んだ。今までの甘い蜜の香りに代えて、ちょっと、汗くさい。さっきまで傍らにいた子犬の匂いかもしれない。でも、そんな生き物の匂いは花の精をわくわくさせる楽しさを持っていた。
闇の中だけれど、外の景色には、ほんのり色が付いている。空を見上げると、丸く光るものが浮かんでいて、あちこちで小さな光が赤や青や紫、様々に色づいて明滅していた。花の精は「月」や「星」という言葉を知らなかった。でも、名前も知らない光が、黙ったまま花の精を照らしてくれていた。光は花の精の花びらが、うっすら紫に見えるやさしい光だ。花の精はそんな景色に包まれていた。
最初はちょっと残念だった。空の一部が明るくなって月や星が消え始めたからだ。
次の瞬間に、嬉しさがこみ上げてきた。空はくっきり晴れて雲一つなく、透き通って眩い光を、混じりっけの無いまま花の精に伝えていた。これが、きっと、つぼみの中にいた時の彼女に、「色」というものを教えてくれた光だった。太陽の光は心の中まで見通すぐらいに強く、全てを公平に見通すくらいに広く世の中を照らしていた。
でも、花の精は大事なことを思い出した。
『私は汚れているの?』ということだ。
花びらは大きく開ききって、もう花の精を隠してくれない。既に日が空高くのぼって、隅から隅まで照らし出して街路に行き交う人々が途切れることがない。
花の精は2本の雌しべに、しがみつくみたいにちぢこまってしょんぼりしていた。日が傾きかけるまで、じっと。人が誰も醜い自分を見て、気分を害しないように。
途絶えかけていた人の流れが、再び戻って来たのは、人々が仕事を終えて帰宅する時間だからだ。
誰に教えてもらったわけではないけれど、花の精はあの陽が沈む頃に、自分の命が尽きることを知っていた。彼女は、また、汚れて醜いと信じていた自分の体を小さくして、人に気付かれないように人の流れが途切れるのを待っていた。
「あらっ?」
突然に、花の精は、そんな人の声に緊張して雄しべにしがみついて花粉まみれになってしまった。ただ、行き交うだけだった人々の中で、たった一人、足元の小さな花に気付いてしゃがみ込んだからだ。
その小さく驚いた人は指先で花を撫でながら、この株に最後に残った紫色の花を楽しんでいるみたいだった。
珍しい花ではないけれど、子供の頃、慣れ親しんだ花を見つけて懐かしかった。
この人はちょっと仕事に疲れていたのかもしれない。でも、そんなことを相談する人がいなかった。そんな時に、道ばたの小さな花に、子供の頃を思い出してほっとした。
女の人はすぐに去ってしまったのだけれど、ほっとした、その穏やかな心が花の精に伝わって、温かく残っていた。
花の精は泣いた。何もできないと思っていたのに、誰かの心を和ませることが出来た。それが嬉しかった。陽が西の空で紅く変じて、空を染めていた。暖かな心で見る夕日が花の精をくつろがせ、彼女は、短い一生に思いをはせた。夜空の星や月の優しさ、朝日の公明な輝き、夕焼けの温かさ。この世に生まれて、本当に良かったって思ったんだ。
「ありがとう。」
彼女の声が聞こえたら、きっと、満足気な声だったに違いない。
物語を読み終わった後、ちょっと注意して歩いてみて下さい。オオイヌノフグリ。皆さんが気付かないうちに、身近で咲いている小さな可愛い花です。
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