第35話 『ニコ・ハワドの冒険』
これもまた、ある日ある時の物語である。
とある冬の日、竜の娘が人間っぽい若者に恋をした。
それが果たして正常なる恋だったのか確かめる術はないが、ともかく一匹と一人は結ばれた。竜の娘は人の習慣に対して最大限の譲歩を示し、村人もこれを受け入れた。拒んでも居着くのはわかっていたし、なにより若者は村人の恩人だったので彼の気持ちを大事にしようとした。
竜の娘はよく働いた。
畑を拓き、羊の世話をし、網を引いた。糸を紡ぎ布を織ることも覚える頃には村人は竜の娘を身内と思うようになっていた。やがて春が訪れ、村の全てが祝福する中で竜の娘は問うた。
「ところで子供はどうやって作ればいいのだ?」
華やかな結婚式の場が一瞬で凍りついたと村人は後に語った。
村の長は若者を家の中に招き、こう尋ねた。
「子を生す事は可能なのかね」
「頑張ってみます」
それ以外の言葉を言いようがなかった若者は平静を装いつつ、そう答えた。むしろ問題なのは竜の娘に子育ての概念があるかという事であり、若者はそれが天地の理を説くことよりはるかに困難な仕事だという事を理解していた。
【赤子と竜の血】
あくる日、若者は竜の娘を連れて村の一軒を訪れた。そこには臨月の妻とそれを気遣う夫や子供達がおり、今まさに産気づいたところだった。若者は産婆を呼び、竜の娘は手伝いに駆り出され、数刻の時をかけて子が産まれるのに立ち会った。ところが生まれたのは双子の男子であり、この地の風習において双子は忌むべきものだった。いかがすると訪ねる竜の娘に、産婆は表情を殺してこう言った。
「一方を天に返す」
村の衆が泣き叫ぶ妊婦を取り押さえ、産婆は骨の短剣を振るい赤子の一方に突き立てようとし、しかし刃は竜の娘が咄嗟に差し出した掌を貫いた。驚く産婆を制し、竜の娘は一方の子を抱き上げると掌より流れる血の一滴を赤子の口に与えた。泣き声を上げていた赤子は血の伝う指先を口に含み、そのまま眠る。霊薬の源たる竜血を口にした赤子はその身体を変質させ、竜の娘に似た赤子となった。
「捨てる命ならば頂戴する」
産婆は言葉を失い、妊婦は意識を失った。竜の娘は、この赤子を我が子として育てたいと若者に申し出て、若者は辛うじて意識のある父親に何度も頭を下げて許してほしいと願った。犬猫を飼うのと理屈は違うが、このまま死なせては母親も竜の娘も悲しむばかりだと訴えた。既に竜の娘は赤子を手放す意思もなく、一昼夜をかけての説得に父親は遂に折れ、件の赤子を養子に出すことにした。村長はこの数奇なる生まれを持った赤子にニコラスという名を与え、せめて神の加護あらんことを祈り祝福した。
これがニコラス・ハワドの生い立ちである。
ニコラスは驚くほど元気に育った。
育ての親は、父も母も尋常なる人間ではない。人の理を知らぬ母は羊の乳に己の血を少し混ぜて与え、己が知る限りの旧い物語を聞かせた。並の赤子ならば骨は砕け臓腑も潰れるであろう母親の抱擁と頑張りだったが、ニコラスは耐えた。どれほど手練の剣士であろうとも逃げ出す過酷な環境だったが、逃げるという言葉をまだ知らぬニコラスは最初の三日で首がすわり、十日で這い出し、月が二度満ちる頃には立ち上がるようになった。
「馬の子は産まれて直ぐに歩き出す、ニコラスは馬ではないから急くこともない」
人ならぬは母。共に生まれた双子の兄は、いまだ揺り篭の中である。ニコラスは産まれて半年も過ぎる頃には父の連れる羊の背に乗り、ほどなくして言葉を発した。尋常ならざる育ちの早さは村人を驚かせたが、父母に比べればよほどまともな子として育った。母に昔話を聞き、父と共に羊を追い、たどたどしい歩みは一年経つ頃にはしっかりしたものになり、村人をまた驚かせることになる。
【ニコラスと賢人】
ニコラスが三歳の春、村を一人の賢人が訪れた。全身を紅の衣で包み、ふしくれだった樫の杖を担いだ男の賢人は不可思議なる子供の噂を聞き付けてやってきたのである。賢人は村の広場で遊ぶ子供達を見て、どれがニコラスなのかと村人に尋ねた。だが村人はこう言った。
「ニコラスは羊を追って草原にいますよ」
賢人は驚き、村より出て海に至る草原を見た。濃い緑の草は海からの風に揺れ、その中に金色に輝く美しい羊たちがいた。ただの羊ではない、険しい山間に棲む大角羊さえ見劣りする見事な体躯を持ち、ちょとした牛ほどの大きさはあろうかという羊の群だ。蹄は岩を割り砕き、見事な円を描くその角は山鬼などいとも簡単に突き殺してしまうだろう。賢人は今までそのような羊を見たことはなかった、それが羊だと言われたところで到底信じられるものでもなかった。金色の羊三百頭は大地を揺らして突き進み、賢人の前で歩みを止めた。群を統率する一際大きな牡羊の頭上、そこにはごく普通の男の子が馬にまたがるが如く乗っており、慣れた動作で羊より降りると不思議そうに賢人を見上げた。
「こんにちは」
男の子は頭を下げて挨拶をする。村の広場で駆けて遊んでいるような三歳の子供と変わりはない。だが三百頭の金毛羊……おそらく猛々しい山鬼の群さえ逃げ出すだろう地上最強の草食獣の群は、この子供を守るように立ち止まり、その指示に完璧に従っている。
「こんにちは、君がニコラスだね」
賢人は声を震わせつつ問えば、子供は笑顔ではい、と返してくる。ニコラスが片手を挙げれば羊たちは散って草を食み始め、群を統率する一頭の背より皮袋を下ろすと木の椀に羊の乳を満たして賢人に差し出した。遊牧の民のしきたりであり、咽の乾いた賢人はありがたくそれを頂戴した。蜜のように濃厚でありながら清水の如く口に味が残らず、また渇きを覚えることもない乳の味に賢人は何度も驚き、ニコラスは三度空の椀に乳を注いだ。
賢人はニコラスに乳の礼を言い、そのまま去ってしまった。
【ニコラスの最初の冒険】
ニコラスが六歳の夏、育ての母たる竜の娘が身篭った。村人は祝い、父と母は素直に喜んだ。ニコラスは自分を育ててくれたのが本当の両親ではないと知っていたが、父と母を祝いたいと考えた。そこでニコラスは自分が大事にしている金毛羊の毛を刈って糸を紡ぎ、それを市場で売ろうと夜中に村を出た。
森を歩いて最初に出会ったのは狼の群だった。だが狼たちはニコラスを襲わず、ニコラスを囲む狼の群の中より空腹の子供を連れた母狼が現れる。母狼は低い唸り声でこう言った。
『お乳が出ずに困っているの。旅の人、乳を持っていませんか?』
「羊の乳でよければどうぞ」
ニコラスは羊の乳を木の椀に満たし、狼の子供に与えた。狼は喜んで乳を飲み、そのまま満足そうに眠った。母狼は何度も頭を下げて去ろうとするが、ニコラスはそれを呼び止めて母狼に不思議な丸薬を与えた。すると母狼は乳が出るようになった。
『ありがとう、旅の人。あなたの名前を教えてください』
「ニコラス・ハワドだよ」
狼たちはニコラスを森の出口へと案内した。何十頭もの狼が一緒だったので、森の出口で待ち構えていた追い剥ぎたちは震え上がって逃げ出してしまい、明け方にニコラスは無事に森を抜けることが出来た。
街に至ると市場は休みで、毛織の商人は済まなそうにこう言ってきた。
「すまないね、坊や。糸を紡ぐ職人も布を織る職人も今はいないんだ。だからせっかくの羊毛を買い取ることができないんだよ」
街には大人も子供も人が少なかった。ニコラスが訊ねると商人はこう言ってきた。
「耳なが王女様が行方知れずになったのさ」
「耳のながい王女様?」
「ああ、行方知れずになった王女様を探し出せば王様が褒美を下さるからね」
でも誰も耳なが王女様の顔を見たことがないから、探すのに手間取っているんだよ。そう商人は笑い、ニコラスに気をつけて帰るように言ってくれた。肩を落としたニコラスは森を歩いていたが、その途中で今度は動く人形に出会った。
人形はぼーっと立っている。ニコラスは何をやっているのかと訊ねたら、戦が終わってなにもする事がないから立っているのだと答えた。すると人形はニコラスが背負っていた袋の羊毛に気付いて、糸を紡がせてくれないかと申し出た。ニコラスが頷くと人形は驚くほど早くそして細かい動きで糸を紡いでしまった。道具もないのに人形は、とても綺麗な糸を作り上げてニコラスに渡してくれた。
『他に羊の毛はありませんか』
人形は言うが、ニコラスはないとしか答えられなかった。だが人形があまりに悲しい顔をするのでニコラスは森を歩き、翡翠色の山繭を見つけて差し出した。
「この繭からも綺麗な糸を紡ぐことが出来ますよ」
父と母が教えてくれたことを思い出して、ニコラスは繭から糸を作るやり方を教えた。人形が喜んで山繭を拾い集めるのを見て、ニコラスはそのまま森の奥を歩いた。もといた村に帰ろうとしたのだけど、ニコラスは気がつくと蔦で覆われた古い古い砦にたどり着いていた。もう壊れて動かない人形たちや、石となった骨の獣達が苔に覆われている。
森を遊び場にしたこともあるニコラスだが、こんな場所は初めてだった。
「ぼくは迷子になったのですか?」
ニコラスが言うと、砦の奥から
『そうだ』
と声がした。
『只人の子が、隠し砦に来られる訳はないのだが』
苔を踏んで現れたのは角の生えた怪物だった。牛の頭に熊の体、それに蝙蝠のような大きな翼が背中から生えていて、尻尾は大蛇だった。大人が見れば驚いて逃げ出すだろうが、ニコラスは平然としていた。育ての母親の方が怒らせたら恐かったし、怪物はニコラスに敵意を持っていないのがわかっていたからだ。
「こんにちは、ぼくはニコラス」
ニコラスは丁寧に頭を下げ、怪物は近くの石階段に腰を下ろした。それでも怪物の背丈はニコラスの倍はあって、話をするためにニコラスは上を見上げなければいけなかった。
「ひとりだったの?」
『ああ、ずっとひとりだった』
牛の顔で笑みを浮かべ、怪物は答えた。
『この姿はとても恐いだろう、だからずっと独りでいることに決めたのさ』
「ひとりだと、ごはんが美味しくないよ」
ニコラスは泣きそうな顔で言う、これには怪物が困惑してしまう。
『私はずっと今まで独りだったんだ、だから構わないんだよ』
「じゃあ一緒にごはんを食べよう。きっと楽しいよ」
ニコラスは羊のチーズを取り出して半分に切った。その半分を怪物に渡して、ニコラスは自分の身の回りのことを話し始めた。村のこと、羊のこと、自分を育ててくれた両親に、今でも仲の良い本当の家族。それでもニコラスは自分が本当の両親と暮らすことができないこと、育ての親に子供ができて自分の居場所がなくなってしまうのかもしれないということを言った。
「お母さんに子供が生まれたら、ぼくもここで一緒に暮らすよ。それなら寂しくないでしょ?」
『ニコラスは、村に居場所はないのか』
「ううん。でも、ぼくはここにいるよ」
『どうして』
「ぼくの代わりはもうじき生まれるから、お父さんもお母さんも大丈夫。でも、ぼくがいなかったら、きみはずっとずっとひとりぼっちだよ」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ニコラスは微笑んだ。
怪物もまた、泣いていた。それはニコラスを憐れんだからであり、怪物である自分のそばにいてくれると言ってくれたことが心底嬉しかったからだ。
『ああ、かわいいニコラス』
ぎうっと抱きしめながら、怪物は女の声で呟いた。
するとどうだろう、先ほどまでの恐ろしい怪物の姿は消え、美しい半妖の娘がニコラスを抱きしているではないか。宝石のように透き通った紅の髪と瞳、それに白い肌。尖った耳は、ニコラスの耳よりすこし長い。
『お前のような子がいるのなら、私は人に絶望せずに生きていける。ありがとうニコラス、わたしは独りではない。お前だって独りではない、お前のような子を憎み捨てる親がどこにいるというのだ』
半妖の娘はもう一度ニコラスを抱きしめて、その頬に祝福の接吻をした。
二人が古い古い砦を出ると、そこには森で出会った人形と狼たちがいた。人形は金毛と山繭で織り上げた美しい衣を、狼達は星樹の果実を、それぞれニコラスに渡して森に消えた。衣も果実も、都のどんな仕立て屋や宝石職人でも作ることのできないような、とてもとても美しいものだった。半妖の娘は驚き、これをどうするのかと尋ねた。
「お父さんとお母さんに、おくりものを買いたいです。だから次の市が開いたら、これを美味しいぶどう酒や食べ物に交換してもらいたいです」
半妖は言った。
『もしよければ、この衣と果実を私に売ってはくれまいか』
半妖は、衣や果実に劣らぬ美しい娘だった。ニコラスは、この娘にこそ衣も果実も相応しいと思い、喜んでそれを与えた。三日後に代金を支払うと伝え、二人は森の出口で別れた。
果たして三日が過ぎた。
ニコラスの住む村に、半妖の娘が約束どおりにやってきた。
『衣と果実の支払いに来たぞ、ニコラス』
出迎えたニコラスを抱擁しながら、金毛羊の衣の上に金鉄を織り込んだ紺碧のマントを羽織った赤毛の娘は、何十人もの騎士と、何十台もの馬車を運んできた。馬車には極上のぶどう酒樽や珍しい食べ物などが山と積まれ、騎士たちはニコラスの家に至る道に花弁を散らし槍を掲げた。
驚く村人に挨拶をしながら、猛禽の騎馬にまたがりニコラスを乗せた娘は村の中を進んだ。騒ぎを聞きつけた村長が半妖を見れば「なんと耳なが王女様ではないか」と一言発し、そのままひっくり返った。
こうしてニコラスは耳なが王女エリスと出会ったのである。
――これら碧国に伝わっている昔話は、紅国に伝わる物語と明らかに異なる部分が存在している。雷王女の誕生以前に二人が出会っていること、最初からニコラスが耳なが王女にプロポーズめいたことを述べていること、出生不明のニコラスに実の両親が存在すること、そして竜の血がニコラスに与えられたという描写は、明らかに現実とは異なる。よって本文献は事実誤認あるいは特定の人物にとって有利となるように捏造された作り話であると断定される。
なお本文献の内容を巡って実母と叔母ならびに両親の間で口論があったことを追記しておく。【フェリス・H・シアノイド著、魔法学舎定例報告第六十三号より】